文芸船

白い街

 網走は白い街だ。

 具体的に訊かれると返答に困ってしまうのだが、最初に感じた印象はどうしても白い街なのだ。無理にでも挙げるなら、白鳥と若い女性の肌だろうか。ことに女性は故郷の人たちよりも明らかに色白に見える。これが地域的な化粧法の流行なのか、それとも日光の強さや血筋に由来する本質的な白さなのかは僕にもわからない。

 僕にとって道東は未知の土地で、今回の転勤がなければ全く来るはずのない場所だっただろう。そんなわけで街全体の様子はまだよくわかっていないのだが、ここ数日は雪模様でますます街が白くなるばかりのようだ。

 僕は生まれてからずっと港のある街に住んできたのだが、網走の面しているオホーツク海は穏やかでどことなく色が希薄なのだ。その上、川や湖といった内水面の多さは際立っており、網走で出会う水への印象はこれまで知っている何処とも違うのだ。その淡い水の色も、この街に白い印象を加えているのかもしれない。

 引っ越して半月経った頃、街の中をぶらついていて偶然に一軒の喫茶店に出会った。本来なら見つけたという方が適切なのかもしれない。だが、商店街の裏手に小さな看板だけの、普通なら見落としてしまう店を住んで間もない僕が見つけた僥倖はやはり出会いだと思う。そんなわけで、今日もこの喫茶店に来てしまった。

 頭に被った雪を払って木製の小さな扉を開ける。橙色の照明と手前のストーブの暖気がこわばった頰を緩めてくれた。僕は安堵して上着を脱ぎ、店の中を眺める。

 奥に暗緑色の上着を着た男性が座っていた。彼はカウンターの女性と話すこともなくただうつむいているだけだ。僕は幾つか席を空けてカウンターに腰を下ろした。目の前に並んだサイフォン式のコーヒードリッパーからは沸騰する泡の音が微かに聞こえる。各席のコーヒーカップを置く位置には天井からライトが丸く当てられている。カウンターの奥ではジャズのレコードが回っていて、真空管が中に小さく赤い光を点している。僕はこの独特な雰囲気に惹かれて通っているわけだ。

 一応メニューを眺め、結局はいつもどおりオリジナルコーヒーを注文する。女性は慣れた手つきでコーヒーの粉をドリッパーに入れた。

 隣の男が寒いね、と声を掛けてきた。ぼさぼさの髪と色黒の顔だが笑顔からは営業マンの匂いがする。彼は続けて、十年ぶりに帰郷したばかりなのだと語った。

 二人で黙っていると、古いジャズとドリッパーの沸騰する音だけが室内を満たす。僕はいつもと違う雰囲気に戸惑いながら、ドリッパーの湯の動きを見つめていた。

 少し経って、やっと僕のコーヒーがカウンターに置かれた。濃い目だが悪味のない苦味と、かすかな酸味に舌が心地よく痺れる。隣の男は意外そうに、ブラックなんだね、と視線を合わせずに言った。次いで俺のはホワイトかな、と彼は言葉を落とす。カップを搔き混ぜる彼の手元を眺めているうちに、水面の揺らぎすらミルクの滑らかさを帯びている気がしてくる。

 彼はコーヒーを飲み干すと、皺だらけになった手紙を取り出してじっと見つめる。下瞼が小さく震えていた。僕は覗き込もうかと一瞬だけ思った。だが見てはいけないとすぐに思い直す。僕にそんな資格はない。ただ、店で偶然会っただけなのだから。

 彼は黙って手紙を鞄に戻すと、小さく溜息をつく。思わず、僕も合わせたように安堵の吐息を吐いた。すると彼は首をかしげ、コーヒー冷めちゃうよ、と少し意地悪に言った。僕は返事をせずに再びコーヒーに口をつける。

 彼は合わせるように残りのコーヒーを一息に空けて立ち上がった。声を掛けようとすると、手紙で呼ばれたんだ、と彼はわかっていたように答えて玄関を開けた。玄関前には白の軽自動車が停まっていた。車窓が開き、一人の女性が彼を手招きした。彼は店を出ると後ろ手で扉を閉めた。扉の向こうで車のドアの閉じる音が響き、エンジン音が遠ざかっていった。

 僕は残っていたコーヒーに口をつけた。彼の言ったとおり、コーヒーはすっかり冷めてしまっている。なぜか急に切なくなった。取り残された気がした。冷めきったコーヒーが僕を侘しくさせたのかもしれない。

 僕は彼の出て行った扉をもう一度見つめた。僕も誰かに呼ばれてこの地を去ることがあるのだろうか。その手紙にはどんな文章が並ぶのだろう。想像してみたが、思い浮かぶのは何も書かれていない純白の便箋だけだ。

 冷めたコーヒーを空け、席を立った。玄関を開けると雪が舞っていた。いつか白紙ではない便箋を僕に送る人が現れるのだろうか。そのとき僕は喜んでいるのか、それとも悩んでいるだろうか。

 雪は降り止まない。僕はゆっくりと白い街中へ歩き始めた。

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