最後まで嫌がらせかよ。
呟いて俺は手元の小さな紙切れに目を落とす。雇用保険被保険者証だ。人事関係の仕事でもない限り、普通に勤めていて退職しなければお目にかかるはずのない書類。これを持っている俺は求職者で。もっと平たく言えば失業者って奴だ。
十一月中旬に俺は部長に呼び出された。入社して以来、入室どころか一度も覗いたことすらない応接室に入ると、部長は珍しく優しい声で俺に珈琲をすすめる。奴は見ているこっちの胸が悪くなるほどの砂糖を入れて珈琲を一口飲み、そして言った。
「君なら新しい人生に挑戦できる」
勝手に挑戦させないでくれ。言いたかったが、奴の口から漏れる珈琲と煙草の入り混じった臭いは俺を投げ遣りにさせた。偉そうに勧めるわりには安っぽいインスタントの味が舌を痺れさせる。
「辞表の書き方ってありましたっけ」
俺の言葉に奴はますます目尻を下げると、最後の仕事まで私がきちんと教えてあげるよ、と今まで聞いたことのない親切な声で言った。こうして俺が奴から習った唯一の仕事は辞表の書き方になった。
商店街を飾り立てる小さな電球を眩しく眺めながら、俺は片手の地図を頼りにハローワークを探す。それなりに就職は苦労したとはいえ、平凡にエントリーシートから面接して合格だった。ずっとこの街に住んでいるのだが、ハローワークの場所は今まで知らなかったのだ。いや、知る必要なんて。
恨みがましい気持ちを地図と一緒に握りつぶし、俺は正面を向いてぐいぐいと歩いた。ゆっくり歩くには周りの風景があまりに騒々しかった。はしゃぐ子どもの声をここまで耳障りに感じたことはなかったと思う。俺は何があるかもわからないのに、とにかく目的地だけを考えていた。
交差点を曲がると、道路の向こうにやたらと小ぎれいな、だが妙に敷居の高く感じる建物が現れた。ハローワークの看板が見える。俺はあらためて迷う。だが、それでも気持ちを奮い立てて少し小走りに道路を渡ろうとした。すると突然、目の前に赤い物が飛び込んできた。慌てて飛び避けるとそいつはその場にお尻から転ぶ。助け起こそうか迷っていると、そいつは俺の顔を下から覗き込んだ。
懐かしい、でも今は一番会いたくない相手だ。結婚している、というだけで今の俺には眩しすぎる。だが清美は当然のように元気だったの? と訊いてきた。俺は曖昧な声を発し、その場を立ち去ろうとした。だが清美は遠慮ない調子で俺の腕を掴むと、コートの泥を見せつけ子どもみたいに頰を膨らませる。俺は顔を背けて幸せいっぱいかよ、と言い放った。すると清美は急に腕に力を込めた。
「幸せいっぱいで、赤いコートなんて買うかよ」
唸るような声に俺は振り向いた。清美は芝居がかった態度で両手を俺の目の前に捧げる。
「足りないもの、なーんだ」
清美は両手の薬指を揺らした。そこには、新婚旅行から帰って来て自慢げに見せびらかしていた、夫の次に大切なはずの結婚指輪がなかった。俺の沈黙に、わかったでしょ、と投げ遣りな声を発する。
俺はポケットにねじ込んでいた雇用保険の紙を何となく取り出した。清美は唾を飲み込み、紙をじっと見つめる。次いで彼女はああ、と溜息をつき、そして小さく吹き出した。
「あたしも旦那にリストラされたよ」
言ってから、浮気されちゃったんだよね、と小さく呟く。そして再び俺をじっと見つめた。俺も清美を見つめ返す。まるでにらめっこをしてるみたいだ。
ついに清美が吹き出した。俺もさっきまでの荒れた気持ちが少しだけ薄らいでいた。清美は軽く口を尖らせて言った。
「サンタっぽい服だけど、プレゼントは空っぽだよ」
言って、右手に提げた見慣れないハンドバッグを小さく揺らして見せる。俺は軽く笑って、ハローワーク行かなきゃ、と告げた。すると清美は悪戯っぽい目になって言った。
「来年は仕事見っけて、お互いにサンタさんしようよ」
清美が俺たちの歳には珍しく専業主婦だったことを思い出す。清美の結婚式を永久入社式とからかった日が遠く感じた。俺はおずおずと清美に手を伸ばす。清美は軽く俺と握手すると大きくうなずいた。
少し雪が止みかけたようだ。
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