文芸船

彦星なんていらない

 朝昼食兼用のカップラーメン味噌味を平らげてエディタをぽちこち打ち続け、やっと原稿が一通り仕上がってあとは印刷して赤ペン入れて削り込んで清書印刷して封筒に入れて提出すればバカンスバカンスとはしゃいだところで、俺はふと投稿規定を机の中から取り出した。

 俺が所属している大学サークルは総合娯楽を標榜する一風変わった同人誌だ。最近低迷気味で絶滅危惧種としてワシントン条約に登録しようと言われるとかいう純文学もここ近年一気に台頭してそのまま同じ勢いでしぼみかかっている携帯小説も、さらには経済波及効果もオタク臭発臭効果も最大と謳われるライトノベルも何でもぶちこめ闇鍋雑誌が売りなのだ。増刊号の一つは表看板として文芸誌としてあちこち体裁の良い場所で頒布し、もう一つの増刊号は裏看板としてオタクの祭典こと夏冬二回のコミケでスペースを取って販売する多重人格サークルなのも俺らの生き生きエナジー補給という具合だ。

 で、今年も例年通り適当に会長選をあみだくじでやったら先代会長と打って変わって「エンターテインメントは規律から」とかよくわからん難しいことを言っている長野が会長になってしまった。俺みたいな適当に書き飛ばそうぜという人間とは全く逆のタイプで最近ついたあだ名が鬼軍曹。何だか会長より軍曹が偉くなさそうだとかごつい強面筋肉Tシャツピチピチ野郎を妄想しちゃうとか鬼とまで言うかとか長野が怒り狂いそうな大問題には瑣末と書いた絆創膏を貼って忘れたことにして、俺たちお気楽集団の間では完全無欠に鬼軍曹が定着した。だからと言って書き飛ばそうぜというお気楽集団が派閥抗争とかやるはずないしだるいしで体制も結局変わらずにいるという、俺も何だかよくわからない状況だ。

 で。肝心の投稿規定の件なのだが。要は締め切りとか割り当てとか編集方針とか無視して好き勝手なことするなと鬼軍曹に厳命されているわけ。前回の投稿では俺も私小説を担当しますと言っていたとはいえ、少し毒舌でかわいい美少女暗殺屋を登場させただけなのに扇子で頭を叩きやがる鬼軍曹様だからやっぱり投稿規定は大切なわけ。さらに、そのかわいい暗殺屋のモデルが鬼軍曹だということを本人に気づかれないようにするという最優先絶対防護の大戦線を俺が抱えているせいもあるけれど。

 さて投稿規定をゆっくりと再確認しよう。締め切りは。まだ二週間前、オッケー。原稿はテキスト形式で外字抜き。オッケー。そして枚数は二十枚以内。俺はエディタを再び起動して確認する。総ページ数が左脇にばっちり見やすく純白文字で表示されている。

 三十二枚。さてもう一度投稿規定を読み上げよう。

「はい、二十枚以内」

 独りぼっちの部屋に残酷な現実の俺の声が響く。十二枚オーバー。おまけに今回はファンタジーとはいえお気楽系じゃないから、改行を消して文字ぎっしりにしてどうかするとかとりあえず格好付けに挿入した詩を割愛するとかその他諸々読者様諸氏から舐めるな宣言されそうなほどの超高度詐術を使うことがままならない。

 俺は机に突っ伏した。あと残り二週間だよ二週間。ここ数ヶ月のアイディアをこの作品に全部ぶち込んですっからかんですよ。さあどうする逆境と小手先の誤魔化し技術については自他ともに認める鬼才の俺様でもこりゃどうしようもありません白旗揚げちゃうよ鬼軍曹様。

 とりあえず俺は鬼軍曹様に正直に事情を携帯メールで送ってみる。すると鬼軍曹様からすぐ指示が届いた。

『罰としてそれをレポートにして下さい。なお笑えないと失格です。ちなみに哂えちゃったら先日に君を叩いた扇子の代わりにハリセンを大阪に買いに行って私にプレゼントで。試運転は太鼓並みに空っぽな君の頭です』

 さすが鬼軍曹良いセンスしているじゃないかセンスと扇子ですぜあはははと既にハリセン購入旅行行きの交通案内標識が見えちゃいそうなことを返信メールに書きかけて慌てて消す。駄目だ俺。もうエディタを立ち上げるのも億劫になって俺はサンダル履きで外に出た。とりあえずはコンビニで何か夕食でも買ってからにしよう。

 酔っ払って歩くときは平気なのに、夜にこうして素面で独り歩くと何となく嫌な感じがする。たぶん街灯が少ない上に、この辺は老人世帯が多いそうで早い時間に寝てしまうせいもあるのだろうか。だが空を仰ぐと繁華街では見えない天の川を眺められるのは贅沢なことかもしれない。

 俺は星座を探しかけ、夏の大三角形を見つけられないことに気付いた。雲で隠れているのではない。俺が忘れているだけだ。たしかに大学入試では物理と化学で受けたから地学なんて知らないけれど。星は好きだったから雑誌を読んで小学生のうちに覚えていたはずなのに。

 何だかちょっと悔しい気分になった頃、コンビニの青い電光が見えてきた。俺は小走りでコンビニに入る。とりあえず太らないようにお茶を買い、次いで弁当を探した。太らないようお茶を買ったのは安心して肉系を食べるためで焼肉弁当や豚丼やカツカレーに目が向かう。

「夜食ですか。原稿に苦しむ迷える大羊は」

 いつもなら喜んで振り向くところが、今は最も聞きたくない声が背中から聞こえる。ゆっくりと振り向くとジャスミン茶を手にした鬼軍曹が立っていた。

「長野、会長」

「余計太るよ、その太鼓」

 俺の腹を指差して笑う。他の奴に言われるのは構わないが、長野に言われるとかなりつらい。だが長野は俺の内心に気付かないのか、俺を真正面から見据えた。

「さっきはあんなメールできつい言い方で返したけど、実は締め切り、もう一週間は余裕あるんだよね」

 長野は少し伸び気味のショートカットをくしゃくしゃと搔いて小さく舌を出した。男の子のように腰に手を添え、俺の目を困ってしまうほど真正面から見つめる。

 ファッションからスポーツが得意そうに見えて実は苦手で、小説を書くし童顔だから文系穏やか娘かと思えば毒舌の情報工学専攻でフリーウェアをネットで配布しているセミプロとくる。何だこの第一印象第二印象裏切りまくりの変な女。そんなことを思ってしばらく気にかけていたのが運の尽きなのかついていたのか。長野は目下俺にとって気になる女単独一位で、俺を友達以外の相手には見てくれなさそうな女第一位という有様なのだ。

 長野は俺の持った弁当を見て呆れた声を出した。

「さっきはちょっと悪いこと言っちゃったかなと思ってたんだけど、やっぱ前言撤回しないでおくわ。何この時間からカツカレー」

 きっぱり言われて俺はうつむいてしまい、ふと長野が手に持っているもう一つの商品に目が向いた。

「シュークリームって、それもカロリー高くないか」

「私は、おデブじゃないから良いの」

 明らかに長野がうろたえる。俺は長野が太った姿を想像して、でもやはり本心からは絶対に嫌いにならないだろうなと思ってしまう。見た目はかわいいのだけれど、それ以上に長野の毒舌は何と言うか。

「君と少し釣り合わせてあげようかと思ったのに」

 変に優しいのだ、こんな風に。それがたぶん、原稿の指示は鬼軍曹なのに俺たちが逆らうことなく、ぼんやりと長野の言うことに従ってしまう点なのだろう。

 俺たちはレジを済ませてコンビニを出た。俺は帰ろうとする長野に声をかける。

「送っていこうか。暗いだろそっちも」

 長野は一瞬だけ迷い、首をかしげて笑った。

「ボディーガードが狼さんになったら嫌だし」

 言われて俺はおいおい、と言う。だがふと何だか妙な気分も湧いてしまう。すると長野は言った。

「君の無責任な呆けた文章って、わりと好きだよ。なんて言うか、思い詰めなくて良いよ、って言われているみたいで」

 急に話題が変わったので俺は面食らう。すると長野は独り言を呟くようにして話を続けた。

「頑張らないことを頑張るって、かなり難しい。うちの雑誌をもっともっと楽しくしたいなって思って。でも、うちの同人誌で肩の力抜ける文章を書ける君は」

 長野は空をぼんやりと見上げながら呟いた。

「君は私の頑張っちゃうやり方じゃ駄目なんだよね」

 うあ。何か悩んでる長野。そうじゃなく、そうじゃなく俺は長野みたいな締める人がいないとどこまでもとめどなく文章が宇宙空間までのんべんだらりと悠久の流れに乗っていっちゃうだらしない文章書きなのだけど。でもそんなだらしない話をしちゃうのは気がひけたし第一、俺は文章で書かないと本気で何もまとまらない口から出まかせみたいになってしまう困った体質で。

「長野がいるからさ、まだ俺好き勝手できるかも」

 ああ言ってしまった。何だか色んな誤解を招きそうな抽象格好つけぼんやり殺法第一号な安売り台詞。だが長野はにんまりと笑って言った。

「それじゃまるで私、君のお母さんみたいじゃない」

「彼女じゃなく、お母さん、ママ、おっかさんかよ」

「大きい子供だねー、君は」

 長野にいつもの毒舌が回復してくる。でもあっさりと、彼女という部分だけはしっかりと流されている。頑張っただけの自分に残念賞をあげたくなってしまう。

 長野は伸びをすると再び星空を仰いで指差した。

「夏の大三角形。ベガとアルタイル、そしてデネブ」

 プラネタリウムの説明員のように三つの星を次々と指差して俺の方を向く。俺はへえ、と感心して訊いた。

「長野って星とか詳しいんだ。情報工学なんて室内でパソコン打ってるだけだと思っていたけど」

「サーバーだって大型汎用機だって弄れますよ、だ。ベクトル式なら自作だよ」

 いやそういう専門の話じゃないし情報系は苦手だし。でも俺が指摘する前に長野は笑って言った。

「君の学部って、なんか作業着着て外に行って何やら実験やってるもんね。確かに私たちは部屋の中にいてばっかりだわ。でもね」

 言葉を切って、長野はエコバッグから最新型のタブレットを取り出して起動した。

「外にもPCは持ち出せるようになった。逆に遠くへ出かけるならネットで調べるのがもう常識でしょ。だからITは外に開いている。そして外を取り込んでいる」

 長野は画面を俺に見せた。それは俺が今見ている本物とそっくりの星空で、長野がカーソルを動かすと星の名前、地球からの距離、自転周期などが表示される。

「ハンディ・プラネット。うちの講座で作っているの。いつも手の中に星空を、ってアイディア」

 長野は画面を開発画面に切り替えると、プログラムのコードをざらざらと画面に流していく。俺は理系とはいえ生化学の実験系だからプログラム関係は苦手だ。

「逃げた顔しないでよ。君だってX線回折データ使って分子の熱運動シミュレータ書いていたでしょ」

 そりゃそうだけど、と言って口ごもる。一ヶ月パソコンにかじりついて試しにやってみたけれど、結局でき上がったものは過去の分子モデル専門の人が書いた論文の引用で済みそうな結果しか得られなかったからだ。

「でも私、君の書いていたコードとかコメントとか好きだったよ。結構センスあるかもしれない」

 俺は内心、無理だと思う。最近実験や論文を読んでいて、自分が専攻に対するセンスがないのではないかと不安になってきているのだ。グラフから直観できない。自分の書く文章がどうしてもぐだぐだ流れて型にはまらないからレポートも駄目。目の前にいるセミプロのプログラマーさんが眩し過ぎるのだ。

 ボディーガードは断られたにも関わらず、俺はそのまま長野の後について歩き始めていた。長野も俺がついて行くことが当然のような顔で黙って歩きながら、買った物を入れたエコバッグをリズムよく振り回していた。長野はタブレットをまた操作すると、先ほどの大三角形の一角、ベガをクリックする。するとベガの説明として仙台の七夕祭りの写真が映し出された。

「頭良くないよな、って子が講座にいるんだ。その子のアイディアを私がコードに組んだのがこれ」

 長野がさらに写真をクリックすると、七夕の謂れに併せてベガとアルタイルが織姫と彦星であることの説明、七夕祭りの日程や旅行経路、旅行の感想が出てくる。

「初デートで行ったからハンディ・プラネットに載せたいんだって。頭の悪そうな発想でしょ」

 うん、とうなずきつつも、こんな言い方をする長野はずいぶんと感じが悪いと思う。いや、そもそもこういう厭味のある物言いはする子ではないはずだ。

 長野は俺を見上げるような視線を向け、まくしたてるような早口になって言った。

「頭の悪そうな発想。でもきっと、みんなには楽しい発想。私はただ、それを上手くコードにして先生には褒められたけど」

 日程をクリックすると公共交通機関の説明が、七夕の謂れには小さな物語も出てくる。その動きや色遣いは長野が作った俺たちの同人サイトと似た雰囲気だった。

「私は、君のようにゼロから物を作ることが苦手なの。私の作っているフリーウェアだって、こんなの欲しいって声を偶然見つけたから作ったんだし。君たちみたいに何もない空間から文章を掴みだすなんて、できない」

 言われて気づいた。長野の投稿作品は伝承の翻案だったり二次創作だったりゲーム寸評記事だったり、何かと器用に書けて凄いと思っていたのだけれど、完全な創作の作品は今まで何一つ同人誌に投稿していないのだ。長野はタブレットを折り畳んで空を見上げた。

「もう少し、自由になりたいな」

 長野が会長になったときの「エンターテインメントは規律から」という言葉の意味が今はわかる気がする。何もないところから想像していくのが苦手な長野は、長野らしい方法で面白いものを作りたかったのだろう。長野から俺たちへの、精一杯な宣戦布告だったのかもしれない。

「ねえ、今夜さ」

 言って、長野は俺の顔をじっと見つめた。毒舌を吐くようには見えない童顔ショートヘアが首をかしげる。少し潤んだ目に俺は冷静さを失いそうになった。だが長野は顔を急に背け、少し大きい声で言った。

「暇あるはずないよね。原稿書くはずだから、君は」

 俺は長野の言葉を遮ろうと口を開く。だが、それが一つの言葉になる前に長野は苦しくなりそうな低音で重ねる。

「書くはずだよ、君は。それに私たち、ベガとアルタイルとかじゃないし」

 長野はタブレットの角で俺の胸を突いた。せっかく一緒にちょっと良い感じに星を見ていたのにあっさり切り捨てましたよ織姫彦星見習おう計画。俺がよほど残念な顔をしていたのか、長野は吹き出した。

「話を聞いてもらえて良かった。でも、今は君とそういう気持ちじゃないの。君以外の人も含めてね」

 長野はタブレットをしまった。次いで代わりに先日俺の頭を叩いた扇子を取り出して、定規で測るように俺と長野自身の間に扇子を横に突き出した。

「これが、今の私が安心していられる距離」

 少しお互いに手を伸ばすだけで手をつなげる距離で、でもお互いに息がかかったりはしない微妙な距離感だ。長野は自分の体を中心に扇子をそのまま一周させる。

 それは長野と俺たちの間の見えない薄い壁だ。長野自身が作った壁だけど、その壁を作らせたのはいつも適当に流れているだけの俺たちなのかもしれない。

 でもね、と長野は呟くように言って扇子をエコバッグに放り込むと、俺の背中を乱暴に叩いた。

「君の作品をもらうたび、少しずつ安心できる距離が短くなっていくの。星を一点ずつ埋め込んで、ハンディ・プラネットの暗い夜空が星で埋まっていくみたいに」

 俺は照れ隠しに笑うと、鬼軍曹のふりをしたかわいい織姫様を小説に仕上げてやりたいと練り始めた。

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