文芸船

Preserved Spirits

 気分がくさくさするよ。

 麻紀はうつむいて呟くと足元の石ころをわざとらしく蹴り飛ばした。演劇部にいたせいか、それとも元々の性格なのか、彼女は苛立ちや喜びを少しわざとらしいような表現をすることが多い。

 何となく、何となくなんだよ。

 再び麻紀は呟くように言う。最近、デートの途中でよく彼女が呟く台詞だ。アルバイト先の上司といまいち合わないらしい。そして、それだけでなく。

 それを優しく包んであげられない僕に彼女は苛立っているのだと思う。決して優しくしていないわけじゃない。話だって真面目に聞いているし、お金をけちっているわけでもないし、僕自身がわがままを言っているわけでもない。でも、彼女の。彼女の気持ちをどうしても和らげてあげることが出来ないのだ。

 これを倦怠期とか言うのだろうか。いや違う。終りが近いのかもしれない。でもそれはまだ絶対に嫌で。麻紀は僕を見つめると、でもね、と僕の鼻先をつまんで、私に君は必要だと思うよ、と笑う。麻紀はずるいと思う。僕が逃げ腰になるとこうやって僕を引き留めるのだ。僕に細い細い、綿菓子の繊維のような甘ったるい手枷で僕を捕えてしまう。

 麻紀は何か展覧会をみたいな、と言って小さく笑った。僕は携帯で地元情報を検索してみる。地元の美術館の常設展は、陶器展とプリザーブドフラワーとなっていた。全く聞いたことのない名前だ。だが麻紀はへえ、と言って少し自慢げに説明してくれる。花の水分を保存液と交換して、生花のままでずっと長持ちさせることが出来るのだいう。真紀曰く、ドライフラワーの凄い版、といったものだそうだ。僕は雑学詰め合わせみたいな人間で、麻紀から教えてもらうとのは珍しい。

 麻紀は面白そう、と僕の手を引く。僕も何となく興味をひかれたので、このまま美術館へ向かうことにした。麻紀と美術館に来るのはもう何回目だろうか。初めて一緒に美術館に来たときは、美術館なんて学校の授業みたい、と渋っていたくせに、いつの間にか彼女の方が展覧会好きになってしまっていた。

 僕と逢うまで麻紀が美術館に来ようとしなかったのは、たぶん学校の授業のせいだ。彼女は本当に感性で動く人で、だからこそ学校の授業で使った美術館見学が徹底的に肌に合わなかったようだ。学校見学で観ると絵が死んでいるのだという。一人で来れば生き返るというのか。何だか矛盾した話だが、麻紀の中では全く当然の話らしい。

「だって歴史とか作品の意味とか。そんな解説してる人って、絵をただコレクションしてるというか。ほら、虫ピンで昆虫標本を集める人っているでしょ。あんな感じ」

 麻紀は言ってくすくすと笑いながら、今日の展覧会のパンフレットを受け取った。僕は意地悪に、プリザーブドフラワーって標本に近いんじゃないか、と少し意地悪に言う。麻紀は頰を膨らませて言い返した。

「花は花よ。だいたい、植物は根が生きているじゃない?」

「ちょっと理系みたいな言い訳だな」

 へへ、私理系。麻紀は言って片目をつぶって見せる。超文系の麻紀を理系の僕が理系っぽいと言うなんて変な話だけど。僕たちは笑いあって展示室に入った。

 今日の展覧会は「プリザーブドフラワー入門」ということで、小さい作品には触っても良いということになっている。並んだ花々は本当に瑞々しく、展示室が立派な花壇のようだった。ほとんどはガーベラと薔薇で、とくに薔薇は様々な色と形があり、さながら薔薇の展示会のようにも見える。

「本当に、生きているみたい」

 麻紀は花をつついてみる。麻紀の細い指先に従って花びらが弾力をもって動く。麻紀は順路を無視して興味のままに、蜜を集める蜂が渡って歩くように花々を覗き込んで歩く。

 そのうち、「ジュエル・ボックス」と名付けられた一角に差し掛かった。そこは薔薇のプリザーブドフラワーを宝石箱に詰め込んだものが一列に並んでいた。宝石みたいだ、と僕も感動して振り向くと、麻紀が顔を歪ませて指を噛んでいた。

「宝石、ね。石、みたいだよね」

 僕は訊き返す。麻紀は先ほどとは一転した真面目な表情で箱を指差した。

「全部、生きていたんだよね。でも今は、宝石と同じ。石ころと同じなんだよね」

 今朝と同じように、麻紀は石を蹴るような仕草をして唇を噛む。全部死んでいるんだよね、と言って並んだ箱から数歩、後ずさった。言われて眺めると、それらの宝石箱は一転して棺のように見えてきて僕は身震いする。麻紀は花びらを摘みあげて言った。

「瑞々しい、ミイラだよね」

 力が抜けたように花びらを手放す。一瞬だけ空を舞い、そのまま元のケースに落ちた。麻紀の言葉が聞こえなかったのか、受付の女性は微動だにせずに座ったままだ。麻紀はその姿を見てさらに言った。

「プリザーブド加工って、花だけかな」

 気味の悪いことを言うなと思う。だが麻紀は僕の気持ちを無視して続けた。

「魂とか心っていうか、そんなのもプリザーブド加工できたらどうだろう、って」

 正面から見つめて言う話か。僕は無理に話を逸らしたいと思った。でも何故か、僕も目の前の花びらをもう一度手に取っていた。指先を普通の花びらと変わらない触感が掠れた。この花びらのように心が永遠に変わらなかったとしたら。花びらをぼんやりと見つめて考え込んでいると、プリザーブドスピリッツ、と麻紀が呟いた。聞き返すと麻紀は僕に向き直って言う。

「心変わりのない気持ちなんて、そんなの心のミイラだよ」

 麻紀は言って何枚もの花びらを手の上に載せる。次いでそれを一枚ずつ元の容器に散らせながら続ける。

「何だろこの人って思った。面白い人かも、って思った。わりと優しいじゃないって思った。好きかも、って思った」

 言葉を切って僕の顔を見つめる。

「好きになった」

 最後の一枚が麻紀の手から離れる。僕は半歩だけ、麻紀の傍に身を寄せる。麻紀はそっと僕の手を取った。

「好きだって思ってる私が今、いる」

 僕は頰が熱くなる。でも麻紀は僕に言葉を挟ませず、さらに言葉を続けた。

「いつか、好きな気持ちも枯れていく」

 握り返そうとした僕の手を麻紀は払いのけた。そして言った。

「きっと、君も私自身も嫌いになってる私が未来に立っている」

 麻紀は壁に掛かったプリザーブドフラワーのブーケを指差して言う。

「私の魂、プリザーブド加工できたら良いのに。きれいな今の『好きだ』って形のまま、固まっちゃえば良いのに」

 僕は無理に声を絞り出した。

「僕は、君に水をあげたい」

「水をやったらもっと早く育って、咲いて散って枯れてごみ箱にぽい、だよ」

 麻紀は乾いた声で笑い、再び普通の声で言った。

「でもプリザーブド加工、できないよね」

 駄目だよ、好きになんかなっちゃ。写真を撮る直前みたいな固まった笑顔で麻紀は言った。僕は違う違う、と必死に打ち消す。だが麻紀は僕の手を取って言い返した。

「今の瞬間は好き。明日は知らない。もっと先なんてきっと枯れるの、誰にだって」

 麻紀は強引に僕と唇を重ねる。落ちた花びらが靴底の泥にまみれた。

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