文芸船

ビターチョコの解法

 たぶん、僕は変わった子だと思う。まず物理学科に行くのは変人だし、ファッションにもあまり興味がなくていつもジーンズに適当なシャツを着ているし、ちびっ子でショートカットでちょっとそばかすもあって、おまけにコンタクトレンズが怖いからって眼鏡で、つまりは魅力的なはずはなくて、そんな僕がストーカーなんてされるわけがない。そういや僕、って言っている時点で変人だろう。僕は大学三年生の女子なんだから。

 とにかく。そんな僕なのにここ最近、何か視線を感じるのだ。もちろんバレンタインデーが近くて同じ学科の男子が浮き足立っているのはわかるし、その視線ぐらいは流石に鈍感な僕でも察知はしている。そして彼らへの心付けというか餌付けというか、そういうのは学科女子全員でお金を出し合って配ることにしている。その辺りは三年目ともなれば男子もわかっているし、多くの男子が期待している女子学生が誰かもだいたい見え見えだ。

 こういうところは文学部心理学科の美姫ちゃんに言わせると、数学科って純粋坊やで色々と実験のやりがいがありそう、だそうだ。お前ら文学部のヒロインちゃんからは、彼氏候補じゃなくモルモット候補として意識されているぞ、残念だな。

 視線の原因は大体想像がついている。おそらく涼君のお母さんの差し金だろう。涼君は僕の家庭教師先の生徒で中学二年生だ。出来が悪くて仕方なく家庭教師を付けているのではなく、むしろ優秀で、そして母親が過保護だからだ。母親は女医でシングルマザーだが、いいとこの娘らしい。端的に下品な言い方をすれば、金はある。そんなわけで一粒種の息子には家庭教師を、そして最近は家庭教師の僕に何かの疑いでもかけているのか探偵さんを、というわけだ。

 何かというか変な勘ぐりかもしれない。だって先週、バレンタインデーはどこかデートにでも、と言うから彼氏とかいないですよ、と笑ったらちょっと引きつった顔をした。余計なお世話だ彼氏なんかいないしとくに予定もないやい。

 涼君はそんな過保護な親に育てられているからか、持ち前の性格なのかどちらかと言えば内向的で、さすがに男子だから僕よりは背が高いけれどひょろっとした感じでスポーツは苦手だそうだ。最近は数学に興味を持ってくれて嬉しいが、物理ではなく経済学の方に興味があるらしい。あれも数学は使うけれど、ちょっとお姉さんはあっちの分野は苦手だ。数学を使っているからと本を読んでみたけれど、シカゴ学派とかいう人たちの何というか、ガツガツ感というか俗っぽい感じがちょっと苦手なのだ。やっぱり僕は物理学科で正解だったと思う。

 そんなわけで明日のバレンタインデーで男子学生へ配給する餌、じゃなかった義理チョコ一式を整理して学科の女子たちと別れ、何となくまたチョコレート売り場へ戻った。ふと涼君の顔が頭に浮かぶ。ちょっと驚かせてやろうか。例の視線も消えた。僕は明治のブラックチョコレートを一枚買ってそそくさと家に戻った。


 手作りチョコレート。そんなものを作るのは生まれて初めてだが、高校時代、科学部で実験をやっていたので手先は器用な方なのだ。高校の担任には医学部や薬学部を勧められたが、動物実験が怖いので全く興味がなかった。僕ははじめ、工学部の電子や電気、建築を志望していたけれど、先生に体型を眺められながら「あそこの学生は体育会系だぞ」と言われて止めてしまった。そこで結局は紆余曲折もありつつ理学部物理学科ということになった。

 何を言いたいかというと工作は好きな方なのだ。プラモデルとか実験用ガラス器具のガラス細工とか。蝋燭を溶かしてキャンドル作りなんていうのも科学部でやっていたし。そんなことを思ってチョコをまな板に置いて学生時代の白衣を着ていた僕はやはり何か初めての行動ということで動揺していたようだ。ここは白衣じゃなくてエプロンだろ。ロマンチックの欠片もありゃしない。

 そんなこんなで一応、思った通りのかわいいハート型のチョコレートができた。涼君は最近成績がさらに伸びているし、息子を医者にしたいお母さんには秘密にしているそうだが、彼なりの目標もできたようだしご褒美だ。彼の驚く顔を想像して、僕は何だかくすぐったい気持ちになった。


 講義が終了した足で僕はまっすぐ涼君の家に向かった。呼び鈴を押すと、いつもは涼君が出てくるのに今日はお母さんが出迎えてくれた。

「ちょっと涼のことで先にお話があります」

 はあ、と僕は気の抜けた返事をしてリビングに上がる。お母さんの視線がふと僕のトートバッグに向かい、すぐに視線が逸れる。席につくとお母さんは濃厚なコーヒーを僕と自分用に淹れてソファーに腰掛けた。

「まあ、先生もお若いことですし何というか、まだ成人してちょっとというか。でもうちの息子はまだ十四歳なわけで」

 歯切れの悪い言い方をしながら僕を睨んでいる。僕ははあ、とまた気の抜けた返事をしてブラックコーヒーを口にする。このお母さんと性格は決定的に合わないが、ブラックコーヒー好きだけは気が合うようだ。お母さんもコーヒーをぐっと飲むと正面から僕を見つめて言った。

「まだ中学生のうちの涼に、変な気は起こさないで欲しいな、と」

 はい、と僕は気の抜けた返事をして数秒。はっとして立ち上がった。

「いや涼君ってまだ中学生じゃないですか。僕、大学生でそれはないでしょう」

「だってまだ彼氏どころかその様子もありませんし見た目の洒落っ気も足りないですし、失礼ですが身長ならうちの涼でも」

「身長は関係ないですどうせちびっ子ですが」

「だったら昨日、男子学生への大量買いの後に何か買いに戻ってその何かがバッグに入っているのでは?」

 なぜそれを、と言いかけて口をつぐんだ。そういう視点で僕を監視していたのか。性格悪っ。というか何か立場が悪くなっている。何て言い抜けようか。いや言い抜けるって僕、何もやましいことはないぞ。そう例えば文学部の美姫ちゃんなら、お宅の息子さんにご褒美ですようふふふとか言ってむしろ丸め込んで家庭教師料を逆にアップさせるぐらいするんだろうけど僕みたいな物理学科のコミュ障気味だとどうしようかああ視線がなんかもっとまずくなって。

 いきなり背中の扉が乱暴に開かれ、ぐっと背後から肩を押さえられた。振り向くと涼君が真っ赤な顔をして僕の両肩に手をかけていた。

「お母さん、先生に何を変なこと言っているんだよ。先生を尾行でもしたの?」

 それは、とお母さんが逆におろおろし始める。僕はこれを好機にとこそっと立ち上がりトートバッグを抱えて部屋を出ようとした。だが扉の前で涼君が壁に腕を立てて僕の行き先を塞いだ。

「先生の見た目は悪くないよ、お母さん。というか俺、先生のことが好きだ」

 はい。眼鏡がずり落ちそうになる。中学生とはいえ、男子に上から見下ろされて好きだとか言われて。ああ顔が近い。ふわっと涼君の体温を感じる。じゃなく。お母さんの驚く視線が背中に刺さっている。深呼吸する。冷静になれ。今を切り抜ける方法。足が震える。でも。

 僕は歯を食いしばると、いきなり涼君の頰を平手で打った。なるべくスナップを軽くして、僕の手の方が痛いぐらいの勢いで。でも良い音が鳴る。そして即座に涼君の両肩に手を掛け力任せに押し下げる。僕より視線が下になる。先ほどの男の匂いが軽くなり、あどけない顔が視線の下にくる。かわいい私の生徒だ。涼君は、私のかわいいい生徒なんだ。左手の人差し指で眼鏡を直しながら、右手の人差し指で涼君の額を押した。

「お姉さんに惚れるのは早いぞ涼君」

 次いで振り向くとお母さんを正面から見据え、彼女が口を開く前に言った。

「僕にとって、涼君は生徒です。お母さんから見たら僕も幼いのかもしれないけれど、彼は生徒です。それに涼君は、お母さんが監視するほど過保護にしなきゃならないほど子供じゃない! 進路だって考えられる一人の人間だ!」

 僕の言葉に涼君は立ち上がって言った。

「俺、医学部に行かない。でも先生の気を惹きたくて物理学科に行きたいわけじゃない。先生が『イマイチだよね』って言った経済学をやりたい。数学が楽しくなって、自分で本も読んで、そしたら米国で計量経済学ってのが進んでいるんだって」

 はあ、とお母さんは気の抜けた声を発し、僕に視線を向ける。僕は肩をすくめて答える。

「僕、理論物理ですよ。まだ病院経営とかもあるお医者さんの方が経済学とかわかるんじゃないですか? 僕嫌いだもん、そういう分野」

「私が言うことではありませんけど、バレンタインデーにひどいこと言ってますよ、先生」

 ほんと、お母さんが言うことじゃない。ほら涼君が乾いた笑い声をあげている。お母さんはソファーにがたりと座り込み、ごめんなさい、と小さく言った。


 涼君の部屋に入る。何だか変な空気。仕方が無いので型どおりに問題集を開かせて説明を始める。でも涼君の集中力が全然ついてこない。いや、僕の授業も上滑りしている。ふと僕のトートバッグが目に入った。僕は中から手作りチョコを取り出す。涼君の頰が赤くなる。

「さっきも言ったけど。自分で進路も考えられるようになったからご褒美よご褒美。勘違いするんじゃないよ」

「でも先生、手作りなんですね」

「ご褒美よご褒美」

 涼君は丁寧にラッピングを解き、中のチョコを取り出す。黒いハート型がものすごく気恥ずかしい。だから僕はいきなり横取りして半分に割った。先生、と涼君が悲鳴をあげる。僕は片方を口に咥えて残りを涼君に手渡して言った。

「なんか、ハート型とか、勘違いしそうだし。それにまだ試食してないし。いや美味しくできてる」

 そうですか、と言って涼君もチョコを口にし、急に変な顔をした。私が首を傾げると涼君は悲しい顔で言った。

「先生、このチョコ苦いよ」

「だってブラックチョコレートにカカオを足したビターチョコだもん。美味しいでしょ」

「バレンタインデーと言ったら甘いチョコでしょ。あのブラック好きなお母さんでも甘いチョコだよ」

「うるさい嫌なら返せ」

「先生の手作りチョコは誰にも渡さない」

 言い合って。二人で吹き出した。

 そのあとにやった小テストの結果は、意地悪な難問を入れてあったのに満点だった。


 自宅に戻るとトートバッグを放り出し、すぐに浴室に入った。もう今日は疲れたしこのまま寝るか。熱いシャワーを浴びて今日のあったことを思い返す。面倒臭い母親だったけれど、帰りはむしろ笑顔だった。息子の成長がわかったのだろうか。僕が信用されたのだろうか。涼君がチョコを食べた直後の顔は傑作だったな。それにしても僕もずいぶんと思い切ったことをやったよ。まあ涼君が勇気を出したから、それに乗っかっただけだし、何か涼君の気持ちも少し傷つけちゃったけど、まだ中学生だし。

 まだ中学生なんだし。

 目を開けても手元がぼやける。眼鏡がないからじゃない。何でシャワーだけじゃなく、頰を熱いものが流れるんだろう。止まらない。何かがぽっかりとこぼれ落ちた気がする。何か大事なものを取り落としてしまった気がする。本当に大事なものを、その場の勢いと常識とか論理とか外聞とか、そんなつまらないもので叩き壊してしまった気がする。

 僕は今日、苦い失恋をしたんだ。

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