文芸船

ハーフパイント

 義雄は「情報誌J」のWebサイトを流し読みしながら、荒れまくってるな、と毒ついた。情報誌Jは函館近郊の飲食店や娯楽情報を載せているフリーペーパーで、義雄が住んでいる寮でも談話室に必ず読み捨てられている程度には広がっている。その公式Webサイトは時代遅れなメール相手募集掲示板を中心としており、実態は当然に出会い系掲示板となっている。

 ここの掲示板の書式は、まず投稿者の名前がありその後ろにコメントが続く形だ。画面には投稿した順で単純に表示されるので、前の話題に対する投稿がずっと離れた画面に出てくることもある。だから話題のつながりも読みにくいし、便所の落書きに似た状況にもなりやすい。投稿者の名前を固定せずに投稿できるぶん、TwitterFacebook以上に悪質な悪戯がなおさら絶えない。

 今、義雄の見ている女性専用の掲示板もおかしな感じだ。低俗という言い方は嫌いなのだが、ここの状況にはさすがに義雄も呆れていた。義雄の先輩によると女性のメッセージにも本物があると言うのだが、義雄の目にはどのコメントも嘘くさく感じる。だが、ただ観察しているだけの自分の方がむしろ胡散臭いかもしれない。大学の先輩から評論家的だと揶揄されたことを思い出し、急に憂鬱になってしまう。

 ふと時計を見ると、ページ閲覧を押してから十分も経っていた。再読込すると既に数人の書き込みが追加されている。次々に確認していくと、最後の書き込みに義雄は目を止めた。

『普通のメル友が欲しいな。芸術とか好きだよ。イタズラはやめてね』

 ミオを名乗る女性の珍しく控えめなコメントはむしろ周囲から際だって見えた。好ましくも見えるし、むしろ異様にも思えたりもする。ただ、いずれにしろ他のコメントから際立っていることだけは明らかだった。メールアドレス欄に入った「GalaxyExpress」の文字が目を引く。日本語にしたら銀河鉄道だ。宮沢賢治が好きなのか、それとも案外、かなり昔に流行ったアニメから採った名前なのか。ともかく義雄はミオに夢見がちな印象を受けた。義雄はメール作成画面に移り、少し考えてから短い文を打った。

『こんにちは初めまして。ヨシだよ。今二十歳。よろしく』

 送信済の確認画面を見てから後悔する。どうも幼稚な日本語だし、義雄がどんな人間なのか少しもわからない。これではメールを見てもただ消されるのが関の山だ。考えているうちに義雄は笑いたくなった。顔も知らない、本当の名前すら知らない相手にいったい何を期待しているのだろう。だが出会い系にのめり込む人の気持ちを少し垣間見た気がして、義雄は独り苦笑した。

 この日、結局ミオからのメール返信は義雄が床に就くまでなかった。


 翌日、義雄はバイト帰りの車の中で単調な電子音を聞いた。義雄は未登録相手からのメール着信音には単純な電子音を充てている。おかげで、この電子音を聞くと出会い系サイトと成人向けサイトの広告文がずらりと頭に浮かんで憂鬱な気分になってしまう。いつものように消すつもりで開けると、そこには見慣れないアドレスが表示されていた。昨日、メールを送った相手のミオからだ。

『ヨシくん、初めましてこんにちは。同い年だね。これからよろしく』

 義雄が送ったメールと代わり映えのしないたどたどしい文だ。だが、この慣れきっていない雰囲気に義雄はむしろ好感を受けた。

『よろしく。俺、函館だよ。ちなみに芸術ってなにが好きなの?』

 義雄は返事を送信する。数分後、当然のように返事が返ってきた。

『美術館とか行くよ。あと、メアドで気がついたんじゃないかな? 宮澤賢治が好き。音楽は色々聴くけど、レゲエは苦手だよ』

 義雄はもどかしく親指を動かして「音楽」という題で質問のメールを送る。きっかり五分後、ミオからメールが届いた。

『有名なら大丈夫かな。あと私、バイオリン習ってたよ。ちょいと自慢!』

 バイオリンには驚いたが、あまり意外な気はしなかった。芸術が好き、という言葉にイメージが一致していたからだろうか。だが、メールだけでミオのイメージを作っているぶん、言葉の印象が過剰に肥大化している気もする。冷静になって考えれば、本名すら知らない相手に親しげなメールを打っている自分の姿はあまりに滑稽だ。

 その日、義雄はここまででメール返信を止めた。ミオからのメールも、この日はこれ以上は届かなかった。


「相変わらずしけた面してるなあ」

 義雄が寮の部屋で漫画を読んでいると、先輩の江川が入ってきた。江川は「俺の血はアルコールだ!」という妄言を吐いた寮有数の酒豪で、女性関係も何やら胡散臭い話が多い。義雄がミオと会った情報誌Jを義雄に教えたのもやはり江川だ。その一方で、現在は大学院の博士課程に在籍しており、既に論文投稿の実績も持っている。このアンバランスさが、義雄をはじめとする沢山の後輩たちを惹きつけているのだ。

 江川は断りもなく義雄のコンポに自分のスマホをリンク」させ、スピーカーから重い足音が流れ始めた。江川がいつも聴いている、QUEENの「We Will Rock You」だ。昔の曲なのだが、江川が聴いているとなぜか古臭いものには思えない。江川は独りうなずくと、ポケットからピースを一本取り出し火をつけた。

「江川さんってそんなきつい煙草、よく平気な顔で吸えますよね」

「ピースが一番美味いんだよ。実はな、ピースって高いわりにはJTが全然儲からないほど良い葉を使ってるらしいぜ」

 江川は煙草に口をつけた。義雄はピースの箱を手に取って眺めながら尋ねる。

「でも江川さん、どうやってそういう情報、仕入れて来るんですか?」

「情報はその辺に転がってんだよ。ネットは当然として雑誌の立ち読み、新聞にテレビ。旧式なマスコミの方も読んでないと偏っちまう」

 それは先輩だけの才能だ、と反論しかけた。だが、江川がその種の言葉を嫌うことを思い出し、慌てて言葉を飲み込む。しばらくの間、部屋の中がクィーンの曲だけに染まった。だが、煙草が半分ぐらいになったとき、再び江川が口を開いた。

「お前、黒ビールは飲んだことないだろ。俺が行きつけにしているビール専門のバーがあるんだ。おごりだぜ。行くだろ?」

 江川がこう言ったときはもうとっくに決定済みなのだ。それに、せっかくの誘いをわざわざ断る理由もない。義雄がうなずくと、江川は煙草を揉み消して立ち上がった。義雄も慌てて立ち上がると携帯電話を開いてメールチェックする。『新メッセージはありません』という画面に義雄は肩を落とした。

 「ビアバー・山下」は西部地区、函館どっく行きの電車道路沿いにある。観光客とカップルで賑わう金森倉庫群は徒歩で数分の距離なのだが、バーの周りには水産卸会社と生協が立っているぐらいで夜の往来は少ない。入り口は木枠に大判のガラスを嵌めた引き戸で、外からでも店内の様子を窺うことができる。店内は木目を基調としており、カウンターとテーブル席が見える。

 店に入ると、テーブル脇の壁一面を覆う大きな旗がまず目を惹いた。黒地に金色の線が引かれてあり、その線の中間、旗の中心部分にはハープの紋章と、太字で「GUINESS」という文字が描いてある。その下にある、細い装飾文字で書かれたサインらしき文字も不思議に印象的だ。

「黒ビールのギネスの旗だよ。デザイン、かなりいけてるだろ?」

 どこか自慢げに江川が教えた。江川がカウンターに腰を下ろすと、寄ってきた女性店員が意外な顔で義雄を見た。

「江川さん、今日は珍しいお連れさんね。いい加減女の子には飽きた?」

「まさかよ。こいつは後輩の義雄だ」

「義雄さん初めまして!」

 義雄が肩をすくめて軽く頭を下げると江川は頰を歪めて笑い、自身と義雄を指差して注文した。

「ギネス、ハーフパイントで」

 パイントじゃないの、と女性店員が意外そうな顔で首をかしげた。

「女と飲むときと野郎と飲むときとじゃ違うだろ。だから今日は普段の半分サイズ」

 店員はうなずき、小さめのグラスを二つ取り出しながら言った。

「ところで江川さん、一緒に来る女の子いっつも違いますよね。そうしたら今、『女』ってひとまとめに言うんですもんね」

「いっつも、までは言い過ぎだろ?」

「でも絶対に独りじゃないでしょ!」

 江川が面食らった顔をした。こんな表情の江川は初めてだと義雄は思う。声を殺して笑うと、江川に後頭部を平手で叩かれた。

「義雄の分際で俺様を笑うなんざ一億年早い。もっと進化してからにしろ」

「そんな言い方されたら、なんだか俺が欠陥動物みたいじゃないですか」

「進化ってのはなあ、自然環境に対する可能性の適性選択なんだよ。『欠陥』って概念はそもそも進化にゃ成立しないんだよ」

 江川の専門は生態学だ。詳しい話だと義雄では全くついていけないが、この辺の軽いさわりの部分なら面白く聞ける範囲だ。再び江川が話し始めようとしたとき、二人の前にグラスが置かれた。中は一見、コーラのように黒い液体だが、グラスの縁まで盛り上がった泡は弾けることなく沈黙したままで、クリームのように肌理が細かい。二人はグラスを鳴らすと揃って喉にビールを流し込んだ。

「ずいぶん泡が柔らかいっすね。あとちょっと焦げ臭いかも」

「そこがギネスの良い所だろ。泡もな、炭酸ガスじゃなく窒素ガスなんだってさ」

 江川に先ほどの店員が拍手を送る。だが、義雄は少し意地の悪い声で江川に言った。

「江川さんってほんと、薀蓄好きですね」

「好きって言うかさあ、聞いた話は基本的に覚えておくんだよな。で、チャンスがあれば他人に教えてやる、と」

「それを薀蓄好きって言うんですよ」

 江川は納得いかない顔をする。だが、再びビールを口に運ぶと元の表情に戻った。

「美味いもん飲むとやはり気分は晴れるもんだよな。これがやはり最高だ」

「なんかもう酔っ払いな台詞っすね」

「俺がこのぐらいで酔うはずねえだろ」

 江川は空になったグラスを店員に渡すと、義雄の分とあわせてまた二杯注文した。義雄が先ほどの江川と女性店員の話に触れると、江川は目を細めた。

「それ、俺が女と飲んでるときの話か?」

 江川の圧力を感じた義雄の声が小さくなる。だが、江川は構わず答えた。

「そういう女と飲むときはさ、いくら飲んでも腹がいっぱいにならねえんだよ」

 江川は、首をかしげた義雄を鼻で笑った。

「好きかどうかもわからねえ、正体の見えねえ奴と飲んだってつまらねえんだよ」

 何でそんな人と飲むのか、という義雄の言葉に江川の視線が急に鋭く変わる。だが義雄が謝りの言葉を口にしかけると江川は手で遮った。

「そう言うお前もさ、見ず知らずの奴なんかとメールのやりとりしてるだろ。寮を出るときにさ、メールチェックしてたの、俺が気づかねえわけがねえだろが」

 義雄は完全に黙り込んだ。すると江川は声を和らげて話を続ける。

「俺も何で飲みに行くのかわからねえ。お前も何となくメールやってみたりしてる」

 いったん言葉を切り、ビールを三口ほど飲んで再び話し始めた。

「でも、そういうことやってるとき、相手がいやに自分に似て見えないか?」

 ミオは自分と似ているのだろうか、義雄は自分に問いかける。考えれば、ミオのメールの文体が自分のメールの文体と嫌なほど似ている気がしてくる。江川は義雄を据わった目で見つめながら再び話を続けた。

「酒を飲んで与太話をする。相手はそれにただ相槌を打つ。メールを送ると、自分の出したメールの題名に『Re』の文字だけ追加した、ただの返事だけが返ってくる」

「でも江川さん、俺の文章がそのまま返ってくるわけじゃないでしょ?」

「たしかに、歪んだ山びこだな。でも、俺たち自身が単なるコピーミスの集団だろ」

 コピーのミスという、会話の流れから外れた言葉を義雄が聞き返すと、江川はしっかりと姿勢を正して話し始めた。

「ここんとこ、普通の観察からDNA解析に軸足移して研究やってるんだ」

 最先端ですね、という安易な感想に、江川は呆れた顔をする。

「最先端どころか、今じゃ遺伝子はお手軽だよ。お前ちょっと勉強足りんな。けど、面白いこともあるわな」

 義雄が身を乗り出すと、むしろ江川は冷めた表情に変わった。

「データ見ながら考えたんだよ。結局のとこ、進化ってのはDNAの複製失敗さ。俺たちは粗悪な模造品でしかない」

 江川らしくない投げ遣りな結論に、義雄は眉をひそめて反駁した。

「でも、おかげでみんなが違うんじゃないですか。違うから楽しいんですよ」

「だから妬むし比較するんだ。だが複製作業は止まらない。そうして無限に歪んだコピーが繰り返されていくんだ」

 義雄は黒ビールが先ほどよりも苦くなったように思った。それでもあらためて反論する。

「でも江川さん、進化は適性選択だってさっきも自分で言ってたじゃないですか」

「たしかにな。生命に欠陥なんてないさ。進化は全ての生命を平等に、繁殖能力と生存能力のふるいにかけ続ける仕組みだから」

「いったい、なんのために」

「原初の記憶を残すためさ。俺たちは遺伝子情報を次代に運搬するための、ただのアタッシュケースにすぎないんだ。俺たちはそのオリジナルデータを保持するために作られた、大量の予備データの一つにすぎないんだ」

 江川はいつになく嫌な笑みを浮かべると、一息に黒ビールを呷った。


 寮に着いてベッドに横になった途端、メールの着信メロディが鳴った。

『おねむ中ならゴメン』

 ミオからのメールだ。スクロールさせると今回は妙に長いメールのようだ。中身は、仲の悪い先輩がいて今のバイトがつらいこと、親友が本州に行ってしまって寂しいこと。そんな、今まで溜まった愚痴を一気に並べているのだった。そして最後にあった言葉。

『迷惑だろうけど、書いちゃいました。君のこと、信用して良い気がしたから。逢ったらどんな人なのかな、って気になります』

 チャンスだと思う。一方で、こんな軽く考えるなんて自分らしくないとも感じた。きっとメル友という形と、一パイントのギネスのせいだと自分に言い聞かせる。返信の画面を開き、少し考えて打った。

『明日の夜、けっこう暇なんだよね。本町に良い店があるんだけど、どう?』

 送信を押してすぐに後悔した。だが中止を選ぶ間もなく「送信されました」のコメントが画面に現れる。義雄は溜息をつき、そのままベッドに潜り込んだ。その夜、返信は届かなかった。


 本町は函館市内最大の飲食街だ。他に古くからの酒場が立ち並ぶ駅前地区もあるのだが、義雄たちのような若い世代はもっぱら本町界隈を中心に使っている。誘いのメールを出した翌日の夕方、ミオから返信が届いたのだ。そんなわけで義雄は待ち合わせ場所の丸井今井デパートの前でミオを待っているわけだ。

 約束の時間きっかりにメールが鳴った。

『着きました。ヨシくんはいますか』

『俺ももう着いてる。玄関の真ん前に立ってる。黒いシャツ着てるよ』

 三分ほど経って再びメールが着信した。

『見つからないよ。玄関ってどこ?』

『電車通りに面した玄関だよ』

 再び数分経ったとき、裏道の方から小走りに駆けてくる小柄な女性の姿が見えた。義雄が小さく手を上げると、その女性は首を小さく傾けて早歩きになる。ジーンズにワインレッドのぴったりしたTシャツを着ている。ショートヘアからは小さなシルバーのピアスが覗いていた。全体として、飾らない印象の子だ。彼女は腰を引いたような姿勢で義雄をまじまじと見つめ、そして声を掛けた。

「あの、ヨシくんですか?」

「じゃ、君がミオさん?」

 硬い表情を一気にほころばせると、彼女は大きく子どもじみた仕草でうなずく。ミオは拳を握ってガッツポーズを作る。意外に明るい子だな、と義雄は彼女に抱いていた印象とのずれに戸惑った。ミオはまた首をかしげ、黙ったままで義雄をじっと見つめる。

「なんて話し始めようかな、って。今日はほら、メールじゃないから難しいな、って」

 じゃあメールで話そうか、とふざけるとミオが吹きだした。義雄自身も馬鹿なこと言ったな、と後悔する。だが、ミオは機嫌よく言った。

「ヨシくんってやっぱ面白いかもー。とりあえず喫茶店でも行かない?」

「ん……紅茶とか好き?」

「好き好き! ロシアンティーとか良いよね」

 いきなりロシアンティーとか言い出す辺りは思っていた通りだ。

「じゃ、伽藍堂とか行ったことある?」

「ガランドウ? それって、お客がいなくてガランガランな店ってこと?」

「寺院の伽藍に食堂の堂で『伽藍堂』。わりとおすすめの店かな」

 ミオは数秒顔を上に上げて考えてから、大きくうなずく。義雄はミオがやってきた方に向かった。そのまま五分ほど歩き、義雄は一軒の喫茶店の前で立ち止まった。建物は全体が白塗りで、入り口はガラスの扉になっている。

 義雄が先に入り、ミオが後に続いた。中は大手チェーンの喫茶店より薄暗めで、壁には市内で公演される演劇、映画、音楽のポスターが張ってある。そのいずれもが大手のメディアに載らないような、芸術系の匂いがするものばかりだった。さらに店の奥には、ガラスのドアで仕切られた部屋があるようだ。

「ちょっと変わってるね。芸術系で良いや。でも奥のVIPルーム、あれなに?」

「会合に使えるんだって。夜に来たら中で詩を読んでる人がいたし、違う日は環境保護で演説してた人もいた」

「喫茶店で会合かあ。なんか格好良い。でも貧乏娘にゃお財布にきつそう」

 笑って席に着くと、二人でロシアンティーを注文して雑談に入る。ミオも現在は大学生で、国語系を勉強しているという。義雄も自分の専攻を話し、理系だと言うだけですごいと言われたりする。友だちの話、バイト先の話。自分の周りの話を一通りして、ふと話題が止まった。義雄は冷めた紅茶をすすると、少し改まった調子で訊いた。

「ミオさんの『ミオ』って本名?」

 瞬間、ミオの表情が凍ったように見えた。だが、ミオは困ったときの癖なのだろうか、また首をかしげて言った。

「その前に、ヨシくんの名前。名前を聞くときは自分から名乗ってよ」

 硬い、用心深い声にミオの意外な面を見た気がする。だが義雄は正直に答えた。

「ヨシオ。義理の義にオスメスの雄」

 するとミオは一挙に安心した顔になった。バッグから手帳を取り出すと、一ページだけ破ってボールペンを走らせ「美緒」と書いた。少し曲がり気味の字を指差して言う。

「ミオ、ってカタカナで書くと雰囲気良いからそのまま載せてたの」

 名前を確認しただけで、今までの緊張が少しほぐれたように思う。美緒も先ほどより親しげな雰囲気になったように見える。ふと、義雄は江川のことを思い出した。

「ところでQUEENのこと、知ってる? 好きな先輩がいるんだ」

「んーと、たしかもう解散したと思うけど。イギリスのロックバンドだったっけ? ときどき車のCMに使ってたりする曲の」

「そう。で、この先輩、俺たちが遺伝子の運び屋に過ぎない、とかって言ってて」

 美緒は眉をひそめて小声で言った。

「何それ。その人、頭は大丈夫?」

「進化の研究してる人だからね。それにしても気持ち悪い話だな、とか思って」

 美緒は悪戯っぽく笑って答える。

「で、私にもその気持ち悪さを共有してもらいたい、とか言いたいわけ?」

 義雄は曖昧に首をかしげた。美緒は目をつぶり、ゆっくりと話し始める。

「『銀河鉄道の夜』の運転手さんは誰なんだろう、って思うの。こっちの世界やあっちの世界に下車して一休みしたりするのかな、って」

 義雄はゆっくりと頭を振った。すると美緒はうなずいて話を続けた。

「下車できないんじゃないかな。ずうっとずうっと汽車を動かしっぱなし。でも、きっと幸せもあると思う。だから私たちが遺伝子の運送屋さんでもね、幸せなことがあるから良いんじゃないかな、って」

 美緒の発想に驚く。と同時に、強引な論理に違和感を覚えた。だが、この話題はこの辺りで切り上げるべきだと義雄は感じた。美緒もバッグから財布を出しながら言う。

「とりあえず今夜はさ、この辺で終わりにしない? また絶対メールするから。私、どうせ夜はだいたい空いてるし」

 義雄が不満げな顔をすると、美緒は義雄の頭を軽く撫でて言った。

「そんなばんばん進むわけないじゃん。でも愚痴もきいてくれたし、良い人だし。また逢いたいって思ってるよ」

 義雄はしぶしぶうなずいた。この日、二人は割り勘して別れた。


 江川が失踪した。義雄が美緒と会った一週間後のことだ。消息を絶って二週間後、江川の部屋を寮生自治会が捜索したところ、Marantz製の高価なコンポはそのままだったが、江川がいつも聴いていたQUEENStingのCDが消えていた。彼の本棚からは学会誌数年分が抜き去られており、DNA解析関連の資料は全てごみ箱に投げ込まれていた。

 この部屋の状況だけでは見当もつかなかった。だが自治会の事務室を片付けたとき、江川のメッセージが部屋の隅から発見された。内容は、荷物を寮生で分けて良い旨、黙って姿を消すことについての謝罪だった。そして短く載っていた言葉。

「俺はDNAに狂わされた。これからしばらくの間、無限量のビールが飲みたい」

 後輩たちはこの置き手紙と江川の失踪について夜遅くまで語り合った。ある者は江川にアル中の気が見えたとも、悪い女にひっかかったとも噂する。また、哲学的な問題や精神病を指摘する者もいた。そんな中で、最も有力な説は研究の行き詰まりだった。江川がこの数ヶ月の間、DNAの研究を行っていたことは確かだ。そこで得られた結果が、今までの研究成果に致命的な問題を示したに違いない、と。

 だが、義雄はそんな仮説のいずれもが間違いだと確信していた。とは言え、実際のところ江川が何を考えていたのかはわからないままだ。ビアバーで語った話を思い起こしてみても、義雄の中では曖昧さが募るばかりだ。そして義雄自身、気持ちのぶつけ先を必死に探しているのだ。


 伝言が見つかった夜、義雄は夢を見た。義雄はDNA分子の螺旋を必死で駆け上っていた。ずいぶん走っているのだが、まだ末端は遠いようだった。しばらく走り続け、やっと末端が見えたとき、そこには江川が座っていた。江川はパソコンで論文を書いているのだ。

『どうした義雄。しけた面しやがって』

 義雄が江川のパソコンを覗き込むと、そこには単純な構造のDNAが描いてあった。

『オリジナルが復活したよ。俺たち予備は全量廃棄に決まったぜ』

 自分が立っているDNAこそ、自分自身のDNAだと気づいた。そのDNAが下から崩壊し始めている様を目の当たりにした。悲鳴を上げたとき、鉄製ベッドの冷たさで夢を認識した。

 目覚めてからしばらくしても、嫌な後味の残る夢だった。その日、義雄は講義を適当に流すとまっすぐに寮に帰った。それでもまだ気持ちは晴れることなく、くすんだままだ。気づくと携帯電話に手が伸びていた。美緒のアドレスを選択し、短いメールを書く。

『今夜、空いてるかな』

 数分後、返信があった。

『良いけど……なんかあった?』

『なんか逢いたい』

『良いよ。じゃ、に伽藍堂で』

 義雄は携帯電話を閉じると、急いで身支度を整えた。

 伽藍堂に入ると、義雄は江川のことを一気に話した。美緒は一切口を挟まず、ただ黙ったままで義雄の話を聞き続けた。

 そしてようやく義雄が黙りこんだとき、美緒はやっと口を開いた。

「少しわかる気がする。でもわかんない」

 義雄が眉をひそめると、美緒は義雄の目を正面から見つめて言う。

「君のもやもやした気持ち、私に刺さってくるんだ。それが肌で感じるんだ。でも、江川さんだっけ? その先輩を私は知らないから」

 義雄は黙ってうなずく。ふと、彼女の手を握ってみたいと感じた。だが、あまりにそれは不謹慎な気持ちだとも思う。

 義雄がテーブルの上に手を伸ばすと、美緒はそっと手を重ね、ふざけた調子ながらも優しげな声で呼びかける。義雄は頭を激しく振って呟く。

「何となく、触れていたい」

 美緒は大きく溜息をつき、バッグからマルボロを取り出した。

「意外? でも私、けっこう吸うんだよね」

 美緒はマルボロに火をつける。煙が天井にゆっくりと立ち上る。

 義雄は貧乏ゆすりをしながら美緒を黙って見つめた。コンビニで売っているような百円ライターと、少し幼い美緒の容貌が出会うと中学生の悪戯にも見える。美緒は義雄の視線に顔をしかめると、意地悪な表情を浮かべて義雄の鼻先に煙を吐いた。義雄が何をする、と毒つくと、美緒は左頰だけで笑った。

「だあってなんだか辛気臭いんだもん。あんまりにも苛々して見える」

 だがすぐに真顔に戻って黙り込んだ。義雄は口をつぐんで美緒を見つめる。ジーンズを履いていてもわかる、きれいなヒップラインだ。顔立ちも悪くない方だろう。だがそれ以上に、肌に触れたいと思う。ただ温もりだけを無性に欲していた。

 寂しい、と義雄が呟く。美緒は真面目な表情で問いかけた。

「なんで人間って寂しくなっちゃうんだろ。私もすっごい寂しがりやだし」

「人間は、か。ちょっと哲学系だな」

 美緒はさらに問いを重ねた。

「べたべたするの大嫌いだけど、でも急に誰かとくっつきたくなるこの変な気持ち」

 美緒は煙草を揉み消して義雄の顔を覗き込んだ。義雄は身を正して答える。

「それはDNAが寂しがりやだったから」

 美緒は首をかしげた。義雄は話し続ける。

「DNAは普通の分子と違って遺伝情報を持ってる。情報だけを抱いて、独りぼっちの分子でいるのは、きっと凄く寂しいんだ。だから遺伝子は寂しがって、少しだけ改造した自分を創ったんだ」

「それってアレンジ、みたいな感じ?」

 美緒の言葉で、義雄はビアバーで交わした江川との会話を思い出した。江川が強調した言葉。義雄が拒否した思考。

「そう、アレンジだ。コピーじゃなくアレンジだったんだ」

 半分独り言で言う。だが美緒は硬くなっていた表情を崩した。

「なんか変な話。って言うか、科学屋さんな君らしくない」

「らしくない、かな?」

「うん、らしくない。でも、そういうらしくない君の方が良いと思う」

 美緒の言葉で、義雄は自信が持てたように思う。だから義雄は話をまとめようとした。

「お互いに、みんなアレンジされた仲間なんだよ。だから色んな人がいて……」

 言いかけ、義雄は気づいた。結局はアレンジもオリジナルの手直しに過ぎないのではないのか。オリジナルの存在しないアレンジなど存在するわけがない。アレンジは、永遠にオリジナルにはなれないのだ。もし、これが遺伝にも通じるのなら。江川が耳元で哂った気がした。義雄が呆然としていると、美緒はいきなり義雄の頰を指でつついて笑った。

「何となく。何となく私も触れたかった」

 二人で沈黙した。美緒と一緒なら寂しくなくなるのだろうか。オリジナルへの恐怖から逃れられるだろうか。

「とりあえず、ビールでも飲みに行こ? それからカラオケとか。なんなら私の自慢のバイオリン、聴いてみる?」

 作り物じみた明るい調子で美緒が言った。義雄の舌に、江川と飲んだギネスの濃厚な味が鮮烈に蘇った。

 美緒から受けたメールを思い返した。やはり目の前の美緒はメールでのミオとは別人の印象があるのだ。しかし、文字情報のメールと遺伝情報を抱えた自分たちに、どれだけ実体としての違いがあるのだろうか。たとえ美緒が「ミオ」と別の人格だったとしても、単なる歪んだコピーに過ぎない自分たちにミオが偽物だと言える資格があるのだろうか。

 今日は美緒と一緒にいたら何パイントでも飲んでしまう気がする。きっと気温が高いのだと思う。

 喉が渇いている。

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