文芸船

桜の約束

 子供の頃、僕の家には桜の老木が立っていた。いつの頃からか、僕と幼馴染みの薫は二人でジュースを持ち寄っては毎年その木の下で花見をしていた。ところが高校三年のとき突然の大寒波でこの老木が死んでしまったのだ。どんな大風も平気だった老木がただの寒さであっけなく枯れてしまったのだ。

 なぜだか自分でもわからないほど僕は落ち込んでしまった。勉強どころかテレビを見ることすら億劫になってしまうほどだった。でも、そんな僕をむしろ笑う人の方がほとんどだった。もちろん、それが普通の反応であることぐらい、僕だってわかってはいた。それでも僕の気持ちはますますはまり込んでいくばかりだった。

 そんなある日、薫は進路決定の日に傍に寄ってくると、いたずらっぽい目で囁いた。

「大学卒業したら私たちの桜で一緒にお花見しようよ」

 こんなことを言って薫は第一志望を農学部に変えたのだ。どういうことだ、と訊いても薫は明るく笑うだけで意味ありげな声で言い足した。

「桜、見せてあげるから。約束するよ」

 そして薫は大学に合格したっきり、六年もの間、全く実家に帰って来ない。


 僕は一浪して地元の学校に進学し、昨年就職も決まった。僕も生まれ育った街を離れ今年で老木の切り株も撤去した。今は残る穴だけが桜を偲ぶ最後の印だ。でも春になってその穴を目にすると再び寂しさが戻ってくる。もう桜はない。今では故郷に残る者もほとんどなく全てが変わっていた。水も緩み、日の光は刺激を増していた。自転車のベルが道路に響き、子どもたちの群れには黄色いカバーつきのランドセルを背負った一年生が加わっていた。

 落ち着かない四月も過ぎ、ゴールデンウィークになった。久々の休みは何の計画もない。ただのんびりと休もう、そんなことを思いながら実家への帰途についた。故郷は花見の空気に包まれていた。近所の城跡には花見用の交通規制がひかれ、車窓から目に映る街路は桜色に色づいていた。その光景は昔と変わりない、懐かしい景色だ。そんな街並みに混じりながら、歩く人の群れの中に知人の容貌を探す自分がどこか滑稽に思えた。

 実家の門をくぐる。長く離れたわけでもないのに懐かしく感じた。水が違うという言葉の意味が、今さらになってやっと理解できたように思えた。玄関をくぐるなり母が、変な荷物が届いている、と言う。首をかしげると母はその荷物を持ってきた。差出人が「桜娘より」となっている。だが、よく見ると住所が薫の大学になっている。宛名も薫の字に似ている気もするが、もう六年も会っていないのだから自信はない。

「薫かもしれない」

 僕は短く答え、荷物の封をそっと切った。母が眉をひそめて桜、と呟く。確かに一枝だけの咲いた桜が入っているだけだった。他は何一つ入っていない。母は眉をひそめる。でも僕は懐かしい確信を胸に抱いた。

 薫は帰って来る。


 夜も更け再会の杯も一通り交わして両親も寝床についた。面白そうなテレビもなく二階の自室でぼうっとしてみる。正直、退屈しかかっていた。と、窓に光が当たった。舞台でスポットライトを浴びるような、そんな光。慌ててカーテンを開けるとライトはすぐ消えた。でも窓の下を見回す。そして。

「茂、受け取った?」

 そう言って見上げる薫。ずっと会ってなかった、薫。

「薫、何やってるんだ」

 僕の問いは無視して、薫は手招きする。

「夜桜を見に行こうよ。おべんと用意したんだから」

 またいつもの自分勝手だ。ちらっと思ったけど、でも薫と喋りたかった。久しぶりなのだから早くそばに行きたい、そんな気持ちでいっぱいだった。家族を起こさないよう用心しながら駆け下りる。薫がまた遠くへ行ってしまうような気がして、靴を履くときのわずかな遅れさえもどかしく思える。やっと玄関に出ると、すぐに薫は僕の手を引っ張ってそのまま公園に向かった。

 人気のない公園。咲いているとはいえ、申し訳程度しかない場所で、よりもよって夜中にお花見しようなんて考える奴は薫ぐらいだろう。薫は桜の下にビニールシートを広げ、例の携帯型ランプのスイッチを入れた。

「インスタント・ライトアップ!」

 つらっと言って舌を出してみせる。まるでつい昨日まで一緒にいたような態度。久々の薫は仕草の端々までもかわいかった。変わりない薫、それが嬉しかった。

 でも。ずっと会ってなかったことを思い出した。僕はさっきからはしゃぎ続けている薫の手を押さえる。薫は真面目な表情になった。唇を湿らせ、頭上の桜を仰ぎ見る。しばらく黙って、やっと口を開いた。

「覚えてる? 桜の約束」

 僕はおずおずと訊く。

「『見せてあげる』って言ってた、あれ?」

 薫は意地悪な笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んだ。

「やっぱ、忘れてる」

 言って僕の額をつつく。僕はよっぽど間抜けな顔をしたんだろう。薫は溜息をつき、説明口調で言い足す。

「私たち二人でお花見始めた頃の話」

 思い出せない。というより、それほど幼い頃のことはほとんど忘れてしまっている。

 だが、薫は膨れっ面になって言い切った。

「『一緒にお花見したら桜をあげる』って茂が言ったの。だから枯れた桜は私のものだったんだよ」

 いくら何でも言っていることが無茶苦茶だ。いや、昔から無茶な奴だったのは確かなのだが。薫はにたっ、として黒表紙の分厚い冊子を投げ出した。薫の名前が入った、大学院の修士論文だ。

「私、桜の研究してた。とっても丈夫な桜を作る研究」

 それで、と続きを促すと、薫は自慢げな声に変わって答えた。

「どんな寒さでも元気な桜ができたの。茂の家に苗、植えて良いでしょ? 私と、茂の木」

 薫はまた小さく笑うと、僕の手をしっかりと握った。

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