突然の母からの電話を理解できなかった。だらりとネット掲示板を見ていたのだから地震があればわかるはずだ。それをいきなり津波が来るよと言われてもわけがわからない。とりあえずコンポを止めると言われるままにテレビを点け、インターネットのニュース関係サイトも開いた。
テレビには地震速報の画面が映し出され、道東沿岸域と北方領土沿岸が赤く縁取りされていた。根室で避難勧告、中標津で避難勧告。自分の住んでいる網走の名前がなかなか出てこない。耳を澄ましてもサイレンも何も聞こえない。第一、なぜ地震もなかったのに津波なのかが全く理解できない。それでもパジャマを脱ぎつつテレビを見つめる。
テレビが各地の状況から全体の話に戻った。マグニチュード八級の地震が沖合で起きたらしく、遠すぎて日本は揺れなかったようだ。慌てて手近にあった服を着込んでいつものバッグを抱え込む。なぜかまだ網走の避難勧告の話が出てこない。大きい川はあるのだが、港湾の形か何かの条件で大丈夫なのだろうか。とりあえず親にはテレビでわかった、と告げて電話を切る。
外で何か聞き慣れない音が聞こえた気がする。窓の向こうに何か紅いライトが流れている。何か放送しているようだが「して下さい」以外に何も聞き取れない。もう良い。避難に決めた。通帳と喘息薬、飴を鞄に放り込んで自分の車に走る。ラジオを普段の倍近いボリュームに合わせる。ラジオはしつこいほど高台に避難しろと繰り返す。
道路に出ると既に国道は普段見られない車の数になっていた。内陸に行くか、丘の方か。内陸は川べりか沿岸を走るルートしか思いつかない。丘の方に車を向かわせる。皆同じことを考えているのか既に渋滞が始まっている。そのまま大人しく車の列に混じる。
やっと少し街の灯が見下ろせる高さに到達すると、歩道橋の上にかなりの人達が立っていた。不安そうな顔もあるが、むしろ動く車の列を見物しているらしき人も見える。他の方向からの車も合流しているせいか、進みは更に遅くなってきた。ラジオは相変わらず津波到達予定時間と高台に避難して下さい、を繰り返している。ところで高台と言ってどこまで行けば良いのだろうか。大体この道はどこに繋がっているのだっただろうか。不安になっていると網走市で避難所を開設しているという話が入ってくる。だが自分の向かっている先にそれがあるのかどうか、根っからの地元民ではない私にはわからない。とにかく登っているのだから良いのだと自分に言い聞かせる。
T字路に差し掛かり、やはり高台だろうと登る道路へと左折する。道路が先ほどより狭くなり、なぜか車の数が一気に減る。不味い方向に向かってしまったのだろうか。焦っていると前の車が急に停止した。よく見ると運転者がそのまま椅子の背を倒そうとしている。道路脇に寄せもしないで真ん中で休むつもりか。突然腹の立った私はクラクションを鳴らした。前の車はのろのろと脇に寄る。私は前の車を追い越しながら、クラクションを鳴らしたのはこの車を買って以来だということに気づいた。落ち着くように深呼吸すると、大きい建物を探しながら再び車を走らせた。
ふと、目の端に蒲鉾型の屋根が目に入った。とにかくそちらに車を走らせる。体育館らしきものが見えてくる。玄関脇で誰かが手を振っているが、照明も何もないので何者かわからない。それでも人影に向かって車を近寄らせると、中年の男性が寄ってきた。
「どうぞどうぞ、こっち駐車場だから」
偶然にも避難所に入れたらしい。誘導に従って車を止めると鞄を背負って車を降りた。降りるとすぐに校舎の中に案内される。
「体育館、暖房入ってますから」
ここはどこだろう、ふと思ったがもう市役所職員らしき男性は再び外に向かっていた。私はとりあえず体育館の中に入った。
体育館の中には二人の、私よりは年上そうだが若い女性がいた。眼鏡をかけた一人は盛んに携帯でどこかに連絡している。体育館は既に暖かいものの、あまりのだだっ広さに戸惑ってしまう。結局は仕方なく座っている女性の傍に腰を下ろした。
眼鏡の女性は電話を切ると、情けない顔であーあ、と言って腰を下ろした。もう一人がどうしたの、と声を掛けると、電池もう赤いよ、充電器なんてないし、と携帯を振ってみせた。私ともう一人も慌てて自身の携帯を開ける。私の携帯も残り二目盛だ。もう一人の女性も少ないと呟く。
「何も持ってこなかったよ。折角ノートパソコン買ったのに置きっぱなしだし」
眼鏡の女性が言うと、もう一人は脇に置いているプラスチックの籠をとんと叩いた。籠の中には猫がいて頭を籠の天井にぶつけてにゃあ、と鳴く。
「私もこの子とチョコだけ。キャットフード持ってこなかった」
女性は困ったよねえ、と籠の隙間から入れた指で猫の首筋を撫でながら私と眼鏡の女性を見回し、床に置かれたラジカセに目を向けた。ラジカセはまた変わらない津波情報を流し続けている。
「ねえ、ところでここ、どこ?」
猫の女性の言葉に私も眼鏡も首を振る。次いで女性二人が聞いて来て、と言いたげな視線で僕を見つめた。私は体育館を出ると、廊下にいた市役所職員らしき人に聴いてみる。すぐに答えが返り、同時に足元のスリッパを指さされた。なるほど、スリッパに校名が書いてある。
戻って同様に説明すると、何で気づかなかったんだろ、と二人が笑った。笑いが止まり、再びラジオの声が体育館を占領する。
十分ほど経った頃、眼鏡の女性が立ち上がった。
「私、車に戻る。ちょっと車で寝ておく」
すると私も、ともう一人も立ち上がって猫の籠を抱えると二人揃って体育館を出て行ってしまった。私は独り、体育館に残されてしまう。ラジオが同じように流れている。私は携帯を開き、何か情報のあるサイトがないかと考える。そうだ、海上保安庁に満潮の時間は載っているはずだ。検索で地元の海上保安庁のサイトを探してアクセスする。残念ながら津波の情報はなかったが、とりあえず満潮までまだ三十分ほどあることが確認できた。
最悪、独りで体育館で三十分以上待つのか。再び携帯を見直すと電池の目盛が赤く変わっている。そういえば車にシガレット用の充電器を積んでいたはずだ。私も立ち上がり、再び車に戻ることにした。
駐車場は車の数が格段に多くなっていた。各々の車の中には人影が見える。車の中で飛び跳ねている子供の姿も見える。自分の車に向かう間、幾つもの車からラジオの音が漏れて聞こえる。
エンジンをかけて携帯を充電器に繋ぐ。点灯した充電器の赤いランプが妙に安心させてくれる。携帯の電源が切れそうなことがこれほど不安に感じたのは初めてだと思う。ラジオを大音量で掛けながら目をつぶる。眠る気はない。少し、少し休みたいのだ。だがラジオの音が耳に障る。隣の車の窓から漏れる、オーディオの青い装飾灯が気に障る。気に障るが、逆に寝入らないで済むじゃないかと自分を無理に納得させる。
暫くして目を開けると、杖をつきながら校舎に向かっている二人組の老婆の背中が目に入った。奥の駐車場からも子供連れの家族の姿が見える。携帯を充電器から外してみると、電池がある程度充電されたらしい。ラジオは相変わらず避難勧告を叫んでいるが、既に津波到達時間を越してしまっていた。私もエンジンを切ると再び避難所の設置された校舎に向かった。
中に入ると、今度は先ほどの体育館ではなく会議室に案内された。室内には白い長テーブルがロの字型に配置してあり、楕円型の小さいラジカセが音割れを起こしながら津波情報をがなり立てている。テーブルの周囲には適当にパイプ椅子が置かれていて、老人を中心として二十名ほどの避難者が透明なプラスチックで椅子に固められたかのようにじっと座っていた。体育館で一緒だった女性たちの姿はなかった。
私はあまりの重苦しさに逃げ場所を探すように部屋の中をあらためて見回した。端の親子連れだけは少し賑やかに騒いでいる。奥の黙り込んでいる老人たちよりはと、親子連れの傍に席を取った。
ラジオの情報がやっと少し進み始めた。だが、十センチメートルの海面上昇を確認したといわれても実際のところ規模があまり想像がつかない。むしろ列車が運休しているという情報の方が明確に不安を搔き立てる。
「明日さ、学級閉鎖だよね」
高校生が母親に聞く。母親は何でさ、と顔をしかめる。
「だって運休してるんでしょ? 汽車通学のコ、来れないじゃん。休み休み」
母親は呆れた声で、今夜中に復旧するに決まってるでしょ、と笑う。向こうで聴いていた老人も数名が笑い、少し室内が柔らかくなったように感じる。
ラジオが再び津波の確認情報を喋り続ける。各地の情報は十センチメートル、八センチメートル、二十センチメートルなど非常に小さな数字が並ぶ。場所によっては既に満潮時間を越しているが、避難勧告の解除は一つも流れない。
「二十センチなんて脛ぐらいなんだからさ。もう帰ったって良いじゃん」
再び高校生が言う。老人達の中にいた胡麻塩髭の男性も、あの子の言うとおり、と妻に声を掛ける。妻も曖昧に首をかしげつつ、同意の表情を浮かべた。遅い、と誰かが呟く。疲労感の高まっている老人が何人か呟きにうなずいた。
室内の空気が焦り始めた。私は高校生に周囲に聞こえる程度の声で話しかけた。
「津波の高さってさ、先端の波の高さじゃないんだ。ずっと沖から水面が上がってる。十センチ上がったら、その高さと津波の幅、そして沖合何キロメートルか、その掛け算での体積の海水があるんだ。それが川に殺到したら。当然ずっと高くなるしさ」
大学時代の気象学だっただろうか、それともネットで読んだ情報だっただろうか。とにかくどこかで見聞きした話を身振り手振りを交えながら話す。そのたどたどしい話でも一応は高校生も納得したようで、まあ諦めるか、と言う。
変な正義感を出してしまっただろうかと少し悩む。だが私自身、ラジオが単調に繰り返すわずかしか変わらない情報ではなく、何か説明を聞きたかったのだ。だからこそ自分で自分にたどたどしい説明をしたのかもしれない。大学時代に気象学をきちんと勉強しておけば良かったと後悔する。断片的な用語は頭の隅にあるが、記述するための数式を思い出せないことが妙にもどかしく感じた。
満潮時間を越し、既に時計は夜十一時を指していた。一段と全体の疲労が濃くなっている。高校生も少しは大人しくなってきた。ラジオはもうとっくに過ぎた津波到達予想時刻まで含めて同じ情報を流し続けている。
ドアが開き、市役所職員らしき女性が、紙コップ、砂糖、インスタントコーヒー、ミルクを載せたお盆とポットを提げて入ってきて、どうぞお飲み下さい、と入り口付近のテーブルに置いた。すると、すぐ傍に座っていた細身の女性が紙コップを並べてコーヒーを淹れ始めた。この中では私はかなり若手だ。手伝いに向かおうとしたが、女性は全く違うことを言った。
「砂糖とミルク、どうしますか」
運びましょうと言うはずの声が止まり、おどおどした声で、ブラックで、と答えてしまう。彼女は笑顔で私にコーヒーを渡し、手早く淹れた他のコーヒーを配り始める。端にいた子連れの母親も自然に横に行って手伝い始める。私は首をすくめて元の席に戻った。やはりこういうときは慣れが自然に差となって出てしまうのだろうか。
紙コップに口をつけ、火傷しそうになって慌てて舌先をひく。再びゆっくりとすすると、ただのインスタントコーヒーなのに妙に喉に染み渡るように感じる。最初の方でコーヒーを貰った老婆も美味いね、と隣の人に声を掛けて笑顔を浮かべていた。
コーヒーが全体に行き渡り一息ついたとき、ラジオが津波警報の解除と津波注意報の情報に切り変わった。気が付いた者は全員ラジオを見つめる。再びラジオが網走の津波注意報を繰り返す。室内に安堵した表情の市役所職員が入ってきた。
「帰って、良い?」
おそるおそる聞くと、市役所職員はお疲れ様でした、と告げる。 何人もが安堵の溜息をつく。老人たちはそれでもまだ腰が重いようで談笑を始めながら椅子に座ったままだ。私は手元の残ったコーヒーを大切に飲み干すと、既に空になった紙コップを持った老婆の紙コップと一緒にポットの脇に置き、部屋の扉に手を掛けた。
扉を開けながら振り返ると、硬く固められていた空気が緩やかに動き始めていた。
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