文芸船

マイレージ

 宏は駐車場に車を止めると、メモ帳に走行距離を書き取った。約百キロメートル。今日はけっこう走った方だろうか。宏がこの車を買って約半年だ。いつも金がないとこぼしている宏には似合いすぎる、年季の入った軽自動車から普通車に代えた途端、ドライブに行こうと騒ぎ始めた。そこで私はからかって「一緒にどのぐらい走るんだろう」と言ってみた。

 何がどう気に入ったのか知らないが、宏は私の言葉を真に受けて、デートでドライブするたびに走行距離を記録している。初めのうちはガソリン代でも請求するつもりかこの甲斐性なし、などと思っていたが、とくに請求書が出てくるわけでもなく、毎回こうやってメモ帳に記録を取っている。そのうち私も面白くなり、時折宏のメモ帳を覗いたりしているというわけだ。

 日付と距離の並んだ表だけなのに、案外行った先を思い出せる。宏にしては珍しく自分から私の肩を抱いた日も、この表だけで思い出せる。言ったら途端にむくれてバッグに隠してしまったが。

 宏がバッグに手帳をしまいこんだ。ふと、彼の後ろ姿がいとおしくなって彼の背筋を人差し指で撫でてやる。彼はくすぐったそうに体をよじる。面白くて、今度は首筋を撫でてやる。甘えた声をだす。お前は猫か。

 宏はいつものむくれた顔で、亜紀さん、と私の名前だけを呼んだ。二人っきりのときぐらい、亜紀ちゃんとか亜紀、で十分だと思うのだが、彼はその一線は踏み越えない。たしかに入社は私が二年先だが、二歳の差なんて中学、高校で同じ学校にいられる程度の差だ。大学なんて二年留年して後輩になっていた奴もいたぐらいだ。だが几帳面な宏は、先輩の私をさん付けでしか呼ばない。もどかしい男だと思う。

 でも。さん付けで呼ばれている私自身、今の関係に甘えている気もする。年下の後輩を可愛がる先輩。そんな、少し倒錯的な恋愛の形に安堵している私がいる。束縛の嫌いな私にはある意味理想的な、逃避先としての恋愛。

 宏がまた、亜紀さん、と言って首を傾げた。気が付かないうちに頰が緩んでいたらしい。私は気にすんな、と言って宏の背中を平手で叩いて助手席のドアを開ける。

 宏が急に私の胴に腕を回して引き寄せた。真剣な表情で私の頰に接吻をする。私は吹き出さないように必死に堪えながら、宏の頭を撫でてやる。

 バイバイ、と言いかけて私は慌てて言葉を飲み込んだ。ちょっと不機嫌な顔の宏。彼は変な癖があって、帰りのバイバイ、さよなら、は禁句なのだ。トラウマだか何だか知らないが、またね、と言ってやると機嫌が戻る。何となく最後の別れみたいな、そんな不安がよぎるらしい。でも、その気持ちが最近なんとなくわかってきた私も同類なのかもしれない。独り暮らしの気ままな、と言えば聞こえは良いが、言い換えれば仕事以外には何の責任感もはっきりした居場所もない人間。だから、こうやってじゃれ合ってお互いの居場所を作っているのかもしれない。

 彼の頭をぽん、と撫でて軽く接吻を交わし、私は車外に出る。宏は手を挙げ、自宅へと走り去って行った。車のテールランプはどことなく、そのまま彼の穏やかな背中を思わせた。


 会社帰り、宏は話があると言って私を自宅に呼んだ。営業の宏は販売の中盤で張り切っているのだろうが、私の方はやっと先月の帳簿をまとめたばかりでかなりぐったりしている。来週なら良いのに、と顔をしかめたが、宏のくせに今回ばかりは全く退く様子がない。私は少しうんざりしながら、それでも宏の車に乗り込んだ。

 彼の部屋に入る。相変わらず几帳面に整頓された部屋だ。スポーツもやらなければ機械オタクでもない彼の場合、持ち物自体が少ないのは当然なのだろうが。

 ぼんやりと室内を見回していると、彼はハーブティーを淹れて私の前に置いた。きちんとティーセットを使う辺り、何とも女みたいな男だと思う。彼に言わせれば私の方が大雑把過ぎるらしいけど。でも、そんな細かいくせに穏やかな彼だから私は付き合っているのかもしれない。

 一口含む。鼻腔を果実に似た上品な薫りが駆け抜ける。私たちのお気に入りのカモミールティー。何となく肩凝りも薄らいだような錯覚に陥る。彼は妙に慌てた様子でお茶を飲み干すと、部屋の奥から分厚い書類入れを取り出し、嬉しそうにテーブルの上にその中身を広げた。

 それは沢山の旅行パンフレットだった。JTB、JR、JAL。聞いたこともない旅行会社のパンフから、どこで手に入れたのか田舎の町役場が出している観光案内まで混じっている。彼は電卓と、いつもの走行距離メモを持ってきて私の顔を覗き込んだ。

 連休、旅行しませんか。言って彼は、電卓で今までの走行距離を計算していく。そして足し上がった数字に何やら掛け算すると、数字を私に示した。

 何と、彼は私とある一定距離走るとそれに合わせて貯金していたのだという。宏が勝手に設定したマイレージサービス。給料日でもない日によくATMに並んでいるとは思っていたけれど。変な奴。変な奴だけど。何だか私は嬉しくてたまらなくなる。

 彼は勇気を使い果たしたのか、いつもの小さい宏に戻っておずおずと私の答えを求める。私は小さく唸って一枚のパンフを取り上げ、彼の試算より少ない金額を口にした。彼は首を傾げ、金額が違いますよ、と律儀な声を発した。でも私は密かに動悸を抑えながら、彼が丸を付けたシングル価格の下を指差す。

 ツインルームなら安いでしょ。私の吐き出した言葉に、彼は目を見開いて頰を染める。私は彼の頭をくしゃくしゃに撫でて言った。

 次のマイレージは新婚旅行にしようよ。

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