文芸船

先輩後輩

「ですから早くデータを送って下さい。私の仕事も止まってしまいますから」

 若い女性だが甲高くはないきれいな声が弾丸の勢いで僕を責める。最初の電話から事務的な人だと思ったが、ちょっと時間を引き延ばすようなことを言った途端にこれだった。

 実は僕にも悪い点があり、最初から送信用データを整備しておくなり送信用データと他のデータを共有しておくようにすれば良かったものを、とりあえず目の前の支社内データだけ手当てしていたのだ。うちの会社はシステム担当のレベルが低いせいか、全社できちんと一本化したシステムで処理できずデータを手作業で打ち直ししないと動かない。今回はうちとこの電話の相手、高山さんの支社間で売買することになったものだから何やかやと妙なことになってしまったのだ。

「今回の仕事を支社間売買の形で簡易に済まそうと提案なさったのはあなたでしょう」

 ああはいはい、と生返事を返す。ぺらぺらとよく淀みなく喋るもんだこの女、と内心愚痴をこぼすが、相手に非があるわけでもないので文句は言えない。このあと五分ほど苦情を受けてやっと僕は電話から解放された。

「高山さんか?」

 隣席の先輩が苦笑する。首をすくめると、先輩は苦笑して言った。

「高山さん、普段は歳のわりに落ち着いた雰囲気だけどすぐキレるから。ちょっと有名」

 そうなんですか、と僕は溜息をつく。高山さんと僕は年齢が近いらしいが、僕は転職してきたせいで支社間交流会にも出席していないため、当然のようによくわからない。先輩はそういう子だから気にすんなと笑ってから、ふと思いついた顔になった。

「そういや高山さんって、たしかお前と同じ大学じゃなかったか?」

 はあ、と僕は答える。苗字では思い出せないところをみると、同期ではないのだろう。それにここの職場は同窓生が結構いるので話題にならなくても不思議な話ではない。僕は肩を揉みながら、今手がけていた仕事を止めて高山さんの仕事に取り掛かった。


「「あ……れ」」

 僕と高山さんの声が重なる。初めての本社会議で同席した僕たちはお互いの顔を見つめあった。彼女の顔は記憶の隅っこにこびりついている。だが詳細は思い出せない。同窓だそうで、と声を掛けると、彼女は警戒心丸だしの声で答える。

「そうらしいですね。大学内でお会いしたことがあるかもしれませんね」

 笑顔のきれいな人だと思う。だが同時にあからさまに警戒心を見せるのはどうかと思う。絶対好きになれないタイプだと感じる。向こうもやはり良い印象はないのか、笑顔ではあるが腕を組んだまま視線を突き刺してくる。やっぱりこの人は苦手だ。思っていたところ、本社の係長が全体に声をかけた。

「せっかくの機会ですので交流会を兼ねて席を設けておりますので皆さんご参加を」

 飲み会があるらしい。僕は他支社の男性社員と一緒に移動の波に加わる。高山さんは独りそそくさと会議室から姿を消した。

 一時間後、飲み会が始まった。本社の挨拶後にお定まりの自己紹介が始まる。中には悪ふざけをする人もいるが、だいたいは無難な挨拶で誰が誰だかもう名前もよく覚えられない。この辺り、僕の営業センスのなさだろうかと実感してしまう。

 と、一人の女性が立った。高山さんだ。少し男性陣がざわつく。童顔に小柄な体、褐色の肌に軽く脱色した長髪が映えている。あまり茶髪は好きではないのだが、なぜか高山さんのそれは嫌な感じがしなかった。電話のときよりは柔らかな、でもあまり人を寄せ付けない早口で高山さんは挨拶した。

 挨拶が一巡すると普通の宴会となった。出席が初めての僕は本社、支社の席を回ることにした。回ると趣味を訊いてくる人、何飲む、もっと飲むぞ、と飲ませたくてたまらない人。逆にもっと注げと離さない人もいる。そんな人の波を越え、やっと最後に着いたのが高山さんの席だった。

「先日はどうも、遅くなって」

「まあ、終わりましたし」

 言って僕が持ってきたビールに目を向けると冷たい声で言った。

「私、苦手なんです。苦いのは嫌いなので」

 言ってオレンジジュースの入ったグラスを半分ほど空ける。僕は彼女の目の前に置かれたオレンジジュースの瓶から注ぎ足した。

「僕の後輩でも『苦いの嫌い』って子がいましたよ。カクテルだったらザルでしたけど」

 高山さんは小さく吹き出して呟いた。

「マリッペみたい」

 え、と僕は訊き返す。彼女は少し柔らかい声で答えた。

「学生時代の友達でわりと仲良かったんです」

 あれ、と僕はまた呟く。ウワバミ篠川はたしか、鞠子。篠川の実験指導を担当していたとき、たまに篠川を誘いに来ていた女の子たちの顔を思い浮かべる。篠川、と呟くと急に高山さんは表情を変えた。この子、こんな人懐っこい顔をできるんだ、と思う。

「私、その学年ですよ。あと山田さんとか野田くんとか。原田さんの学年って、村木さんとか岸原さんとかあと菅原さんとかあ、あと」

 次々と名前を挙げる彼女を遮って答える。

「その学年。僕は平凡で印象ないだろうけど」

 言いつつ頭の中で高山さんの姿に白衣を重ねる。いたと思う。何だか妙に気の強い、きれいな子がいたと思い出す。急に苦手意識が薄まってくる。高山さんはさっきまでのよそいきの顔からちょっと意地悪な、でも子供っぽい表情を浮かべて言った。

「原田さんって言ったら、あの学年指折りの変人じゃないですか」

「悪かったね」

「やっぱり悪い人だったんだ」

 相変わらずの毒だが、先ほどまでと違って悪ふざけでいっぱいの声を発する。篠川も後輩のくせにこの手の悪ふざけで俺たち上の学年の男衆をからかって遊んでいたっけ。

「篠川の友達ってすっげーわかる」

「私はそんな悪い子じゃないですよん」

 高山さんを知っているらしき他の支社の人が目を丸くする。やはりこういう態度はなかなかとらない子のようだ。高山さんはうふふ、と変な笑い声を発すると僕からビール瓶を奪ってにたりと笑った。

「飲みますか?」

 僕にビールを片手で注ぎながら言う。

「ここでは入社の早い、私が先輩」

 言いながら途中で手をきちんと添え直して舌を出して見せる。このろくでもない感じ、いかにも僕の後輩というか同窓というか。乾杯、とグラスを鳴らしてビールを空ける。最後の飲み口の炭酸と苦味に軽くむせそうになって咳払いをしてしまう。

「僕ですね、実は焼酎か水割り派なんだよ」

「だよね、ビールなんて苦いだけですよね」

 お互い何だかぎこちなく敬語と対等の喋り方が入り混じる。先輩なのか後輩なんだかよくわからない、わからなくて良い僕たち。ふと高山さんは真顔になって言った。

「名前を見たとき、もしかしたら、とも思ったんですけど。でも印象が何だか違う」

 そうですね、と僕も返して、学生時代より太ったからかな、と言ってみる。

「私、そんな太ってないけど」

 高山さんは口をとがらせる。考えてみれば、この子と大学時代にこんなに話したことはなかったはずだ。だから印象が弱いのか。

 高山さんが足を組み替えた。タイトスカートから伸びた脚が見える。と、僕は思った。

「服装、かな」

 高山さんは僕の喉元を見つめる。

「ネクタイしてますね」

 ものすごく当然の言葉に、だが僕は納得する。僕も高山さんの服装ではっきり覚えているのは、先生の手伝いで実験指導に駆り出されたときに見た、まだ真新しくて折り皺の残る白衣を着た高山さんの姿だ。スカートをはいていたかどうかもよく覚えていない。

「白衣ですよね」「だよね」

 二人で言い合う。高山さんは空になった僕のグラスに止める間もなく学生時代並みの量で焼酎を入れると烏龍茶を継ぎ足した。グラスを再びぶつけ合う。仲間がいたな、と僕が言うと彼女は笑って言った。

「後輩をいじめちゃ駄目ですよ」

 僕は篠川が変な失敗をしていたときのように、高山さんの額をつついた。

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