文芸船

嵐の日に

 僕は普段閉め切ったままのカーテンを開けた。窓の外は昼間だと言うのに薄暗く、向かいの家の板塀が倒れてアスファルトを叩いている。窓際の木々は葉が茂っているというのに、僕の目には緑を感じられず、薄墨を吹きかけたようにしか見えない。嵐が僕から色彩を吹き飛ばしてしまっていた。僕は慌てて部屋の中を見回した。

 そこは見慣れた部屋だ。使い古した自作系パソコン、学生時代になけなしの金で買ったコンポ、誰が見ても何のまとまりのない文庫と論文誌、漫画の並んだ本棚。安心の吐息を吐いた途端、軽い喘息の発作が僕を襲う。喉飴を口に放り込み、少し落ち着いた隙を見計らって喘息薬を吸入する。元通りパソコンの前に座り、iTunesBGMを掛ける。

 エディタを立ち上げ、暫くキーボードを適当に叩く。一行だけ文を書きかけ、気に入らずにすぐまた消してしまう。そんなことを繰り返すうちに、とりあえず小説サイトの定型部分だけ書いてしまおうかと考える。だが肝心の中身が全く出来てこないのでは結局は無駄にしかならない。とりあえず紅茶でも淹れようと思う。

 段ボール箱を漁ってティーバッグを探す。紅茶がなかった代わりにローズヒップのハーブティーを見つけた。口を開け、マグカップの真ん中にティーバッグを落とす。熱湯を注ぐ。ふと、どんな温度が適温なのかネットで検索でもすれば良かったと後悔するが、もう湯の中で葉が開ききっている。ティーバッグを捨てて茶をすする。そういえばペットボトル以外の緑茶を飲んだのは半年ぐらい前だったかと思い返す。時間がないと思う。何の時間が無いのか自分でもよくわからない。締切はないし、やらなければならない仕事も無い。だが時間がないと自分の中で何かが繰り返し呟いた。

 ぽつり、と物語が走る。僕はエディタに再び向かいキーボードを叩き始めた。

 僕が美術館に行こうと思ったのはただの気まぐれだった。元々絵は好きなのだが、だからと言って誰の絵でも見るという美術大好き人間というわけでもない。どちらかと言えばアンディ・ウォーホルのようなポップアート系を好きなのだが、それでも無名の写実画を見に来たのはたぶん、僕の好きな海の風景が中心だったせいだけだろう。

 「海色展」と名付けられたその展覧会は、日本中の様々な地域の海岸や船、沖からの風景を描いたものだった。海ばかりを描くだけあって、油絵なのに透明感と奥行きのある青は写実が苦手な僕も感心させるものだった。

 一通り見終わって、僕は出口の傍に設けられたベンチに腰掛けた。ぽつり、ぽつりと人が目の前を通って行くところを見ると案外この画家は地元では人気があるのかもしれない。転勤族の僕は地元の話に疎いところがあって、それが時折恥ずかしい気分にさせる。

 また一人、女性の観客が出てきた。ふと、見覚えのある顔だと思う。すると向こうも気づいたのか、笑みを浮かべると僕のところへ真っ直ぐに歩いてきた。岡島、だったと思う。僕は慌てて彼女の名前を思い出そうとした。だが僕が言葉を発するより先に彼女は言った。

「西村くん、だよね? 大学で同期だった岡島だけど。覚えてる?」

 合っていたことに内心安堵する。僕は気持ちを取り繕うように、もちろん、と答えた。

 今、僕の会いたい人は誰だろう。窓の外を眺める。遂に外は夕闇になってきている。とはいえ、別に会いに行く人がいるわけでもない。ふと本当に美術館に行くのも良いな、と思い返す。Webブラウザを立ち上げて市立美術館のサイトを確認する。何だ、特別展は先週で終わりだったのか。

 窓の外を眺める。風が更に強さを増してきた。向かいの板塀が剝がれ、がらがらと道路の上を暴れている。段ボールの中身を確認する。カップ麺もインスタント食品もある。とりあえずお湯さえ沸かせられるのなら食べるに困ることはなさそうだ。だが、そこにある食べ物を見てもあまり食欲は湧かない。もはや細部まで覚えこんだ味が舌の上で僕を哂った。再び機械的にエディタへ向かう。

 岡島が絵を観るとは意外だった。だがそれ以上に岡島にとって僕が絵を観るのはありえない話だったらしい。

「だって何ていうか、あの波涛寮にいた西村くんでしょう?」

 彼女の「くん」を強調する言い方は妙に僕の気持ちをざわつかせた。僕は自分でも不自然に咳払いをして、波涛でアートしちゃダメかよ、と憎まれ口を叩く。岡島はまあそっか、と笑った。

「でも波涛寮って言ったら雪駄履いてる人とかモヒカン刈りとか眉毛剃った柔道部とかそんな人ばっかだったじゃない?」

 僕は違うぞ、と言っても、卒業までいた人は仲間でしょ、とまた笑う。僕もしょうがなく一緒に笑ってから、岡島とこんなに話したのは初めてではないかと訊く。そうね。岡島は言って、急に大きく溜息をついた。

 高橋はどうしているだろう。

 小説を書いていて急に思い出した。入社する前はほとんど話したことはなかった仲だったのだが、偶然に同じ会社に入社しておまけに一緒のプロジェクトに配属されたおかげで妙に話すようになった娘だ。別に恋愛とかそういう関係にはならないし、たぶん発展しないだろう。嫌いではない。むしろ好みなのだけれど、ちょっと僕には手が届かないような気がする。

 それでも最も良い同僚の一人だと思う。高橋の仕事の進め方はかなり僕と似通っていて、ということは強引な気配のある僕とは当然ぶつかることが多くなるわけだが、それでぶつかり合って結局答えを出せることが楽しいのだと思う。それにやはり、学生時代に一緒に実験をやった仲間は違うのかもしれない。そうだ、この人物たちは理系にしよう。

 久しぶりに会って近況の話が終われば昔話になるのが同窓の定番で、当然僕たちもその流れになった。色々話した中で、結局大きく出てきたのは耳石調査の実験だった。卒論の一環というよりは、先輩の博士論文研究の労働部隊という方が適切な作業で、僕も岡島もとにかく大変だった記憶が強かったのだ。僕はあの頃のことを思い出しながら語った。


 頭頂部を削ぎ落とした鮭の頭が番号札を付けられて板の上に並べられていく。頭を一つ手にする。札をピンセットで剝がし、切り口を覗き込む。白い脳と頭蓋骨がはっきりと見えた。ピンセットで脳を摘みあげると、眼窩の裏に透明なゼリー状の微小な塊が見つかる。そこにピンセットを差し込み、硬い粒を探る。

 そっと摘み出す。骨の欠片のようなものが目の前に現れる。それを番号の振られたケースの窪みに押し込み、残った頭を脇のベルトコンベアに投げ込んだ。待つ暇もなく、向こうでは同じ速さで鮭の頭部が並べられていた。僕は新しい鮭の頭を手にした。

「あと一時間ぐらいね」

 岡島が掠れた声で言い、腹に跳ねた鮭の血をゴム手袋で拭う。僕はうなずいてピンセットを握り、鮭の脳に目を凝らした。

 作業を繰り返すうち、まだ活きの良い鮭の頭が脳を摘みあげた刺激で手の中で鰓を痙攣させる。体温があるはずもないのに、なぜか僕は手の中に温かみを感じた気がした。

 耳石は人間にもあるのだろうか、そんな疑問を感じた。先輩は悪戯っぽく笑って、あるけど退化して小さいよ、僕の疑問に答える。

 再び手の中の鮭に目を落とした。もし僕たちも何かに管理される存在だったなら。僕たちも首を切られて並べられ、耳石を回収されるのだろうか。奇怪な発想なのに、なぜか気味悪さを感じなかった。それどころか、並んだ血まみれの鮭たちに不思議な親近感すら感じた。自分の耳石を摘み出したら、と僕は独り苦笑していた。

 ピンセットを握る。優しく脳を摘みあげる。耳石を取り出す。


「実は私も」

 岡島は吹き出して言った。僕が首を傾げると岡島は言い直す。

「自分の耳石取り出したら、ってとこ。私も何となく思っちゃった」

 へえ、と僕は声を上げる。岡島は声をひそめて言った。

「変な話なんだけどね。解剖した方が何となく対象に親近感沸いちゃうの。外見の違いがなくなっちゃって、消化器だ脳だ、って分けちゃったら私も対象も一緒だな、みたいな」

 ああ、僕も何となく納得する。ばらしていくと何でも一緒になる感覚。現象や物質が一つの数式に収束していく際の、一瞬眩暈を起こすような衝撃。僕はそれが好きで理系にいたような気がする。岡島は目を細め、だからって私を解剖するなよ、と言って口を尖らせてみせた。

 カップ麺を食べて時計を見直す。もうあとは寝るまでの時間だ。何となく僕は携帯を手の中で転がした。高橋のことをまた思い出してしまう。携帯の電話帳を開き、職場の区分を選択する。高橋の名前が見つからないことに焦り、そういえば先日、僕の携帯を高橋が勝手に弄っていたことを思い出して他の項目を見てみる。

 案の定、友人の区分に高橋の名前が入っていた。もう一度外を眺める。まだ風が吹き続けている。今月の論文誌をめくる。ちょうど僕たちが仕えていた先輩の論文が掲載されていることに気づいた。高橋の名前を選択する。呼び出し音が鳴る。会えないこの天気だからこそ、久しぶりに仕事抜きの雑談が出来るかもしれない。

 高橋、今ちょっと暇かい。

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