転勤すると住処は変わるし仕事の内容も変わるし面倒ばかりだ。まずでかい街だと住民登録と住民票の取得だけで一時間待ちとくる。自宅だって電気とガスと水道を大至急で申し込み、銀行口座の住所変更に各種ネットサービスの住所変更とくる。このネットサービスもこつこつやっていけばもう二時間ぐらいはパソコンを打ち続ける羽目になる。
これだけ忙しい中でも飯を食わずには耐えられない。転勤経験のない人だと、数日なら外食で済ましてしまえばいいだろうと思うようだが考えが甘い。転勤したばかりだとネット検索で出てくるのはチェーン店かグルメ店で、平凡な定食屋なんてものはろくに見つからない。自炊に切り替えようにも、今度は材料を買うスーパーを探すためにカーナビに助けを求めた上で道に迷うという始末。やっと辿り着いて自宅に帰ると、いつもと違う慣れないキッチンの作業で気持ちが萎えてくる。
それでも知らない街には意外な発見があって楽しいものだ。今回転勤してきた札幌市は学生時代に住んでいたので知った気でいたのだが、大人になって住み始めるとやはり違う。さすが観光雑誌で薦めているとおり、スープカレーの看板が随所に立っている。また、以前に住んでいた函館市と比較して、居酒屋は海鮮物専門店より焼き鳥専門店が圧倒的に多いように感じる。そういえば学生時代に美唄焼き鳥の看板はこんなに沢山はなかったように思うのだが、いつの間にか市内で流行でもあったのだろうか。他にもネパールカレーやタイ料理など見慣れない各国料理の店もあり、自分がとてつもない田舎から出てきたような気分になってくるし、そんな多くの店を見ていると、自炊を始めた今でも店に入りたくなる。
まして夜の街となればなおさらで、ありがちな少し目つきの悪い客引きや黄色い声のガールズバーの呼び込みはもちろん、平凡な居酒屋の呼び込みを女子大学生ぐらいの女の子がやっていたり、深夜にはサンドイッチマンよろしく看板を抱えた女性が立ったまま居眠りしているのも見かけるなど、なかなか面白い光景が多い。
今日は学生街をぶらついているうちに、気になるバーを見つけた。入ろうか迷っていたが、玄関近くの看板に母校の大学祭のポスターを見かけて懐かしい寮歌を口ずさんでしまい、慌てて歌を飲み込む。それにしても「漢字の漢と書いてオトコと読む」などど喚き、毛筆で大看板を書いていた我が母校の学生寮が、少しアニメ風のポスターになっているのを見てしまうと何とも複雑な気分になる。
「おじさん、どうしました」
振り向くと、ジーンズを履いた若い女が腕組みをして背後に立っていた。ショートヘアに細い黒縁の眼鏡をかけ、胸の辺りは穏やかな言い方をすれば素早い動きに対応しやすそうな膨らみだ。顔立ちや悪戯っぽい視線から見ればいかにも専門学校か大学生といった印象だ。彼女は男っぽく笑って店のドアを開けた。
「マスター、新しいお客さんが道端に落ちていたよ」
おそろしく失礼な奴だ。だが既視感のある笑顔に、俺は惹かれてそのまま店内に入った。店内は山小屋風を気取った全面木製の内装で、塗装をせずに磨いただけなのか大きな節がずいぶんと目立つ。壁には古い外国映画や大学の学校祭のポスターが乱雑に貼られており、壁には空手部だの応援団だのといった、大学生たちの様々な記念色紙が大切そうに飾られていた。
ふと、俺は一枚の色紙に惹かれた。「超自然料理研究会」とある。禍々しい魔法陣の周りに鏡文字で何やら書いてある。オカルト研究会だろうか。だがよくみると栄養学と食品科学を基本に、オカルトネタや各種健康法をパロディにして笑い飛ばしているような、かなり人を食った内容が色々と書いてあった。曰く、炭酸温泉の美容法に目をつけたカルピスソーダ風呂、コラーゲン鍋とケーキ原料ゼラチン入り鍋の美容対決、カレー粉にも肝臓に効くウコンが入っているからとお花見にカレーライス一気飲み大会など、かなりろくでもない。
もっとも、俺も学生時代はオカルト雑誌研究会で、大学祭では魔法薬と称してカクテルを作って売っていた身なので全く後輩たちを馬鹿にできる身ではないが。
「我が研究会の色紙に目を付けるとはお目が高いですね」
カウンターには髭面のマスターしかいなかったはずなのに、聞き覚えのある女の声がカウンターから届いた。嫌な予感がしつつ振り向くと、例の無礼な女子学生が使い込んだ白衣を着てビーカーの中で何やら茶色い液体をかき混ぜていた。
次いで紅い液体をピペットで吸うとメスフラスコに投入し、さらに先ほどの茶色い液体を手早く加えてぼちゃぼちゃと振り混ぜ、氷をぎっしり詰めた小さなビーカーに流し込んだ。続けて脇の鉢から何かの根を取り出すと、メスでスライスして先ほどのビーカーに流し込む。
「ようこそ、ファーストドリンクは無料です」
「この怪しげな物を飲めと」
「美味しいですよ。最高っすよ。それに衛生管理は大丈夫、安心安全が自慢です。一応これでも私、公衆衛生学と食品製造実習は優ですので」
何だこのでたらめ小娘は。こっちは衛生管理部門の現職だぞという言葉をぐっと飲み込み、俺はなるべく平静な大人を装って怪しいドリンクを口に含んだ。スコッチの煙い香りに混じってチェリーブランデーの優しい甘みが舌を撫でていく。スライスされた生姜はジンジャーエールよりも遥かに鮮烈で、スコッチの嫌味を拭い去っていく。
酔いで緩んだ頭の中で、もう一度この女子学生の言葉が頭の中を流れた。また既視感が俺を襲う。公衆衛生学と食品製造実習。ちょうど俺が大学三年生で履修した組み合わせと全く同じだ。女子学生は欠伸をすると、洗ったメスフラスコを指先だけで回しながら几帳面に光にかざす。あの汚れの確認方法は母校の中でも俺の講座だけの伝統だった。案の定、女子学生は俺たちが先輩から指導されたのと全く同じ配置でさっきの道具を棚に戻し始める。
俺は、俺と同じ匂いを纏った後輩をどうやってからかい返してやろうかと楽しみになってきた。
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