「最近流行ってるんだよね、これ。買ったら良いと思うよ」
奈央がWebサイトの一ページを開いて僕を手招きした。覗いてみると財布の販売サイトで、なぜかどれもマジックテープ式の財布だった。写真をクリックするとご丁寧にもクリック音の代わりにバリバリと開ける時の音がスピーカーから流れる。僕は自分の財布をポケットから取り出して見比べた。僕の財布はかなり古びているが、それでも一応は本革の折り畳み式だ。奈央は僕の財布を覗き込むと、姉のような口調で説明する。
「今でもそういうのも変じゃないんだけど、今はこういうのも流行ってるの。遊びに行くときとか」
僕は疑り深い視線を向ける。奈央が悪い冗談で僕をひっかけるのはよくあることで、子どもの頃から何度もからかわれている。奈央は僕の視線に気づいたのか、小さく首をかしげて少し伸びかけのショートヘアを軽くかきあげながら逆に僕をじっと見つめ返してきた。奈央がこの表情をするときは、悪だくみしているときと本気で僕のことを思ってくれているときの二通りだからいつも本当に紛らわしい。
「ほんとだよ?」
奈央は真面目な顔で呟くように言う。僕は一応は信じてもう一度画面を覗きこんだ。値段を見てこれなら今すぐにでも買えそうだと思う。たしかに僕の財布も古びてきていて、新しいものを買っても良いように思う。騙されたところであまり痛くもないし、そういうじゃれ合いをしていられる時間も正直、実は嫌いではない。
と、奈央はそういえば、と独り言を呟くと携帯のスケジュール画面を開いた。
「来週の土曜日、君の誕生日だよね。外食にしようよ。良い店があるから」
ああ、と僕は言われて思い出したように答える。わざわざ自分で言うのは恥ずかしいし、でも奈央が気づいてくれたのを真っ直ぐに喜んでみせるのも何だかわざとらしいような気がしていたのだ。奈央は素直になりなさいよ、と言ってそんな僕の肩を肘でつつく。僕は笑ってうなずくと奈央と日程を打ち合わせ始めた。
土曜日の夜。待ち合わせ場所に行くと、奈央は珍しく僕より先に到着していた。いつも遅刻している癖に、五分前行動だよと僕を偉そうに軽く説教した後、彼女は軽く胸を反らして店へと案内してくれた。奈央はとにかく新し物好きで、市内で発行されているフリーペーパーは欠かさず読んで新しい店を開拓している。そのせいか、男の僕が奈央を連れて行って楽しませるという男女定番のデートよりも、奈央が興味を持った店に僕が引きずられていくか、僕が運転手になるというのが定番だ。
到着したのは小さなロシア料理の店で、店内は赤を基調としたこじんまりとした店で、棚にはマトリョーシカ人形やロシア帽が飾られており、部屋の奥には暖炉が備え付けられている。壁にはシベリアの冬と冬のクレムリン宮殿を描いた小さな油絵が掛かっており、どちらも雪の美しさよりは冬の厳しさを強く感じられる絵だ。料理だけではなく、店全体がロシアの空気を感じられるような造りにしているようだ。
僕はメニューに載っている真っ赤なボルシチスープなんて初めてだし、キャビアを使った料理も初めてだ。よくまた見つけたね、と訊くと奈央は私もコースは初めて、と言って少しそわそわとする。
「でも、今日は私のおごり」
この点は奈央の豪快さと優しさだろう。プレゼントはよくあるけれど、外食まで奢りだなんて言ってくれる子も僕の友達の話だとあまりいないようだ。もちろん、僕と奈央が幼馴染みで、そのうえ給料がほとんど変わらないというせいもあるのだけれど。
「だって今日はね」
僕が首をかしげると、少し怒ったような表情で僕を見つめて言った。
「今日は、本当に特別の日だから」
誕生日だからね、と僕が答えると奈央は首を大げさに振り、僕の鼻先に指を突き付ける。
「今日から三十路。しっかりしなさい。もう少し頼れる男になるように」
奈央は偉そうに腕組みする。そりゃ僕は頼りないかもしれないけれど。それは僕と奈央の間ではとっくにわかりきっている話だし、第一僕に頼る奈央なんて想像できない。奈央は僕の表情で考えを読み取ったのか、軽く溜息をついて言った。
「そりゃ君が頼れる王子様に変身するとか思っちゃいないし。私だってなよなよしたお姫様なんて柄じゃないけど。何て言うか、三十路の自覚と言うかそういうのをね、見ていて思うわけよ」
「そんなこと言ってるけどさ、君だって同い年だろ」
「幼馴染みだけど、私は早生まれだからまだ半年以上後だよ。まだ私、二十代だし」
奈央が満面のかわいい笑みを浮かべる。まずい。機嫌を損ねたみたいだ。三十路なんて言ったのは自分の癖に。変なところだけ女の面倒さがあるんだから。でも、そんなことを言い返して敵うはずもないので僕は言葉を飲み込む。すると奈央は店員を呼んで何か僕の知らないものを追加で頼んだ。
「ペルツォフカでございます」
ショットグラス二つに何やら赤い液体が注ぎ込まれる。よほど冷やされているのか、グラスの表面にすぐ水滴が付き始める。手をかざしてみると凍るほど冷たいようだ。僕が無言で首をかしげると、奈央はいかにも嬉しそうに答えた。
「だから、ペルツォフカだって」
「もしかして、ウォッカとか」
「大正解。私のお・ご・り」
言って奈央は自分の分をすかっと飲み干して水を後から追加で飲むとにやにやする。
「うわばみ」
言っても奈央はにやにやするだけだ。僕も全く飲めないわけではないけれど、だいたいはワインかビールで、奈央のように強い酒を飲み慣れているわけではない。それでも僕は諦めてグラスを口にした。
と、口の中が燃えるように熱い。僕は焦って水をがぶがぶと飲むこれはウイスキーとか強い酒の熱さじゃなく。
「唐辛子が美味しいの、ペルツォフカ」
「今日の君、ずいぶんひどくない?」
「私、いつもひどい女だし」
開き直った。いや。お祝いしてくれてるんだけど。それにしても開き直った。僕の視線に奈央は珍しくおどおどした表情を浮かべる。
「ほら、次は甘いからさ」
言って奈央は店員に視線で合図した。すると少しして紅茶が出てくる。
「これは騙しなしよ。って言うかいいよ」
平凡な紅茶かと思ったけれど、よく見ると純白の小皿に薄黄色のジャムがついていた。そしてその皿には普通のティースプーンより細身で金色のスプーンがついていた。
「ロシアンティー。それも、ここのジャムは特別なんだよ」
言われるままにジャムを紅茶に入れると、華やかな薔薇の香りが広がった。
「薔薇の花弁のジャム」
奈央がいつもと違う静かな感じで微笑む。何だろう。今日の奈央はいつもと何だかずいぶんと違う感じがする。
僕は紅茶を口に含み、香りを鼻に通す。先ほどの焼けた感じが収まり、お腹まで温まっていく気持ちになる。だが、アルコールは抜けるどころか逆に回る感じがした。
頭が少しぼんやりする。そういえば今日の奈央は、僕のお祝いと言いながら妙にお洒落している気がするけれど。いつもより何だか奈央のことが愛おしい気持ちになってくる。さっきの奈央が言っていた、頼れる云々をもう少し僕も何とかしてみようだなんてことを柄にもなく思う。
僕はへらへらと笑うとポケットから財布を取り出した。
「今日、楽しかったし僕もお金、出すよ」
買ったばかりの財布を開くとバリバリとマジックテープの音が激しく鳴る。と、奈央は焦った表情を浮かべ、次いで溜息をついた。僕はわけがわからず奈央の顔を見返す。
「君さ、どうしてこういうときだけ素早く行動しちゃうのかな」
言われて僕は真新しい財布を見直す。たしかに妙に安いとは思ったけれど。奈央は更に大きく溜息をつくと、長めの箱をバッグから取り出した。
「プレゼント渡して『騙された?』ってやるための前振りだったんだけどね」
奈央の勧めで箱を開けると、それは本革の長財布だった。黒革で手触りだけでも普段僕が使っている財布より格段に良いものだとわかる。財布の中を開けようとすると、奈央は僕の手を止めた。
「君が頼りなくても仕方ないかもしれない。でも、そういうすぐ信じちゃう君にはね、私みたいなちょっと強引な人が必要だと思うの。マジックテープは、片方だけじゃ駄目」
僕は何だか急に酒が抜けて奈央を見つめる。僕は財布をテーブルに置いて居住まいを正した。すると奈央は顔を真っ赤にしてテーブルに偉そうに手を付くと、初めて見るほど不安そうな声で言った。
「だから、財布の中身に印鑑を押しなさい」
ゆっくりと財布を開いてみると、一枚の紙が入っている。それは奈央の名前と印鑑が押された婚姻届だった。
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