大学に入学して早々、サークルの新入生募集掲示板を前に、俺はうじうじと迷ってばかりいた。
大学生ならバイトと勉強に全力を向けるという道もあるけれど、それだけだと友だちを作れなさそうで嫌だ。
部活抜きでもバイトと勉強、そして青春まで全部をこなせそうな同期の連中は、いかにも高校時代から仲間づくりの得意そうな人ばかりで、俺とは住む世界が違う。それを考えれば、出来合いの友だちづくりの場、つまりは部活やサークルに入っておくのが無難な線だろう。
とはいえ、サッカー部や野球部といった花形の体育部は「高校で戦ったチームでも仲間に」など書いてあり、未経験者お断りの空気を醸しだしている。
未経験者歓迎のテニスサークルはいくつもあるが、どれもキャンプ場でのバーベキュー、ワイングラス、海水浴といったイラストで飾っていて合コン狙いの陽キャ集団という印象で、こんな所に俺なんかが入ってしまったら、サークル内の最下層カーストへとまっしぐらだ。
他にも高校では珍しい、聞いたことのない格闘技などのスポーツ系が初心者歓迎とあるけれど、これらは高校まで時代に全国大会までわずかに届かなかった人が再挑戦の場にしていたりするそうなので、近寄りたくない。
それなら文化系にするかと思えば、まず美術部や書道部は学校の授業みたいで面倒くさそうだし自信がない。
推理小説研究会は面白そうだと思ったけれど、連絡先も集合場所も書いていない。そう思っていたら、隣にいたやせ型の男子がポスターを見ながら「集合場所の謎が解けた」と言って何かをメモしていた。どうも、この何の変哲もないポスター自体が暗号になっているらしい。解けないと入部できないなんて、もう無理でしかない。
映画研究会や演劇部? ないない。舞台で目立つような演技をするなんて絶対に無理。かと言って裏方なんて退屈そうだ。ボランティアサークルは真面目で優しそうなポスターで、その代わり怠けたら叱られそうで怖い。
漫研やゲーム研なんかは楽そうで興味はあるけれど、この手はずっとだらけているか、逆に創作へのめり込む奇人変人集団だったりするので鬼門な気がする。何よりオタク集団という、なんかレッテルがちょっと嫌だね。
似たところでは文芸部というのがあるが、もうなんていうか、くそ真面目がポスターから浮かんで見えるというか、人生を裏から見て楽しいのかよとし思えないし、何よりおちゃらけた川柳もどきを寄稿なんてしたら、脳天に万年筆を突き刺されそうで怖すぎる。
やっぱなんかこのままだと帰宅部しかないのかも。俺はため息をついて後退し、掲示板の全体をあらためて見回してみた。すると隅っこに妙なポスターを発見した。
漆黒の背景に、ほぼ黒に近い灰色で木造らしき階段が描かれており、その階段に被せる形で「恐れず踏破しよう! かいだんは君を高みへ導く」と深紅の筆字で書いてあった。右端には小さく「かいだんぶ」とある。
そういえば、怪奇研究会が舞台のアニメを見た覚えがある。木造校舎の階段を上った先に悪霊が待っているなんて話は、学校の怪談の定番だ。
俺はホラー映画が案外と好きだ。受験勉強期間には、息抜きに八尺様やコトリバコ、きさらぎ駅なんて怪談をよくネット動画で視聴をしていた。ネットで古老を気取る中年おっさん連中は新作がなくなったなんて言っているが、検索すれば実は新しい話が今でも増えている。
怪談が好きとなると変人は多そうだが、ホラー映画のファンは女子が多いなんて、良からぬことも思いつく。
俺はひとまず、部室の位置図をスマホで撮影した。
迷った末、とりあえず俺は怪談部を訪問してみることにした。ただ先輩たちに怖がらせられるだけというのも腹が立ちそうなので、昨夜はネットで新作の怪談を仕入れて頭に入れておいた。
部室はなぜか、体育会系サークル棟の奥にあった。まあ演劇部など、いつくかの文化系も入っているところをみると、空き部屋に押し込まれただけなのだろう。
ようやくたどり着くと、部室の前で黒髪ロングヘアの女子が踏み台昇降運動をしていた。細身の小柄でロングスカート、ブラウスにはフリルがあり、ちょっとお嬢様風で顔立ちは彫りが深い、なかなかきれいな人だ。
俺に気づくと、彼女はきれいな立ち姿になった。
「君、もしかしてうちの部に興味があるのかな?」
彼女は奥の扉を指差す。扉にはとんがり帽子やゾンビのお面、カボチャのお化けが飾られており、真ん中には「かいだんぶ」と横書きで書いてある。
俺が小さく頭を下げると、彼女はすてきな笑顔で偉そうに胸を張った。かわいい女の先輩、なかなか良い。
「ようこそ、かいだんぶへ! さあさ入って」
彼女は扉を大きく開けると、漫画の執事さんじみた大げさなしぐさで奥に手を伸ばした。俺が部屋に入ると、先輩が続けて入り、後ろ手で扉の鍵をかちりと閉めた。
部屋の中をぱっと見回した限り、宗教じみた祭壇などはないが、ホラー映画を連想させる飾りもない。奥には踏み台か階段のような形のソファーがあり、眼鏡をかけた優男風の男子が座っている。さらに一人、筋肉質の先輩がダンベルを両手に提げて踏み台昇降をやっていた。先輩たちなのだろう。とりあえず頭を下げると、眼鏡先輩は手前の長机にあるパイプ椅子に座るよう告げた。
座ると、先ほどの黒髪美人が紅茶を入れてきた。
「初めまして、山階です。よろしくお願いします」
「私は部長のあまとです。『天登』って書くんだ。私にぴったりでしょう。君もすてきな名字だね。ぜひ、君には私たちとともに素晴らしさを感じ取ってほしいな」
彼女は身を乗りだして語りかけてくる。くりくりとかした瞳でじっと見つめられ、俺の頬は熱くなる。
「世間には奇異な目で見る人が多くて、困るんだよね」
「それはまあ、一般には良い趣味と言えるかどうか」
「いや、そんなことはないよ。嫌うのは現代人の悪い所だね。エレベーターなんて論外だし、エスカレーターも邪道すぎる。立ったままで自動で上るという怠け者仕様で、さらにせっかくの階段になっているのに『危険なので歩かないでください』とか、犬のおあずけみたいなもので残酷な仕打ちだと思わないかね、君は!」
なんか目の前の黒髪美人が男子っぽい言葉遣いに変わり、妙なことを口走り始めた。
「階段を一分上れば約四キロカロリーの消費量だよ。ほんの一時間、階段昇降を堪能するだけで、ソフトクリームのカロリーをなかったことにできるんだ。有名な神社仏閣への階段を上り詰めたときの達成感など最高だよ」
「あのすみませんが、この部って」
「ああごめん、そういえばうちの部の伝統でね、外向けには子どもにもわかりやすいよう平仮名で書くという決まりがあるんだよね。正式にはこっちだよ」
彼女は一枚のチラシを俺の前に置く。仲良く手をつないで階段を上るうさきと亀がど真ん中に描かれており、「階段の青春・階段部新入生歓迎会」と書いてある。
「あの、部室の扉にあった飾りは」
「そういや先週、副部長が『新入生歓迎のシーズンに飾りがないと寂しいでしょう』とか言って、どこからかハロウィンの飾りを持ってきたねえ」
「その伝統とか飾りとか、それ詐欺じゃないですか?」
「ポスターにはしっかり階段を描いたよ。階段ファンの私だからこそ描ける、良いポスターだと副部長もほめてくれたんだよ。彼はいつも冷めた男なのにね」
俺は階段型ソファにきつい視線を向ける。眼鏡先輩はさっと視線を窓に向けて「階段に似た雲が」とわざとらしい独り言をつぶやいた。あの人が副部長か。そういえばこの残念美人、部室に入った途端に扉の鍵をかけていた。ご丁寧に筋肉先輩が扉の前に笑顔で立っている。
残念美人は誰もが一目ぼれしそうな最高の笑顔を浮かべると、俺の両手を取って言った。
「階段部へようこそ! ともに高みを目指しましょう」
空間座標的な意味で高みを目指すらしい。
俺はそのまま歓迎会の会場へ引きずられて行った。暴力的にではない。天登部長が俺の腕を組んで引っ張ったのだ。どう考えても残念な女性のはずだが、黙って歩くにはうれしくなる、かわいい女性だ。自慢じゃないが女子と腕を組むなんて小学校のダンス授業以来だ。その腕を振りほどくなんて難しいってこと、世の男子ならみんなわかってくれるだろう。いや女子もわかってくれ。
「今日はこの居酒屋にしよう。この店はロケーションが最高でね、夜景が見えるんだよ。私のおすすめの店だ」
こういう言葉を聞くと残念美人でもどきりとしてしまう。だが天登部長は俺と組んでいた腕をほどいた。
今が逃げる機会だという理性と、もったいないだろうという男性の本能が頭の中で激論を交わし、ぎりぎりの線で理性が勝利をもぎ取った。
俺は男の先輩たちを見返して頭を下げ、後ずさりつつ逃げ出そうとする。すると副部長が耳元でささやいた。
「ちなみに天登部長には、彼氏や彼氏候補がいない」
俺は天登部長の隣に戻り、笑みを向けた。彼女は自分の太ももを両手で二回たたき、大げさな身ぶりでビルのてっぺんを指差した。
「十階にあるのだが、避難用階段が開放されていてね。エレベーターを使わずに階段で最上階まで行けるんだ。飲み会の前に階段を堪能できて、カロリー消費もできるなんて、本当に最高だよね」
逃げればよかった。
少しは期待した俺が間抜けだった。オープンテラスのような眺望でもあるのだろうと思っていたが、典型的な古い雑居ビルの階段で、細長い裸の照明灯がついているだけだ。階の表示は味気ないゴシック体で、どの階の壁も変わり映えがなく、いかにも業務用階段の雰囲気だ。
おまけに、たまに不良の下品な落書きがあると天登部長の足が速くなるから始末が悪い。そのくせ体力は見た目よりあるのか、その後も大して速度は下がらない。
さすがに速すぎるのか、残り二人の先輩たちも沈黙して上り続けている。おかげで道中はずっと俺たちの足音だけが聞こえる。とはいえ、男子勢は全員がスニーカーだからこするような足音で、天登部長のパンプスだけが硬い音を響かせている。その最も歩きにくいはずの天登部長が息も切らせず最速で上り続けるのはひどすぎる。
おかげで俺は、下品な落書きで頬を赤らめる天登部長をじっくりと眺める余裕もなく、ひたすら三人の先輩たちの足音を追い続けたのだった。
俺は緑茶、天登部長はレモン酎ハイ、眼鏡先輩は赤ワイン、筋肉先輩は生ビールで乾杯した。変人集団のわりに未成年は飲酒禁止の辺り、真面目な人たちのようだ。俺はすっかり喉が渇いてしまっていたので、一息で緑茶を空けてすぐにお代わりを注文する。
それにしても、何なんだ先輩たちの歩く速さ。筋肉の先輩はともかく、女性の天登部長も含め全員が、十階まで全く速度を落とさず一気に上るなんて。階段でついていけないなんて、おじいちゃんになった気分だ。
「まだ十八歳なんだから、慣れればもっと歩けるよ」
天登部長の声は優しい。だが先頭にいたこの鬼姫がばかみたいな速度で上るせいで全員の速度がひどかった。
「あらためて自己紹介。僕は副部長の段崎だ。君と似たような感じで入部したクチでね。ホラーも好きだよ」
眼鏡先輩が優しい声をかけてきた。ホラーが好きという点で仲間意識も生まれそうな気はするが、ハロウィンの飾りで積極的にごまかそうとする辺り、吸血鬼が吸血鬼を増やそうとする精神の気もするので警戒しておく。
続けて筋肉先輩がビールジョッキを一気に空けて追加注文すると、初めて言葉を発した。
「俺は豪山だ。趣味は筋トレで、トレーニング室で踏み台昇降を長くやっていたら、天登部長が独占するなと文句を言ってきてな。もめているうちに階段昇降の素晴らしさで意見が一致し、階段部に入部したんだ」
天登部長はグラスから氷を取り出して、空いた皿に手で抑えながら積み上げて階段を作りつつ、俺たちの話をほほ笑んで聞いている。手元を隠せば紅一点のサークル姫だが、一つ一つの行動のぶれなさには狂気を感じる。
「せっかくだし、山階君を連れて青森旅行とか良いな。竜飛岬まで一緒に歩くとか、気持ち良いはずだよ」
唐突な天登部長の言葉に、俺はどきりとしかけて慌てて他の先輩に視線を向けた。副部長は眼鏡の奥に、残念なものを見るような光を浮かべながら答える。
「あれですか、国道三三九号線の階段国道」
「もちろん! 全長約四百メートルで総段数三百六十二段。観光地化しているから、階段求道初心者向け。あと近所に階段村道もあるけど、そっちも案内できるしね」
なんかよくわからんが胸を張っている。続けて彼女はスマホの地図アプリを見ながら言う。
「道南地方の太田神社も良いよね。麓に漁港があって、階段の先には修験者が行く神社があるんだ。潮風が気持ち良いよ。あとは京都の神社仏閣は制覇したい」
「よく、そこまで階段に熱くなれますね」
「熱くなって青春だ的なもの、こう見えてわりと好きなんだよ私。なんか古臭くて、ちょっと恥ずかしいけど」
そこは恥ずかしいのか。つかそこでなぜ階段を選ぶ。
「階段と一言に言っても、木製、石製、コンクリート製と踏み応えが違うし、新しいものは建築基準法施行令のせいでみーんな似たような感じだけど、歴史的建造物は変な角度とか跳ねるほど高いのとかあって面白いし」
「建築、基準法ですか」
「建築基準法施行令第二十三条、第二十四条及び第二十七条で、階段の種類ごとに幅や踏面、踊場位置なんかが決められているの」
「そんな条文までよく覚えてられますね」
「愛があればこそ、だよね」
うっとりとした表情を浮かべる我らが部長。表情だけを見る限りは恋愛ドラマのヒロインだが、口からこぼれる言葉は階段部というよりむしろ怪談だ。
一瞬だけ間に沈黙があり、副部長が口を開いた。
「山階君なら当然知っていると思うけど、十三階段の怪談は知っているよね? あれってこの部が関係しているんじゃないかと予想しているんだよ」
「十三階段って、昼間は十二段で夜になったら十三段に増えるっているいう、学校七不思議の定番物ですか」
「そうそれ。この話の主人公はこの部の部員以外にありえない。もっといえば天登部長のような人のはずだ」
俺はちょっと冷めた目で首をかしげる。すると副部長は眼鏡をくいっと動かして人差し指を立てた。
「怪談の主人公は、昼間に十二段あったと確信を持っている。そして夜に十三段であったことに恐れている」
「はあ、それが何か」
見回すと、天登部長が青い顔をしている。
「昼間に段数が減ってしまうなんて階段がかわいそう。階段の段数を数え間違えるなんてありえないし」
何か頭のかわいそうな人がいる。
「学校にある全ての階段の段数を覚えていて違和感を感じる人類なんて、天登部長だけのはずでしょう?」
「そんな、ほめられると照れるじゃないか」
「たぶん副部長はほめてないっす」
思わず天登部長につっこみを入れる。頬を赤くしていたのにすぐふくれっ面になる辺りは無駄にかわいい。
副部長はいかにも格好つけた姿勢で赤ワインを傾け、ふっと笑って続けた。
「階段をネタに凡人が思いつく怪談なら、歩いても歩いてもたどり着かない階段辺りだと思うんだ」
すると残る二人がそろって首をかしげた。
「筋トレのセット数が数えられないのは怖いな」
「ずっと階段を歩き続けられるってちょっと魅力的」
「お二人とも、理解が違うと思うんですけど」
俺の独り言に、豪山先輩はおっさん臭く笑った。悪い人ではなさそうだけど、どこまでも筋肉なのね。俺の言葉を引き取るように、副部長は遠い目で言った。
「まあそんなわけで、僕はこの部に何となくいるんだ」
「それが理由っていうのもすごいですね」
「あとほら、神社仏閣巡りとか階段のある廃墟の写真とか、なかなか味があるだろ。暗い廃病院の階段を一歩ずつ一歩ずつ、足音を立てながら」
テーブルの下で突然、足音と泣き声が聞こえた。
「何? 何この足音!」
天登部長がぎゅっと目をつぶって身を縮めた。俺は副部長をじっと見つめる。
「あー、部長ごめんなさい。ちょっといたずら」
副部長はスマホをテーブルの上に出した。画面にオーディオアプリが表示されている。ファイル名はネットに転がっている効果音で、俺も聴いたことのあるやつだ。
「段崎君、後で階段昇降運動を百回やらせるから」
「ごめんそれは勘弁してほしいかな」
「人の嫌がることをする子には因果応報!」
握り拳を振り上げる天登部長に、今日初めて近しい気分になった。俺もちょっと脅かしてみたいけど。
週末の午後、俺たちは部長の呼びかけで駅前に集められた。昼の十二時五十九分。向こうから天登部長が必死で走ってくる。
「ごめん、待った? ちょっとぎりぎりになった」
天登部長は両膝に手を当てて呼吸を整える。何をするのか告げもせず集めたくせに、自分はぎりぎりとか。とはいえ走ってくる辺りは真面目なのだろう。
たかが階段のために、なぜこんな熱くなるんだろう。ばかにした思考がよぎったけれど、昨日の天登部長の紅潮した幸せそうな語りを思い出して、なぜか俺はばかにできないような気がした。どこか、負けた生き方をしているような気がして、俺は天登部長から目をそむける。
「山階君は時間に厳しい人かな。遅刻はしなかったけれど、ぎりぎり過ぎてごめんね」
「いえ、そんなつもりはなくて、ちょっと」
僕は慌てて打ち消し、言葉を濁す。天登部長は首をかしげたけれど、すぐに表情を戻して人差し指を立てた。
「今日は消えそうな階段を歩くよ」
天登部長に続いて俺たちは歩き始めた。消えそうな階段。老朽化で壊されそうなビルか何かだろうか。
しばらく歩き、俺たちは丘のふもとにたどり着いた。丘の頂上は公園になっており、俺たちの反対側には車で行ける道路があるそうだ。しかし、俺たちの目の前には公園までつながる、狭く急峻な階段が伸びている。
そして階段の入口には看板が建っていた。いかにも役所が立てた印象の、面白みのないイラストが描かれている。登場人物には高齢者や障がい者も載っていて、バリアフリーについて詳しく書かれていた。
丘の法面にはくねくねとした道が描かれていて、これで車椅子などでも上ることができるようになるそうだ。
「看板なんて後回しにして、まずは階段を上ろうよ」
天登部長は少しだけいらついた声を発した。豪山先輩がまず上り始める。その後ろは副部長、俺、そして最後が天登部長だ。また急かされたらたまらないと思ったけれど、天登部長は意外にゆっくりと俺の後に続く。
階段はどこにでもあるような平凡なコンクリート製だが、かなり老朽化しているのかあちこちが割れて欠落しており、残っている場所にも深いひび割れがある。
「深層クラックだと、補修も難しいんだよ。クラックっていうのは亀裂のことね。工事関係の専門用語だよ。その中でも深いものは補修工事が大規模で高額なんだ」
俺は今まで工学部になんて全く興味がなかったし、経営学部だから工事用語なんて習わないだろうけれど、初めて聞く言葉や実際の物に触れる面白さを感じた。
あらためて見回すと、単に汚いとしか思っていなかった、古びたコンクリートが違って見えてくる。部分的には真っ黒い場所もある。よく見ると他のコンクリートと違って表面が荒く、小石を固めたようにも見える。
「それは道路のアスファルトに似たもので、ホームセンターにも売っているような簡易アスファルトだね」
「アスファルトなんて、ホームセンターに売っているんですか? あんなの、工事用の機械がいるんじゃ」
「だから簡易。穴に詰めて、水をかけてスコップとかでたたくと、普通のアスファルトみたいに固まるんだよ」
そんなものがあるんだ。たしかに、ホームセンターには素人が使えそうになさそうなものをずいぶん売っていた気はする。ただ興味がなかったからあいまいだけど。
続けて天登部長は顔をしかめて白い部分を指差した。
「こっちはただのモルタルだね。まともにコンクリート施工するよりずっと安いけど、そのぶん骨材がないから弱いんだよ。後にも、よく剥がれてくるんだってさ」
「部長って工学部なんですか?」
「階段を調べていて、いつの間にか覚えただけだよ」
独学で覚えられるのか、こんなこと。変人だとは思うけれど、ここまでの知識となると尊敬してしまう。
ただ、聞いているうちに奇妙なことに気づいた。その補修方法がどれも小規模で、人力の範囲ばかりなのだ。俺がそれをきくと、天登部長は不機嫌にうなずいた。
「だいぶ以前から、補修の費用をけちっているんじゃないかな。安上がりにして、そして使い捨てにするんだ」
使い捨て、という言葉に何か寒いものを感じた。少し天登部長の影響を受けているのかもしれない。たかが古臭い階段だろう。それにどうせバリアフリーにするんだし。短期のつなぎなら本格的な補修費はもったいない。
中腹に踊り場があったので、俺は上ってきたあとを振り返った。山のような絶景までは望めないけれど、ピクニックで上るような緩い坂ではないためか、思っていたよりも高い位置にたどり着いていた。
コンクリートの規則的な段と、脇に雑然と咲くタンポポたちの対比が面白い。小さな白い花も咲いている。
風が首筋を吹き抜けた。雑草たちが風に揺れ、階段のコンクリートへ影を落とす。
いつの間にか、副部長と豪山先輩も後ろにいた。
「ウシハコベは飼料として見られがちですが、こうして見ると結構かわいいものでしょう」
副部長はまだわかるが、豪山先輩までうなずいているのは意外だ。筋肉だけの人だと思っていたが、花を鑑賞するような感性も持ちあわせているらしい。
ここまで思ってからふと気づいた。
「ところでウシハコベって、どれですか」
「そこの白い小さい花だよ。ハコベの仲間だよ」
ハコベと言われても、春の七草だと暗記しているぐらいで花はわからないし、七草がゆは実家で食べたことがあるけれど、調理済みだったから葉の形はわからない。
わからないことが多すぎる。階段の細かいことは知らなくても仕方ないと目を逸らしていても、花の名前まで知らないことは、何かに負けた気がした。
「まあ俺も最初は、ビタミンB群やビタミンC、肥満予防になるサポニンが多いから筋肉増強に役立ちそうだってことで覚えただけだがな。だがかわいさはわかる」
俺の内心に気づいたのか、豪山先輩が気を遣ったようなことを言いつつ笑う。たぶん本当なのだろう。でも、筋肉に集中していたはずなのに、視野を広げた先輩は。
俺は何をしてきたのだろう。
ひとまず愛想笑いを浮かべて頂上をにらむ。今はとにかく、集中してこの階段を上りきってみよう。
ついに芝生が見えてきた。頂上にたどり着いたのだ。先輩たちと話していて距離を忘れていたのか、上ってやると集中したせいか、後半はあっけなく上りきった。
それでもやはり、俺は汗ばんでいた。一方、豪山先輩は体力が余っているのか、園内の遊歩道を走っている。副部長は僕を手招きして、階段を振り返らせた。
ずいぶんと歩いたものだ。あと、やはりこの階段では斜面がきつすぎる。高齢者は当然、車で行くに決まっているし、子どもには無理があるだろう。バリアフリーで廃止されてしまうことは、やはり仕方ないと思う。
「ハイキングまでやると装備も時間も必要だけど、お手軽に達成感が得られるって、階段も良いでしょ?」
副部長の言葉に、俺は納得しかけた。上ってみると達成感はある。なくなることに、寂しさをおぼえることはわかる。だがすぐに、天登部長が低い声で続けた。
「でもその階段が、消えてしまうんだよ。老朽化しているからって、更新にもコストが高いからって」
「いつまでも、古いものに固執することはまずいでしょう。だいたい、バリアフリーは現代の重要な情勢です」
俺の言葉に、天登部長は空を仰いで言った。
「そうだね。私だって、誰でもみんながここまで車以外でも来られるようにすること自体は素晴らしいと思う。でも、そんなに機能的じゃないと駄目なのかな」
「だって、階段っていわば道具じゃないですか」
「道具だけど、出会う場所でもあるんだよ」
突然、天登部長は体を近づけた。天登部長は頭一つ分だけ身長が低くて、俺を上目遣いで見上げる形になる。
動悸が強くなるけれど、でもここまで上ってきた動悸との区別に自信がない。それ以上に、入部したときの興奮とは違って。美人なだけじゃなく知識のある先輩で。
変人という言葉よりも、面白いという方が似合う。その面白さは、俺には何も持っていないもので。
それは、勉強量をこなして身につく知識じゃない。
誰かとつるんでいるだけで増える経験じゃない。
俺が、俺なりにつかみ取る何かがないだけだ。
「一緒に上ってきて、この部のことをどう思う?」
三人の視線が俺に集中する。何だろう、歓迎会のときよりさらに壁が薄くなったような気がした。
「少しずつ歩いて上る遊歩道やハイキングと階段は違うんだよ。足を上げて、一段ずつ踏みしめていくの。一段を上れば、その段の高さぶん、高くなる」
天登部長は言って俺の手を取り、一段だけ階段を降りた。そしてすぐに自分だけ元の場所に戻る。
ちょうど俺と天登部長が同じ高さになり、視線がぴったりと重なった。真正面からの眼差しに、俺は目を逸らそうとする。でも天登部長は俺の頭を両手で抑えた。
「ねえ山階君、君は本当は、何をしたいのかな。どこに上っていきたいのかな。君が上りたい階段があるなら、私は、どこへだって上るよ。上る手伝いをするよ」
闇色の瞳に吸い込まれそうになる。天登部長の言っている上る場所は、たぶん現実の階段だけじゃなくて。
ふわふわと流されているだけの、俺の内心が完全に見透かされている、そんな気がした。でもそれは心地よいような気がする。一緒に上ってくれるなんて真剣に言ってくれる人なんて、たぶん、今までいたことはなくて。
友だちづくりなんて、くだらないことを考えて。
平凡にどこかへ埋まろうとして。
ふと、何でここにいるのだろうと思い返した。俺はホラー映画や怪談の部活だと勘違いしたんだった。だからといって、それらに強い熱意があったわけじゃない。
あったわけじゃないけれど。
副部長には負けるのかもしれないけれど。でも、俺がやりたいと思ったものだ。俺にも一つだけ、あった。
「階段にまつわるホラーを集めてみたい、かも」
「それは良いね。一緒にやろうか」
副部長が即座に声をあげた。だが天登部長は少しだけいじけた顔になる。そういえば歓迎会で、怖い物は苦手そうだった。すると豪山先輩は偉そうにうなずいた。
「怪奇が好きな副部長と山階でホラー部会、部長と俺で筋肉部会を作るというのは、一つの考えだな」
「なぜ私は筋肉部会なのさ」
即座に天登部長が口をとがらせる。だが豪山先輩は、暑苦しい分厚い胸を張って当然のことのように答える。
「部長は怖い物が苦手そうだし、階段昇降は好きだろ」
「私だって怖い物が駄目じゃないし。ただのホラーだけじゃなくて、階段が入っているなら大丈夫だし!」
頬をふくらませる部長はやはりかわいい。俺は笑いながら首筋にたまった汗をぬぐった。この階段を上って少しは休んだはずなのに、まだこんな状態だ。俺が筋肉で戦うのは無理そうだ。でも、先ほどまでの変な劣等感は感じなかった。俺の何かを、見つけられる気がした。
天登部長は背中のバッグから無糖の炭酸水を取り出して俺の頬に押しつけ、満面の笑みで告げる。
「今度は君が、ホラー映画の階段を私に案内してよ。私の知らない階段へ、私を連れていってほしいんだ」
先輩のくせに、そんな純真そうな目で俺を見つめるのは勘弁してほしい。俺は頭をかいて炭酸水を受け取り、むせるのも構わずに一気に空けた。
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