もうやだ、と美咲は独り愚痴って筆を床に放り出した。机には近所で撮った写真が乱雑に積まれ、床には丸めた紙くずの山を放ったままだ。
イラストコンテストに応募を決めてから既に二カ月が経過していた。このコンテストは過去に何人も著名なイラストレーターを輩出しており、入賞すれば大手出版社から声がかかるという。それだけにイラストレーターの卵の美咲は必死だ。冷めたコーヒーを一気に喉へ流し込み、壁に貼ってある「残り二週間」と大きく書いた紙を睨み付ける。首筋を軽く揉んで筆を拾うと、再び椅子に座り直して新しい紙を用意した。
コンテストの課題は「幼い記憶」だ。例年の様子をみると突飛なものは受けが悪い。とはいえ独創性のない作品は論外だ。美咲は人物だけをセピア色にしようとたくらんでいる。単に記憶と言ってセピア色にするだけなら月並みだが、背景を幻想的でカラフルにすることで、人物の思い出としての側面を浮き立たせる作戦だ。そして、この作戦を成功させるには、どうしても頭の中にある本物のセピア色が必要なのだ。
「グワッシュは失敗だったし、インクもいまいち。アクリルは光りすぎるし、透明水彩も駄目そう」
画材の山を恨めしげに見つめる。今までためたバイト代のほとんどはこれらの画材に持っていかれた。もしかしたらひどいアイディア倒れかもしれない。他の考えに移して、得意の油絵で勝負すれば良かったのか。美咲は溜息をつき、今度は本棚のフォトスタンドに手を伸ばした。
「洋二、どうしたんだろ」
憂鬱に目を落とすとまた愚痴る。写真の中では無造作に白衣を着た洋二がいつものお人よしな笑顔ではにかんでいた。
「こんなに苦しんでる彼女よりイカの方が大切なわけ?」
写真に向かって話しかけたところで答えが返ってくるわけでもない。それでも文句を言わずにはいられない。大学院生の洋二はイカを化学的に分析する研究をやっているらしい。一通り説明はしてくれたのだが、今となっては美味しい塩辛の作り方を教えてもらったことぐらいしか記憶にない。
「こら、イカ男。電話ぐらいよこせ」
考えてみればこのところしばらく洋二とは会っていない。洋二が実験に没頭すると周りが見えなくなるのはいつものことだ。こんな変人の上に、見た目だって月並みの彼と何でつきあっているのか尋ねられたら美咲自身も返答に困ってしまう。だが、あらためて自分の周りに並んだ画材を見回すと、自分も洋二のことを批判できたものではないかと苦笑してしまう。
とは言え、今回の連絡なしはあまりにも長い気がする。美咲は何とはなしに不安になってスケジュールを見返した。カレンダーを辿る指が止まる。どう考えても最低一カ月は会っていなかった。慌てて電話のあった日も思い返してみる。
美咲は背筋が寒くなった。洋二は寮住まいの上にメールやメッセージの類もあまりに素っ気ないし、何よりスマートフォンもよく忘れて歩くため、美咲から連絡することはめったにないし、彼からの連絡を待つだけだ。それさえも一カ月途絶えたままだった。履歴を見直してもこの一カ月、彼の声を聞いた記憶はない。さらに先のページを繰ってもデートの約束はどこにも入っていない。彼との仲をつないでいた糸が気づかないうちに途切れていた、そんな恐怖が脳裏を掠めた。今さら嘆いても遅い。絵筆を握る気力は失せてしまった。隅に追いやった電話の沈黙が不気味に思える。無理してイーゼルに向かいかけ、また電話に目のいく自分に気づく。
こうしてしばらく迷ったあげく、結局はスマートフォンを手にした。慣れない番号に気後れしたが、それでも選択ボタンを押す。心臓の鼓動を数回数えたのち、若い男のだらけた声がでた。
『はい、こちら北竜寮です』
「洋二さん、河野洋二さんいらっしゃいますか?」
『しばらく帰ってないっすよ。河野先輩なら大学に泊まってるみたいですけど。何か伝言しましょうか』
「いえ。ありがとうございました」
最後はもうただの呟きになり、相手の問いかけにもきちんと返答しないまま受話器を置いてしまった。
たしかに彼自身、ずっと帰らないことは多いと言っていた。とは言え、あまりに長すぎる気もした。電話の応対をした後輩もどことなく信用ならないように思う。事故はないにしても、困ったことがあったのかもしれない。それとも他の女の人と。冷静に考えればあり得ないようなことまで頭の中を駆け巡る。美咲の心はもうとっくに絵から遠く離れきっていた。
夜になった。もうぼんやりしている時間はない。まだ主役の色さえできていないのだから、計画の変更さえ考えなければならないのに、美咲の胸の内は洋二のことでいっぱいだった。どちらかというと惚れられているつもりでいた。つきあってあげている、そんなことを思っていたことさえある。しかし今の美咲の気持ちは正反対だった。やきもち焼きな娘を笑ったことを思い出して後悔してしまう、そんな自分が情けなかった。
こんな調子でずっと迷っているうちに、隣の部屋から古くさい演歌の声が薄い壁を越えて美咲の部屋まで侵入してきた。これがまた、定番だとはいえよりもよって浮気と待つ女とくるのだから腹の立つ話だ。
歌詞に突っ込みを入れている時点で自分がなおさら惨めに思えてくる。とにかく気を逸らしたくて、美咲はスマートフォンの音楽アプリを立ち上げると、乱暴に再生のボタンを押した。でも、スピーカーから流れてきたのは自分なら絶対に買わないようなテクノ曲だった。洋二が妙に推していた曲だ。むやみに明るい曲調とともに洋二との思い出がスピーカーから押し寄せてくる。曲を止めようとして間違って触ってしまった写真アプリの中では、デート帰りの洋二と自分がこっちを嘲笑っていた。
あの馬鹿、と唇を噛んで毒つく。玄関のドアが洋二との間を隔てる檻に思えてくる。美咲は発作的に玄関のドアを開け放って叫んだ。
「洋二の馬鹿!」
「へ? ええ?」
いきなり目の前で予期しない声が聞こえる。目を開けるとぼさぼさ頭の洋二が面食らった顔で突っ立っていた。
「あの、僕、何かした?」
してない、と言いかけ、さっきまで悩んでいた自分が恥ずかしくなる。途端、目の前でのほほんとしている洋二があまりに腹立たしく思えて、美咲は洋二の耳元で意地悪にやったよ、と呟いた。
「僕、そんな悪いことした? いつ」
「一カ月も連絡なしで何やってたわけ。他の娘だったらとっくに愛想尽かしてるわよ。わかってんの?」
「でも美咲、僕のこと待っててくれたんでしょ」
美咲はまた口ごもり、それでも慌てて反撃に転じた。
「そう。待っててあげたんだから何か言うことないわけ?」
洋二は頭をかいてごもごも言う。美咲は口を尖らせたまま黙って睨む。洋二は溜息をつき、あらためてはっきりと言い直す。
「ごめんなさい。イカに夢中になってました」
思ったとおりの答えに吹き出しそうになったが、それでも美咲はなるべく表情を崩さずに洋二を部屋に招き入れた。だが部屋に招いてすぐに美咲は後悔した。部屋の中はさっきのままで、画材と破り捨てた紙が部屋中に散らかっている。洋二は案の定、そんな紙くずの山に遠慮のない視線を向けた。
「汚いの見ないでよ。締め切り目前なんだから」
「そうだったね。で、狙いのセピア色はできたわけ?」
「何で知ってんの」
「デートの日に言ってただろ? セピア色の画面でいくって」
言ったような言っていないような、どうもあやふやにしか思い出せない。だがそれ以上に、せっかくの現実逃避から連れ戻された不快さに美咲は不機嫌な表情をあからさまに浮かべた。
「やっぱうまくいってないの?」
気の毒そうに訊かれて、やっと美咲は少し素直な表情でうなずく。すると洋二は手に提げていた袋からうれしそうに薬品瓶を取り出した。怪訝な顔で瓶を見つめる美咲に、洋二は妙にうれしそうな表情で瓶を美咲に押し付けて言った。
「これは絵の具。まずは使ってみてよ」
言われて美咲はしぶしぶ瓶を手にとった。ふたを開けると有機溶剤の臭いが漂う。黒っぽい妙な光沢の絵の具だ。洋二を窺うと何やら秘密めいた顔で美咲をせかす。美咲は肩をすくめて絵の具を筆にとると、おそるおそる紙の上に擦りつけた。
塗った後の紙を光にすかして見る。するとそれは、美咲がイメージしていた通りの完璧なセピア色だった。
「どう? 良い色でしょ」
「どこで手に入れたの? こんな色の画材、知らないよ?」
「イカ墨から作った僕の特製インクだよ」
美咲は思わず洋二に飛びつく。洋二は倒れないように慌てて美咲の体を支えながら自慢げに説明した。
「絵の具にイカ墨を使った画家の話を偶然読んでさ。で、さらに調べたら、元々セピア色の語源ってイカ墨で昔は実際に使ってたんだよ」
「じゃ、連絡がなかったのって」
「昔の製法じゃ、キャンバスには上手く乗らない。でも君の得意なのは油絵だ。だから油絵具になるよう改良に馬鹿みたいな時間がかかってさ」
君のため、と言って洋二はさっきの瓶を美咲の手に握らせる。美咲は手を握り返し、笑顔で洋二の頰に久々の接吻を浴びせた。
「ありがと、私の素敵なイカ男」
一カ月後に開催された入選展示会の中央を飾った作品は、青色の海辺で口づけを交わすセピア色の幼児を描いた「マリンセピア」だった。
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