文芸船

ペインクリニック

 現れた言葉はいつもどおりだった。

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 未読にわざわざ三つもゼロを並べなくても良いのに。余計みじめな気分になる。メールのボタンを押して「センター問い合わせ」に合わせる。改めて選択ボタンを押そうとして。

 電源ボタンでメール画面を消した。待ち受け画面に戻る。いっつもの通り、かわいいサボテンが画面の上で踊っていた。でもそれは、今の私には明るすぎて。

『それ、かわいいよな』

 私の携帯を覗き込んで微笑む、彼の柔らかい声が聞こえた気がした。ちょっといたずらだけど、そのくせ顔をしかめるだけで頭を垂れる。なのに困ったときは頼りになって。どこかゴールデンレトリバーを思わせる、濡れた瞳がいっつも優しい、そんな人。

 大好きな、祐樹。

 逢えない人。


『ペインクリニック』

 通学路に見慣れない看板が見えた。

 ここんとこずっと工事してたんだけど、やっとできあがったみたいだ。玄関は桜色で、全体は明るいベージュで優しい雰囲気。

 近寄って見ると「麻酔科・神経科」と書いてあった。色に惑わされたけど、「クリニック」なのだから当然と言えば当たり前だ。

「どしたの? ぼんやり立って」

 声に振り向くと、幼馴染の沙耶が悪戯っぽい目をして立っていた。

「新しく出来るこれ、何かな、って」

「病院でしょ病院。なんか面白いとこかなーとか言ってたのに残念だよね」

「それもそうなんだけど」

 言い淀んだ私に、沙耶は首を傾げた。

「『ペインクリニック』って、なに?」

 私の愚問に、沙耶は意地悪な顔をする。

「あらら、看護理系クラスの由紀がそんなことも知らないわけ?」

「何よう、だって私まだ高校生だもん」

「まだ高校生でおまけに文系クラスの私も知ってたりするんだな、これがまた」

 ぶっとふくれてみせると、沙耶はようやく表情を緩めた。

「ちょっち言い過ぎたね。英語のペインは、訳すと『痛み』って意味」

「痛み病院?」

「ま、そんなとこ。末期癌もこの範囲ね」

 一歩あとずさった私を、沙耶は鼻をぴくつかせて見つめる。沙耶はときどき、こうやって人の嫌がるのを喜ぶ悪い癖がある。

 沙耶は再び看板を眺めて首を傾げた。

「でもさあ、内科とか外科とか、なんか他のものも診ないでやってけるのかなあ」

「お医者さんってみんなお金持ちだし。きっと大丈夫なんじゃない?」

 呑気な言葉に、沙耶は呆れ声で答えた。

「患者が来なかったらいくら医者だってお小遣い前日の由紀状態になるわよ」

「って、あんたに言われたくない」

「由紀はきりきり切り詰めまくるけど、私は堂々借金生活するから潔いもんよ」

 変なことを自慢する奴だ。そんな私の気分も無視しまくって、沙耶は豪快に笑う。

「ま、私もバイト始めたし、今までみたいな借金生活とはお別れするけどね」

 だが私は疑り深い視線を送った。

「何よ? なんか言いたいわけ?」

「お小遣い幾ら上がっても足りない子だったなー、とか思ってさ、幼馴染さん」

 沙耶はようやく言葉に詰まって私の顔を見つめた。私は片目をつぶると前を指差す。

「だらだらしてると学校遅れちゃうよ!」

 空の裏側まで透き通りそうなほど青い、秋晴れの日だった。


(最っ低)

 毒つきながらうずくまる。ランチは焼きそばパンに忠誠を誓ってたのに、卵サンドに浮気した報いだろうか。それとも、帰り際に飲んだ缶コーヒーが悪かったのかもしれない。そういえば、缶に印刷されているパイプをくわえたおじさんが、いつもよりやぶ睨みだったような気もしないでもない。

 痛い。汗が額に滲む。

 頭を振って荒く息を吸う。

 家までたったの二百メートルもないのに。わけがわかんない。

 悔しい。痛い。

(祐樹)

 彼の名前が頭をよぎる。

 また頼ってる。

 でも少し楽になった。だからまた呟く。

(祐樹、祐樹)

 周りは住宅だらけでも、助けを求めるなんて出来るわけがない。独りなんだ。

 痛い。汗が頰の上を辿る。

 痛い、って叫んだら誰か私のそばに来てくれるかな。いや、来て欲しくない。

 歩かなきゃ。

 痛い。道路が歪む。脂汗が顎を伝い落ちた。

『どうした、君』

 突然、背中から声が聞こえた。

 祐樹? って思わず振り向いた。でも、そこには。

 そこには誰もいない。だから携帯を握った。

 電話帳を開いて、「祐樹」の名前を選んでメール作成画面に移って。

 「yuki@docomo.ne.jp」に空メールを送る。

 送信完了して。即座に受信完了して。

 祐樹からのメールだ。

 ユウキからの

 yukiからの

From:yuki@docomo.ne.jp
内容:

 空メールだ。

 当ったり前の。

 違う答えなんて返しっこない。助け起こしてくれたりなんて、あるわけない。彼氏なんて、今まで一人もいたことないんだから。

 だって祐樹は、由紀なんだから。

 携帯を閉じた。道路の輪郭が明瞭に戻り始める。少し腹痛が和らいだみたいだった。自作のお伽話は、意外に現実の私を支えてくれる。

 いつからだっけ、架空の人と仲良くなったのって。でもとにかく、居心地が良い。

 狂ってるのかな、なんてときどき思うことだってある。だって、自分に別の名前をつけて、自分でメール送ってるだなんて。でも現実にいる友だちだってどうだろう。単なる私の海賊版、みたい。沙耶に牽かれてないときの私なんて、黙ってる以外に何もないんだ。つまり、騒いでいる私は、ただ沙耶に変身しているだけなんだ。

 ふと、数学の先生が移動した図のこと、写像って言ってたことを思い出した。だとしたら、沙耶は私の写像なんだ。そして独りの私は、沙耶の場所への変換を待ち続ける座標上の、独りぼっちの点。

 いつのまにか汗が止まっていた。背中を伝う汗の粒がひんやりと寒い。顔を上げると、目の前にペインクリニックが建っている。足を向けかけ、再び路を見つめた。家までほんの僅かの距離だ。私は正面を向き、再び歩き始めた。

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