田園都市線というのどかな名前のくせに出勤ラッシュの酷い電車が駅に着いた。押しくらまんじゅうの遊びは満員電車に乗っていた未来人が訓練用に伝達した、と言われたら信じてしまいそうな酷い混みようだ。それでもさすがに上京から三カ月以上の勤務を経て、俺はもう慣れた気もする。そんなわけで今日は試しに駅売りの日経新聞を買ってみたのだ。
なぜだ。そんな今日に限って電車事故で電車が遅れ、普段よりラッシュが酷い。鞄すらも人の波で持っていかれそうになる。奥には頭の禿げ上がったおっさんが新聞を棒状に畳んで読んでいる。真似して見ても手をろくに動かせないし、だいたいどうやって次のページをまくっているんだあのおっさんは。もはや新聞魔道師とでも呼んでみたい気がする。
と、列車が急に減速した。リュックを邪魔にならないよう腹に抱えた男がよろけて俺に体重をかけてくる。頼むその鞄の重さぐらいは抜いてくれというかもう新聞なんて持ってらんないというかスマホまで握っているから手革をつかめない。とっさに俺はスマホを口にくわえて壁に手をかけ体勢を取り直す。
ふと横を見ると、棍棒みたいに細い黒髪の女子高生が俺の方を見ていた。彼女はふん、と俺を鼻で笑うとタンチョウヅルみたいに片足立ちで姿勢も崩さずカカカカカ、とスマホで何か打ち込んでまたニヤリと笑った。
冗談じゃない。こちとらヒグマとキタキツネの住む北の大地からやってきて三カ月。数年前に住んでいた町に至っては通勤ラッシュどころか鉄道自体が廃線になった過疎地で、今は仕事よりもラッシュが最初の戦いだ。実は今日は有給休暇をもらって買い物に出るところなのだが、せっかくの休みだと早朝に出たのが裏目に出た。普段、日付が変わってからやっと帰宅できる生活が続いたせいか、ちょっと興奮状態だったのかもしれない。
とにかく押されたまま耐える。耐え忍ぶ。ぐいぐい押されているうちに体の中から何か出てくるんじゃないかという錯覚が起きる。押し合いへし合いが実は何かの呪術的な儀式で、それで人間から押し出された気みたいなものを集めて霊的都市を、みたいな。荒俣宏の小説に出てきそうなおどろおどろしい設定を勝手に想像しながら気を紛らせる。
途中の駅に着くたび、さらに乗客が継ぎ足される。圧力が高まる。また耐える。あと何駅だ何の嫌がらせだ。電車の中に設置された液晶画面を見ると、次の停車駅名は表示されず広告動画が流れていた。ついさっきは化粧品だったが今度は地下鉄沿線の居酒屋でタレントが旨そうに飯を食っている。飯屋の広告かと思ったらこの街に地下鉄で行こうという広告だ。幸せそうな笑顔を振りまいてはいるが、前後がラッシュならげっそりだ。
あと一駅、スピードが落ちてくる。やったもうすぐ駅だ。ようやく逃げられる。やっとこ動く小指だけでガッツポーズを気分だけでもした。と、真っ暗なところで止まる。
「ただいま、先行列車が近いので停車しております。しばらくお待ちください」
列車内に溜息が溜まる。さっきの女子高生がさらに高速で叩きつけるようにスマホに何か打ち込み、鞄の中にスマホを叩き込んだ。
ようやく列車が動き始めた。コンクリート壁が闇色から灰色に変わっていく。照明が目を焼き、駅舎を歩く人の波が見えてくる。渋谷駅に着いたのだ。
渋谷というと若者で繁栄する街という印象だが、最近は衰退も見えているという経済記事も見かける。その一方、ハリウッド映画で渋谷交差点が撮影されたおかげで外国人からも観光場所になっているのだという。俺は渋谷駅に降り立つと、自動販売機に鉄道系カードをかざし、チャージしていた金でミネラルウォーターを買うと一息に飲み干した。
今日は買い物なので、渋谷センター街をはじめ渋谷109、西武デパートのあるハチ公前出口を探す。いつもはもう一つ先の駅、表参道駅で降りるから渋谷駅は未だ慣れない。
そういえば東京に来て出勤準備の際に意味がわからなかったのは、田園都市線と半蔵門線の接続だ。ネットでも駅の表示板でも田園都市線は渋谷が終点、渋谷から半蔵門線が始点となっているので渋谷駅で降りたのだが、その降りた電車を駅員さんが「半蔵門線発車します」とか言い出した。何のことやら必死でネット検索したら、渋谷駅で運行会社が変わるだけで、そのまま乗っていれば半蔵門線という列車に化けるのだと気づいた。よくよくネット検索の乗り換え案内を見ると、そういう化ける電車は表示が乗り換えなのか曖昧な表示になっていた。私鉄と言えば、廃線になったふるさと銀河線と最近独立した道南いさり火鉄道しか知らない元道民には厳しい。
ハチ公前出口は人の往来がとくに激しく、気をつけないと肩をぶつけてくる奴もいるし押されることもある。だがそんな中でも若い女性はピンヒールで人の波を進んでいく。
ハチ公前、と言ったけれど、実はまだ俺はハチ公を見たことがない。ハチ公前というからにはどこかにハチ公がいるはずなのだが、駅前広場に像らしきものは見えない。人の波に加え、何かイベントや選挙演説、政治演説などやっているものだから、ますますどこかに埋もれてしまっているのかもしれない。よくドラマや漫画で、ハチ公前で待ち合わせ、なんて場面があるが、初めて上京した人だとハチ公を探して迷ってしまう。
やっと駅舎の出口に辿り着いた。俺は一瞬出口で立ち止まり、えいやと覚悟を決めて外に出る。途端、全身に熱気が襲いかかった。
べっとりと肌に張り付く湿気と頭をじりじりと焼く太陽の暑さは、北海道から出てきた俺にはかなり厳しいものがある。梅雨の経験がない身なので湿気についてはかなり覚悟をしていたのだが、それよりも直接の暑さがやはり体に堪える。気温は同じ三十度でも、こちらの日差しはオーブンに頭を突っ込んでいるかのように全くの別物なのだ。
俺は中学校以来、ほとんど帽子を被らずに生活してきたのだが、こっちに来て心から帽子が欲しくなって買ってしまった。二千九百円のパナマハット風という奴で、主な素材は紙だという。買ってから素材に気づいて一瞬だけ不安になったのだが、紙も綿も草もセルロースには違いないかと適当な理由付けして納得することにした。向こうでもこんな形の帽子はあったような気もするのだが、札幌や、まして俺のよく歩き回っていた港町は風がよく吹くので、風を遮る帽子のある方がむしろ暑苦しいような気がしていたのだ。アラブ人たちも暑いはずなのに布の多い服装をしているのは、帽子と同じことなのかもしれない。
今日の買い物は革靴だ。その後はどこか美術館にでも行こうか、それとも美味いものでも食ってやろうかと無計画そのものだ。
とりあえず駅前から渋谷センター街という門柱のようなものの立った方に足を向ける。ふと遠くにマルイが見え、あっちも安そうだし良いかなと迷う。
このマルイという店もこっちに来てなかなか曲者の店だった。何だか知らないがやたらとある。でも俺は存在を今まで知らない。その上厄介なことに看板が読めない。謎の記号で丸に縦の棒が二組ときた。アルファベットや、せめて中国語の漢字なら何とか検索してやるのだが、オイオイか。オイオイって何だこの店おいおい。看板も読めない店には怖くて近づけなかったのだけど、ある日偶然見たネット放送で「くまみこ」というアニメがあり、その中のヒロインが俺と同じくオイオイと読んで熊にマルイだと莫迦にされていた。熊に田舎者と莫迦にされた。畜生。それでも今は堂々とマルイと読めるようになったわけだ。アニメ偉い。
そんなわけで迷った末、俺は西武デパートへ向かった。俺が函館市に住んでいた頃は函館にも西武デパートがあり、何度か足を運んだことはある。まだ学生だったこともあり、服を買ったことはなかったが、そのうち店舗再編とやらで閉店してしまった。それでも一応、今はない店舗だとはいえ西武デパートには行ったことがあるということで、安心な気がして、そちらへ行くことにした。
渋谷の西武デパートは本館とか何とか建物がいくつもあり、その中の一つは地下一階から地上五階まで無印良品で占められている。北海道にいたときは最大でもワンフロアだったと思う。無印良品に革靴があったかよくわからないが、ブランド表示なしというブランドというよくわからないブランドの無印良品がビル丸ごとを占拠しているというのは何だか面白い気がして突入することにした。
店内は北海道でも見られる無印良品の店舗レイアウトで安心したのもつかの間、俺は客とぶつかりそうになった。
「エクスキューズ、ミー」
頭上から異質な声が降ってきた。見上げると大きく白字で「唯我独尊」と書いた黒いTシャツを着た、金髪碧眼の髭男が笑顔で手を振っている。俺は頭を下げて道を開けた。
あらためて店内を見回すと、何人も欧米系と思われる外国人が買い物をしている。無印良品は欧米で人気なのだろうか。そういえば北欧系家具とか、ちょっと気取った雑誌なんかと同じような匂いがする店舗だと思う。
俺は適当に店内を冷やかし、次いで目的の紳士物革靴売場を探した。だが建物は複数ある上にブランドで書いてあったりしてなかなか勝手がわからない。やっぱりオイオイじゃないマルイに戻ろうか。札幌でも函館でも、たぶん道内のちょっとした市ならどこでもありそうなABCマートにしてしまおうか。いや渋谷ですよ渋谷。それはもったいない。
でも下手に無印良品六階層、冒険の塔よろしく全階制覇してしまった俺は疲れてしまった。元々は炎天下の漁港を何時間も歩き回ったりしても平気な体力はあるはずなのだが、とにかく田園都市線の押しくらまんじゅうが今になって効いてきた感じがする。
俺はスマホを取り出して休憩、喫茶店、美術館などと思いつきのキーワードを突っ込んでもにょもにょ検索した。スマホが「位置情報を送信してよろしいですか」と尋ねてくるので了解する。それにしてもこう簡単に個人の位置情報が集まると、案外と007みたいなスパイでも「もう尾行は不要なのでリストラね」と言われてその辺のセブンイレブンでレジ打ちでもやっているのかもしれない。
間抜けたことを考えながら検索していると近場の原宿に太田記念美術館というのを見つけた。浮世絵美術館。日本の美術とかろくに興味はないけれど、地方にはないものだしとりあえず近いし気分転換ってことで。
俺はスマホをポケットに入れると再び駅に戻ることにした。
原宿駅を出てすぐに小道に入ると、それまでの喧騒から一転してほとんど人のいない通りになった。すぐそこに煉瓦風の建物があって浮世絵の看板が立っている。
玄関をくぐると、さすが浮世絵の美術館だからか着物姿の女性が何人もチケット売場でチケットを買っている。俺の前に立っているのは中年の上品な服を着た白人の外国人二人組で、フランス語らしき言葉を話している。
今日は怪談特集だそうでお化けやら幽霊やらの絵が中心だという。普通の浮世絵よりも飽きずに済みそうだ。
中に入ると、いきなり一列は浮世絵の手前が畳敷になっており、靴を脱いで鑑賞する趣向となっている。俺の前にいる外国人も周りを見回しながら靴を脱いでいる。
絵は大蜘蛛と鎧武者が戦っているもので、江戸時代の何か怪奇小説のようなものを元に描いたもののようだ。続けて展示されているものもお姫様を守っていたり化け猫が列を作って踊っていたり、何というかライトノベルの挿絵イラストのような。そのぶん肩肘を張らずに見ることができて面白い。外国人の人たちも指差して笑っている。
続けて畳のない普通の展示ブースに移ると幽霊や落ち武者のような絵が増え始めた。そしてしばらくすると一枚の白いト書きのようなものが現れた。「こちらより無残絵、血みどろ絵」とある。外国人の人は読めないのか読んでもわからないのか首をかしげている。
続けてきたのは本格的に無残絵で、斬り殺されるわ首を手に提げているわ画面が血塗れだわ凄まじい迫力だ。だがどれもB級ホラー映画のような適当なものはなく、江戸末期の動乱を批判的に描いたものや、それを揶揄するために戦国時代の逸話を描いたもので、歴史を知っていればなかなか興味深いようなものばかりだったので、絵と解説を目がずっと往復してしまう。
ふと前にいた外国人の女性にまた目を向けると、片方はとにかく首をかしげ、もう一人は顔色がかなり悪くなっている。これ倒れたりするんじゃないかとか外国人にはちょっと難度高過ぎだろとかそもそも説明も中学校の歴史より詳しくないと無理だしとか思いつつ、それでも俺は俺で勝手に楽しんでしまった。
やっと展示室を出ると、俺はそのまま美術館を後にした。再び原宿の幹線に出ると、途端にお化けの影もなく、人混みの中に潜り込んでいく。ぼんやり歩いていると人にぶつかりそうになる。黒人の若い男子がスピーカーで音楽を垂れ流しながら俺を追い越し、目の隅に入ったカフェでは、テラスで白人の男女が小洒落たソーダ水を飲んでいた。
だがちょっと外れには、日本独特で認識の難しい不思議な美術館があって、もしかしたら、さらに奥まった人のいない場所には妖怪変化の狐がアパート住まいに転向しつつしぶとく生き残っているのかもしれない。
原宿駅を通り過ぎ、俺は道路の青看板を仰ぎ見た。渋谷方面を睨むと、道路が落ち込むように下り坂になっている。名前の通り谷になっているのだ。途端、駅の名前の赤坂、乃木坂の意味もわかった気がする。そのまま坂なのだ。東京の街はまだ、日本語で土地の由来がそのまま生きていて。
俺は江戸と未来が入り混じった谷底の街へと歩き始めた。
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