今日も私は相変わらず駅のホームで登校の電車を待っていた。毎日、本当に何の変哲もない飽き飽きした光景でしかない。電車が止まり、中から乗客が一気に吐き出された。降りる乗客がいなくなったのを見計らい中へ飛び込む。急いで見回すとちょうど二つ空いた席を見つけた。私はいつも通り席に腰を下ろし、隣の席を取られないよう鞄をしっかりと置いた。
電車が発車する。規則的な振動が体を揺する。すぐに次の駅につく。名前も知らないくせに顔だけは見慣れた乗客がまた詰め込んでくる。ドアが閉まり、また次の駅に向かって発車した。
「そこの席、空いてますか」
声に顔を上げると、くたびれた顔のおじさんが私の鞄をじっと見つめていた。私はいつものように友だちが来ます、と答えようとして気づいた。研ちゃんはもういない。席をとっておいてあげたって、もう電車に乗ってくることなんてないんだ。彼がいなくなってずいぶん経ったはずなのに、まだ気持ちは整理なんてできちゃいなかった。おじさんは狼狽して私から離れる。見回すと他の大人たちも私のことを怪訝な表情で覗き込んでいる。私は慌てて顔を鞄で隠すようにして別の車両へと逃げ込んだ。
研ちゃんは私の大切な人だった。彼は毎日、私の乗る駅の次の駅から乗っていた。だから毎日私が席をとってあげていた。そうして一緒にお喋りしながら学校までの道のりを楽しく過ごす、そんな毎日だった。こんな小さな、でも私にとっては最高の素敵な毎日が卒業までずっと続く、そんなこと疑ったこともなかった。
なのに。日常はあっけなく崩れた。壊れた建物の下敷きになって研ちゃんは帰らぬ人となったのだ。手抜き工事だったという。研ちゃんのご両親は裁判でその建築会社と係争中だ。でも私が傍聴したのは一度きり。どんなにあの強欲そうな社長を責めたって研ちゃんが私の隣に戻って来るわけじゃない。あんな奴、見ているだけで腹が立つ。そんなの、つらいばっかだもん。
お葬式も悲惨だった。遺体は酷かったらしく私は会わせて貰えなかった。やっとの再会はもう既にお骨にされた後だった。腕の中に入るぐらいの箱に骨が入ってる、それだけだった。ただのカルシウムの塊。それが研ちゃんの成れの果てだった。
もう、研ちゃんの席はいらない。
「私、旅行してくる。ほら、このゴールデンウィーク長いじゃない。せっかくだからあちこち観光してこようかなって」
突然の宣言に両親は狼狽え、続いて父は無理に作った冷静な表情で、誰と行くのかと訊いてきた。私は当然、独りだと答える。すると父は私の話を打ち切ろうとした。でも私は父の言葉を無視してさらに計画を伝える。
「あのね、私って東京行ったことないじゃない。東京は人がいっぱいいるし、それに危ないとこには行かないから大丈夫よ」
「父は心配してるのよ」
母さんはいつも通りのおどおどした態度で父を弁護する。それでも私は一歩もひかずに言った。
「私だってもう十九歳だよ? 就職活動は東京中心なの。本州の子なんて簡単に日帰りバスで東京に遊びに行くんだし。過保護なんだから」
それでもまだ渋る両親に、私は本音を漏らした。
「私、じっとしていたくないの。研ちゃんのこと思い出しちゃうんだもん。ねえ、吹っ切らせてよ」
両親は顔を見合わせた。彼のことは両親もよく知っている。あの事故のとき、錯乱気味になった私を必死で宥めてくれた両親にこんな言い方するのは悪いな、とかすかに胸が痛んだ。しかし今は、せめて今回だけは私のわがままを聞いて欲しいとも思う。父は黙って空の湯飲みを母さんに渡す。母さんも黙ったまま焙じ茶を煎れてまた元の座布団に座った。
「ねえ、黙ってないでお願い」
せがんでも父は何も言わずにお茶をすすり、天井を見上げるばかりだ。母さんは不安そうに父の様子を窺う。今度は私も黙ったまま二人を代わる代わる見比べる。そうやって緊張が続いている中、いきなり私の頭の上に何か紙が載せられた。慌てて手に取ると一万円札だ。
「知子、最近は奇怪な人形焼きがばか売れしてるらしいから、とびっきり変な物を我が輩の為に買って来るように」
兄はいつもの奇怪至極な笑顔で両親と私の間に割って入ると、勤めている会社のワインを両親の前に置いた。この兄は妹の私がどんなに身びいきしても足りないほどの変人で、兄が蠢くところは何か奇妙な話になる。とにかくこの兄と一緒にいると何が起きるかわからない。ついこの間もペットショップから買ってきたウサギに首輪をつけて犬みたいに散歩して歩いていた。変人兄貴は不快な表情の両親の前に膝を折って頭を下げた。
「いやあ、またまた俺の開発した新製品、満を持しての登場とあいなりました。お父様、お母様、どうぞご賞味下さいませ」
「高志、今は真面目な話をしとるんだ。あっちに行ってろ」
「そうはいかないなあ。なんといっても俺はこの真面目で優秀な妹を心から愛しちゃってるんだから」
「なら引き止めんか」
「いやお父上、愛しのかわいい知子ちゃんもそろそろ巣立ちに向けて翼を動かし始めたのですぞ」
「お前という奴は!」
父の表情が険悪になる。私もいつも通りの無茶苦茶な兄を睨みつけた。だが兄は私の頭をくしゃくしゃに撫でて言う。
「大丈夫。知子なら心配ないって。西田家きっての非常識人の俺でさえ日本縦断旅行やって生還したんだから、知子ならお土産たっぷり抱えて帰って来るって」
「お土産たっぷりかどうかは」
「いーや、お土産ちょっぴりならこの兄が断固阻止する。町内逆立ち歩きデモを繰り広げてでもお土産たっぷりを要求する」
「あの、繰り広げなくて良いから」
ツッコミ入れてからやっと兄の企みに気づいた。話の本筋は逸らすだけ逸らし、その上両親の反撃を抑え込んでしまっている。兄はまた私の頭を撫でて優しく笑いかけてくれる。相変わらずの呆れた兄貴だ。ま、味方になってくれるのは嬉しいんだけどね。私が目配せすると、兄貴は嬉々とした声音で宣言する。
「ほいじゃ父母さん、オッケーだね」
「いや、それは」
「何? お土産が不安か?」
遂に母さんが吹き出す。それを見た父も溜息をついて、やっとゆっくりとうなずいて言った。
「知子、気をつけて行って来い。高志の言うとおりだ。お前なら大丈夫だろう」
「ありがと!」
私はしっかりと両親に頭を下げた。次いで兄にも向き直って礼をする。だが兄は真剣な表情で訊いた。
「東京って八丈島じゃないよな」
「あのねー」
「では、うーむ、花の都東京か。なら見送りのときには何か山ほどの花束を用意して盛大に、だな」
「兄さん、お願いだから余計なことはしないでね」
「ん? 俺がいつ余計なことをした?」
自覚のない人間ほど扱いにくい者はない。とか言いながらも変人兄貴に手伝ってもらって格安のチケットを手に入れ、兄から旅行ブックも借りてそれなりの形を整えた。何だかんだ言いながら、結局は兄貴の世話になり通しなわけだ。とは言え、そのぶんおかしな所も多いから差し引きだ。だいたい何であの兄貴は東京旅行の差し入れにカンテラや飯盒を持って来るんだろう。兄貴のそういう異次元空間的行動を拒否するだけで旅行前の数日間はすっかりつぶれてしまった。
そうしてどたばたと落ち着かない日々を過ごしているうちに、気がつくと遂に旅立ちの日がやってきた。兄貴の車で空港まで送ってもらう。車窓から眺める風景は市内のくせにどこにも馴染んだ場所はない。時折、見慣れない店の看板にかすかな異邦人の気分を味わってしまう。考えてみれば空港に来るのは高校の修学旅行以来だ。それほど私はこの街に閉じ篭もっている。いや、街という名の牢獄に囚われていることに気づいていなかった。そして研ちゃんの記憶にも。思い出なんて言えるわけのないのに。
やっと着いた空港は高校の頃と変わらず、外では飛行機がエンジン音を響かせていた。そんな中、私たちは搭乗口へと急いだ。
「知子、気をつけるんだぞ」
搭乗ゲート前で父がポソリと言った。普段通りのはずの七三に分けた髪と紺色のネクタイがなぜかいつもより硬く見えた。黒縁の眼鏡の奥で、脇に立つ兄貴を不機嫌に眺める。兄は破れたジーパンの穴に指を突っ込んだまま、ケケケケッと笑った。母は父の後ろで篭の中のリスみたいにうろうろしている。兄は母を横目で確認すると、またケケケケッ、と笑う。
気遣いしすぎる両親に挟まれていて今まで我慢できたのはこのどたばた兄貴のおかげもある。だが、少しで良いから静かになりたかった。この旅行で私はどう変わるのだろうか。吹っ切るって言ったけど、本当に吹っ切れるのだろうか。むしろ寂しさが募るだけではないのだろうか。もしかしたらこのまま帰って来なくて、なんて危険な考えが頭を掠め、慌ててそれを振り払う。
普通じゃない不安が胸の隅をよぎる。自分の精神に自信が持てない気がする。だが、それでも飛行機の搭乗ゲートに着くとそれなりの気持ちになってくる。旅行だ旅行、楽しい旅行。ほうら、気分は明るいぞ。こんな風に思うとやっぱり笑顔になる。私は変な空気を振り払いたくて妙に明るい声音で叫んだ。
「じゃ、行ってくるね!」
両親が口を開きかけた途端、兄貴は私の背中を思いっきりどついて搭乗ゲートに送り込んだ。私はちょっとよろめいて、でもすぐに家族から離れた。ゲートをくぐると私は振り返って見送る家族に手を振った。そしてもちろん研ちゃんにも。あ、研ちゃんはもう、いないんだっけ。馬鹿だな、私。
「君、どうかしたかね?」
いきなり立ち止まった私に、ビジネススーツをびしっと着込んだ紳士が声をかけた。私は小さい声で礼を言うと、今度は振り返らずに手を振ってから足早に歩き出した。また、ちょっとだけ泣いていた。
成田空港からモノレール、山手線と乗り継いで原宿へと向かった。ひっきりなしにやってくる山手線はいつも故郷で乗り慣れている電車と違ってやたらに発車が速い気がする。乗り降りする人たちの動きもどこか早回しのビデオのように流れていく。
そんな中にいると、通学のときにいつも乗っていた電車が逆に夢だったような錯覚に誘われる気がした。でも勘違いなんかじゃない。私はあれで毎日通っていた。私は毎日、あの電車に乗って研ちゃんが乗ってくるのを待っていた。研ちゃんと一緒にいた。
また思い出しちゃった。でもすぐにその記憶を振り切ると駅から街へと飛び出した。ここは東京。私が住んでる街とは違うんだもん。ここには絶対に私の記憶の欠片は染み着いていないはずなんだ。ここにいる私は誰も知らない宇宙人、なーんて。
色々な物がある。でもそれ以上に様々な人が歩いていた。もの凄い人出に圧倒されそうになり、田舎もんだなあ、と自分のことを笑ってしまう。でも見慣れないデザインの服にはしゃいだり、変わり種のクレープをぱくついたり。新宿駅前では大きな八百屋さんがメロンを小さく切って一切れ百円で売っていた。こんな商売、私の故郷でもできそうだな、とか。ちょっと怪しいお兄さんに声をかけられて逃げだしたり。
そんな風にだらだらと過ごすうちに、いつのまにか日が傾いていた。そこで夕方は夜景が綺麗とかいうパンフの売り文句に誘われて深いことも考えず天王州アイルに向かった。
天王州アイルは新しい観光スポット兼ビジネス集積地だ。観光パンフには「近未来風の美しい都市景観」とかいかにも格好つけな文字が並んでいる。実際に行ってみると、たしかに整理された街並みだった。歩道を歩く人々は何となくのんびりした感じで少し安心した気持ちになる。でもビル群の事務所で働いているらしき背広を着た男の人が無表情に歩き去っていくのを見ると、ここも決して夢の国ではないことを印象づけられる。
アイル内を見終わったあと、外れまで足をのばしてみた。すると小さな公園で野球の練習をしている少年たちを見かけた。でもよく見るとなぜかゴムで髪を結んでいる子が一人混じっている。
「美樹ちゃーん! しっかりとれー!」
向こうにいるリーダー格の子が叫んだ。そっか、あの髪を結んだ子、女の子なんだ。へー、おてんばさん。
少女はなぜかふっとこっちを振り向いた。その視線はあからさまにきつくて、よっぽどのじゃじゃ馬なように思える。そんな彼女を見るとどこか羨ましいような気分になった。
ほんとは私も無茶をやってみたかった。でもいっつも臆病でできなかった。兄の後ろにくっついて悪ふざけの手伝いをしたことはあったけど、自分独りで目立つことはできなかった。そんな私のことを両親は「高志と違ってしっかり者」と言っていた。でも。そんな私は何なのだろう。ただ臆病なだけの善良なる小市民って奴。恋愛にまで臆病で、研ちゃんの想いにも応えきれなかった情けない女。そう、キスでさえもろくすっぽ。
たしかに男という奴らは恋愛の七割以上が性欲みたいな連中だけど、その欲求はある意味、純なところもあるように思える。
『女と男って別な生き物なんだな』
以前、研ちゃんが呟いた言葉。どんな機会に言ったのかはもう覚えちゃいない。でも、そのとき見せた研ちゃんの寂しそうな顔は今でも頭の奥に畳み込まれている。
あのとき私は『同じ生き物に決まってる』って笑った。でも、今は。今ならそんな言葉は吐けないと思う。もうそんなことは言えやしない。やっぱ、私にとっては彼は彼だから価値があったのだろうか。私が女だから彼は認めてくれたのだろうか。臆病者の同姓だったら、私は彼にどう思われていたのだろうか。
「いっくぞーっ!」
さっきの美樹ちゃんの甲高い怒鳴り声で私は我に返った。子どもたちをもう一度眺めると、どこか今の自分よりずっと眩しく思える。ほんとは私にもこんな風になれる時代があったはず、そんなことを思うとこのまま野球場の傍らにいるのが急につらく思えた。そこでやっと私はまた現実逃避の街、天王州へと戻った。
小物雑貨の店をひやかしたり、ちょっと喫茶店でひと休みしたりしているうちに、天王州もすっかり夜になっていた。
水辺に映るライトは思ったよりロマンチックだった。なぜかふと、あの変人兄貴のことを思い出した。あの怪人物の兄がこんな所に来たらきっとその辺に提灯ぶら下げたりして雰囲気ぶち壊すに違いない。そんなことを思って思わず吹き出す自分もかなりあの変人兄貴に毒されているのだろうか。
ふと、水面で踊る光から目を離して周りを見回すと、そこここにカップルが歩いているのが目に入った。暗いからか、端から見ているこちらの方が恥ずかしくなるぐらいにぴったり寄り添っているカップルが大半だ。でも、そんなの見てたら。私も。
腕を軽く体から離して隙間をつくる。ここに研ちゃんの腕を絡ませて。その腕が肩を抱いてくれて。そして。
こんなのあんまりだ。自分で自分の気持ち傷つけちゃってる。研ちゃんへの想いがまた私の心臓を引き絞った。熱い塊が喉の奥に蓋をしたように思う。涙が溢れてくる。自分の腕で体を抱きしめた。でも、到底そんなんじゃ体のふるえは止まらなくって。
「行きたい」
言えなかった言葉を、口にしちゃいけない台詞を遂に吐いてしまう。でも少しだけ気持ちが楽になった。だからまた繰り返す。
「行きたいよ」
夜風が私をそっと水辺に誘う。今度は少し大きな声で呟いた。
「君のとこに行きたい。もうこのまま死んじゃったって良いから研ちゃんのとこに行きたい」
また水面を凝視する。冷たい水が黙って私を見上げていた。まだふんぎりのつかない私をせかしていた。いつでも準備はできてるよ、そんな死神の囁きが耳元に甘く漂っていた。もう何も欲しくはなかった。このまま消えてしまいたい、何もかもやめてしまいたい、そんな気分が私をしっかりと包み込んでいた。
ふらつく足どりで遂に運河の周りの柵を乗り越えようとする。と、そのとき突然に背後から体が抱きしめられた。
「だれ?」
もがくと何者かは慌てて手を離す。私はすぐに振り向いた。でも。そこには誰もいなかった。いない。いない。独りぽっち。
やっぱ独りぽっちだ。何もなかった。抱きしめられたなんてそんなの、私の妄想でしかなかった。研ちゃんが来る、そんなこと期待してた。もうとっくにお骨になっちゃってるのに。後ろから抱きしめて「ひっかかった」なんて言って笑ってくれる、そんなことあるわけないのに。叶わない妄想と現実を混同していた。
あらためて水面に目を移した。考えてみれば初めてのデートも水辺だった。朝っぱら、いきなり掛かってきた電話に悪のりして行ったピクニック。あまりに子どもっぽくって健康的すぎて。
でも今はそれがすっかり思い出の形に収まっていた。やっぱり彼は思い出の人でしかない。私は生きてるんだから。ほら、胸に手を当てればとくっ、とく、って動いてる。息を止めれば苦しくなる。お腹だって減るし眠くもなる。こんな私に悲劇のヒロインは似合わない。そういや研ちゃん、悲劇って嫌いだったっけ。そんな彼が悲劇の種になっちゃって。だったら残った私はハッピーエンドになんなきゃ。だってあの世の研ちゃんに怒られちゃう。
どこか吹っ切れた気がした。途端、兄を思い出す。そういやあのちゃらんぽらん兄貴でも約束だけは絶対に破らない人だった。私が運河に飛び込んだりしたら約束を破ることになっちゃう。
だって「お土産たっぷり」の約束しちゃったんだし。
「我が愛しの妹よ、よくぞ帰り着いた! 兄は嬉しいぞ」
また相変わらずわけのわからないことを言いながら兄貴が駆け寄ってくる。私は両手にぶら下げたお土産を突き出した。
「ご注文の『お土産たっぷり』だい。兄さん、これで満足?」
「うむ、予は満足じゃ」
兄貴は心底嬉しそうにお土産と旅行用鞄を受け取ってくれた。私はすぐに帰ろうとする兄の服を慌てて掴むとぽっつり言う。
「あの、兄さん。私ちょっと遠回りしたいんだけど」
「遠回り?」
「ちょっと駅の方っていうか、その」
言い淀む私に、兄は珍しく鋭い眼光でうなずいた。そして念を押すように普段はめったに聞けない真面目な声音で言う。
「早めに帰ってくること」
うなずくと、兄はまた私の頭を撫でて私を車に押し込んだ。兄の車が駅に付き、私はいつもの電車に乗る。いつもの席に腰を下ろして隣の席に鞄を置いた。研ちゃんが乗っていた次の駅に着くと私は研ちゃん用のはずだった隣の席に、買ってきた人形焼きの箱を置いてそのまま電車を降りた。
これで席を二つとるのはおしまい。大好きだった研ちゃんのことはずっとずっと大切な思い出。でも、いつまでもそれに縛られてるわけにはいかない。だからあのお菓子は研ちゃんにあげる最後のプレゼント。これでやっと、長い間嫌っていた、お供物という言葉を私も使い始めよう。
駅を出ると、両親が車の脇に立ってこっちに手を振っているのが見える。兄貴はその脇でもうお土産のお菓子を頰張っていた。私は大きく深呼吸すると一気に家族の元に走っていく。
遂に私は騒がしい生者たちの住処へ帰宅した。
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