文芸船

ループの向こう(後編)

 結局、西村と吉原はまで呑み続けた。翌日は日曜だったこともあり、二人で昼まで寝ていた。その怠惰さがむしろ、吉原にあたる先のない焦燥を植え付けた。

 西村を駅まで送って家に戻ったとき、既に外は暗かった。新しい、憂鬱な一週間が準備運動を始めていた。予感が再び吉原に携帯を開かせた。やはり暮葉からの書き込みが掲示板にあった。

『トレハさん初めまして。お友だちとは楽しかったですか? 私も会いたい友だちとかいるんですが、なかなか会えないんですよ』

 吉原はお愛想程度に楽しかった旨を書き込み、次いで他の表示に目を走らせた。

 ずっと画面を下げていくと、ページの最後に「告白」というボタンがあった。前回は途中で電源を切ってしまったせいで見つけられなかったのだろう。ボタンを押すと、そこは暮葉の独白を綴るページだった。

『この世に不要な人間はいないという常套句は、私は欺瞞だと思うのです。遺伝情報の運搬体に過ぎない我々は、生きている限り、むしろ平等に不要な存在なのです』

 ふと「DNAの連環から逃れられない」という西村の言葉を思い出した。だがそれとも違う気がする。さらに古い書き込みを見れば彼女の考えがわかるかもしれない。だが吉原は臆病に電源を切ってコートを羽織ると財布の中を確認した。


「いらっしゃいませ! 水割りで良い?」

 裕香が隣に座った。店の方で逆指名してしまっているらしい。お決まりに乾杯をすると、裕香は唇を横に広げるような笑みを浮かべて首をかしげる。だが、目の下にかすかな隈が見えた。裕香は隠すように視線を逸らす。吉原はウイスキーを口に含んだ。だが、即座に眉をひそめてグラスをテーブルに置いた。

 裕香はグラスを照明にかざした。濃厚な光の帯が漆黒のテーブルに反射する。二人は暫くの間、光の動揺を見つめていた。だが唐突に、裕香は自分の頭を握り拳でこつっ、と叩いて濃すぎですね、と笑った。吉原は我に返って裕香の手元に目を向ける。

 裕香はグラスに水を加えて混ぜていた。角が溶けて丸みを帯びた氷は、吉原に先ほどの光景を惜しく思わせた。

「きれいなものって瞬間だけなのかもな」

 裕香は天井を仰いだ。吉原も曖昧に首をかしげて見せる。裕香は吉原のグラスに氷を二片足すと、吉原のことを詩人だ、と言った。

「俺が書くのはプログラムぐらいのもんだ。詩人って奴には会ったことがない」

「それって、十分すごいじゃないですか」

 裕香の中ではプログラマーも詩人もすごい人、という意味では一緒らしい。吉原は軽く笑った。裕香は恥ずかしそうに自分のグラスに唇をつけ、でも、と話を続ける。

 先日、どこかの大学の先生が来たそうだ。裕香には社会科のような学問、と言っていたそうで、「勉強の話」をして帰ったという。エリカは上手く逃げてしまい、結局は裕香がずっとその客の相手をしたのだ。裕香は難しい話に大して不快感はない方なのだが、それよりも彼の学問が不快だった、という。

「世の中に不幸な人は永遠にできるってことを証明した、って。そんなこと嬉しそうに話せる神経、信じらんない」

 どうなのだろう。吉原は自問する。もし自分がその研究者の立場であったなら。発見できたということは嬉しいに違いないのだ。吉原の沈黙に裕香は戸惑った。そんな裕香の様子に、吉原は曖昧な声を出し無意味に携帯を取り出した。裕香も吉原の動作に話の打ち切りを読んだのだろう、黙って自分も携帯をテーブルに置く。

 二つの携帯がテーブルに並んだ。水割りを口に含む。先ほど濃いと言ったせいだろうか、今度は水っぽい気がする。

「いつもチェックしてるサイトってあります?」

 訊かれて、なぜか吉原は咄嗟にごまかしてしまった。大した話でもないのに喉が渇く。背中を汗が伝わる。だが,急に裕香は視線を逸らしてカシスを手にした。やっと吉原は肩の力を抜いた。

「居心地の良いホムペってあるんですよ」

 言って、裕香はカシスの残りを飲み干すと溜息をついた。


 吉原が実験室に足を踏み入れるのは実に二年ぶりのことだった。取引先が商談で持ち込んだサラダセットに薬剤添加の疑いが強いため、吉原は次長の指示でサラダセットの検査依頼に来たのだ。

 恩師の教授に近況を話していると、女子学生がお茶を持ってきた。黒い長髪をゴムで束ね、ジーンズにスニーカーを履いている。先生の話では四年生は全員就職活動に出ているはずだ。なんとなく白衣が似合いそうな気がするのは院生だからなのだろうか。彼女は興味本位な視線をちらりと向け、急いで教授室から出て行ってしまった。だが、彼女の態度には吉原も身に覚えがあるので腹も立たない。むしろ、自分が「お客様」であることに奇妙な違和感を感じた。

 先生に依頼の商品を見せると、実験室を貸すから自分でやってしまえ、という指示だった。吉原は学生時代の白衣を着て向かいの実験室に入った。

 室内に目を巡らせると、先ほどの四年生が魚を包丁で細かく叩いていた。彼女は修士課程の一年生で、下田と名乗った。他の大学院生は微生物の特別講義に出ており、今日はタンパク質が専門の下田一人だけだという。吉原があらためて卒業年と名を名乗ると、下田は目を輝かした。

「タンパク質と糖類やってるのって、今年は私だけなんですよ。で、私の研究って吉原さんの修論を継いでいるんです」

 吉原の跡継ぎ、という先生の言葉を思い出した。あらためて下田の実験台を見ると、吉原が置いていった試薬が立っている。彼女が今行っている作業も吉原の馴染んだものだ。

 細切した魚肉をステンレス製の容器に移し替え、冷蔵庫で冷やしておいたリン酸緩衝液を注ぐ。この容器をさらに大きめのステンレス容器に塡め込み、周囲に氷水を注いで冷却する。最後に機械本体であるホモジナイザーにセットしてスイッチを入れた。

 機械が正確に二分で停止した。下田は天秤を調整し、太めの試験管形をした、ガラス製の遠心分離管を天秤に載せた。次いでホモジナイザーから容器を取り出し、粥状になった混合液を四本の遠心分離管に分注する。遠心機内部が四度になっていることを確認し、遠心分離管をセットする。次いで回転速度と時間を合わせ、スイッチを入れた。ブン、と唸り声が聞こえ、次第に音の高さを増していく。二分ほど経って速度が安定すると、下田は安堵の溜息をついた。

「これで三十分ほど暇になりましたね」

「で、洗浄を夕方五時まで繰り返す、と」

「あー、その事実、言わないで下さいよ。どっと疲れるじゃないですか」

 言って彼女は小さく吹き出す。吉原も一緒になって笑い、大学に来た理由を話した。

 彼女は実験室の奥から、幾つか試薬を抱えてきた。見てみると、吉原の検査で使う試薬一式だ。吉原は礼を言って検査に入った。結局、吉原の持ってきたサラダからは殺菌に使ったらしき塩素とソーセージの発色剤が検出された。一方の下田は上澄の緩衝液を捨てては再び緩衝液を加えて遠心分離を再開するという定番のタンパク質抽出作業を繰り返していた。

 こうして全部の作業が終わったときには既にを回っていた。会社からは直帰の許可を貰っていたので、吉原は下田の最後の遠心が終わるのを待つことにした。何気ない会話の中、下田はふと思い出したように訊いた。

「実験、普段も多いんですか?」

 訊いてからすぐに、下田は吉原の顔を見て後悔の表情を浮かべた。暫くの間、遠心分離機の音だけが実験室を満たした。今、この沈黙を破られるのは吉原しかなかった。

「俺、一応なぜか営業担当だったりするんだな、これが。でも必要になれば検査士に変身、ってとこだよ。うち、施設ないしさ」

「じゃあ、久しぶりなんですね」

 下田のかすかな安堵が読み取れる。吉原がうなずくと、下田はあらためて質問を発した。

「実験やってる自分が不安になるんですよ。実験やって、学会のこと考えて、そればっかりで良いのかな、って。ずっと、ずっと同じ作業を繰り返しているだけで」

 吉原は咄嗟に答えられなかった。下田は目を逸らすと、手に持っていたビーカーを水道で洗い始めた。吉原は目をつぶり深呼吸をする。ステンレスの洗い場に水の当たる音が耳に響く。実験室独特の薬品臭が鼻をついた。

 ふと、水音が静かになった。目を開けると、下田はビーカーを仕上げの蒸留水で洗浄を終わるところだ。吉原は実験室を見回した。

 一人すれ違うことすらままならない、狭い空間。夏場でさえガスバーナーを使うというのに、クーラーのない部屋。雨漏りを修理する予算すらない講義室。だが、その貧相な全てが今は羨ましい。ここで過ごした数年間に後悔は微塵も感じなかった。

 だから、吉原は明確に答えた。

「俺は絶対良かったと思うよ。それに、ただの繰り返しなんかじゃないはずだ」

 下田は曖昧に首をかしげる。と、遠心分離機のブザーが鳴った。下田は遠心分離機の蓋を開け、遠心分離管を取り出した。素早く上澄みの緩衝液を捨て、遠心分離管に残ったタンパク質を観察した。

 純白のタンパク質が、微かに蛍光灯の光を透かしていた。

「この抽出だって、実際には毎回違いますもんね。繰り返しなんかじゃないですよね」

 今日の抽出は格別かもしれないな、と吉原が呟くと下田は頰を赤らめた。


 暮葉のページが突如、閉鎖になった。最後に閲覧してからほんの二日後のことだ。残骸となったページには、「告白」と書かれたボタンだけが残っていた。「読み込み中」の表示がもどかしい。画面が変わり、暮葉の言葉が表示された。

 いじめとリスカの経験を書いていた。生まれ変わりを望んでいたと、他人事のように語った。その中で、意味を求めること自体無意味なのだと暮葉は悟ったという。そして最後に結論が語られた。

「『生きる権利』を学校では習いましたが、そんなのは嘘でした。生きようとすることが義務なのです。だから、私は枯木さんに賛同します。私は、生存という暴君から自由になり、記憶に生まれ変わるのです」

 暮葉の言葉はここで終わっていた。しかしページはまだ下がある。吉原は憑かれたようにずっとボタンを押し下げ続けた。遂に、ページの終わりに辿り着いた。そこには、短く文字が並んでいた。

「遺書は以上」

 吉原は呻き、携帯を閉じた。


 吉原は「レストハウス」に来ていた。無性に裕香に会いたくなったのだ。しかしママは吉原の顔を見た途端、気に沿わなければ裕香をすぐ交代させると告げた。

 席に着いた裕香は、背を丸めるように頭を下げた。水割りを頼むと、裕香はだらだらと氷をかき混ぜた。吉原は初めて店に来たときのように肩を竦めて頭を下げてしまう。ママの言った意味がわかった気がする。

 裕香はコースターに水割りを置くと、やっとだるそうに口を開いた。

「こういう仕事で気分がへこんでて、なんて駄目なんだけど。でも、ごめんなさい」

 返事が思い浮かばず、吉原は曖昧に首をかしげる。隣の客の笑い声がやたらと大きく聞こえた。どう体を動かしても座り心地の悪い椅子だと感じる。だが、それでも他の子を呼ぶ勇気は浮かばなかった。

 裕香は今日三度目の溜息をつき、正面から吉原の目を見つめる。吉原は、裕香の瞳孔を観察したのは今回が初めてだと気づいた。笑うかもしれませんけど、と前置きしてから、裕香は携帯を取り出して開いた。

「メール、届かないんです」

 言ってまた俯く。吉原は裕香を見つめ、だが、やはり言葉を掛けられず口を結んだ。裕香はカシスを一口飲んで言った。

「一年以上続いてたから信じてたんだけど。やっぱ、ネットなんて駄目ですよね」

 裕香はまたカシスを大きく一口飲んで、吉原に大根役者の笑顔を見せた。そして携帯ボタンをあちこち押し、顔を背けて言った。

「どうせさ、出会い系とか? 投稿すればいっくらでもメールなんて来ますしね」

 いつもは頰を染めて笑う裕香が天井を向いて笑った。吉原の背中を冷気が走った。だが裕香を理解できる気もした。それどころか、暮葉を共有した錯覚すら浮かんだ。

 実際のところ、暮葉はただネットを止めただけなのかもしれない。だが吉原にとっては、暮葉は死んだと変わらない。そして、これは裕香のメル友も同じことなのだ。

 吉原は逡巡した。それでも、結局は言葉を口にした。

「むしろ、いなくなると思い出すよな」

 裕香が吉原を凝視する。と、裕香の視線が澄んだ。次いで自分の両手を見つめた。

「なんか今、鏡見た気がした」

 言ってから、裕香は慌てたように口を押さえ、ごめんなさい、と謝る。吉原のグラスにウイスキーを継ぎ足そうとして、中身が薄くなっていることに気づき、また慌てる。吉原はなぜか、西村と下田の二人を思い出した。ふと、自分が彼らよりも裕香に似ていると感じた。長く悩んでいた幾何の証明問題を解けたような、妙な爽快さを感じた。

 裕香は新しいグラスを吉原の前に置いた。立方体の氷を数個入れ、ウイスキーを注ぐ。ステンレスの水差しで水を注ぎ、金メッキの細いマドラーで搔き回す。吉原は黙ってグラスを受け取り、一口だけ飲んでテーブルに置く。裕香は唇を噛み、呟くように言った。

「『再帰呼出し』って、わかりますよね?」

 瞬間、吉原は裕香の言葉が理解できなかった。だが、それがプログラミングで使う用語であることを思い出した。『再帰呼出し』とは、動作するプログラムが自身を呼び出すことで繰り返しの作業をさせる技法だ。裕香は吉原の表情に安堵した。

「兄が言ってたんです。『俺たちは再帰呼出しの関数群だ』って」

 吉原は首をかしげた。裕香は小さく声を上げ、兄はIT関係の仕事をしているのだと付け足した。

「情報を入力されると感情とか行動っていう解を出力する関数が人間なんだって。その関数同士を繋いだものが世の中なんだって」

 裕香は言葉を切り、自分のカシスソーダをかき混ぜる。底から湧き上がった炭酸の気泡がカシスの表面を蓋となって覆う。しかし裕香は搔き混ぜ続け、表面が擂鉢上に凹み始めたところでやっとマドラーを引き上げた。

「毎日が回ってく。でも、回してくれるマドラーもなくって。だから自分で自分を起動して、同じことを繰り返してる。毎日の違いなんて、変数値の違いでしかないんです」

 吉原は反論できなかった。だから、今度はプログラムの書き方で反論した。

「でもさ、再帰呼出しを使うんなら繰り返しを止める条件を書いておくんだぜ?」

 裕香は笑った。初めての尖った笑みだ。

「でも、もし書いておかなかったら? 無限に動くの。で、そんなプログラムは壊れてるから、強制終了されちゃうの。もちろん、強制終了で有名な命令、知ってますよね」

 裕香は吉原を濡れた瞳で凝視する。他に違う命令がありそうだと思いながらも、裕香の望む答えを吉原は理解する。

 吉原の唇が動く。

kill」「殺す」

 裕香は吉原の言葉に重ねるように日本語で直訳すると、口元だけの笑みを浮かべる。

「人間はkillされない限り、同じことを繰り返す無限ループの関数。だから何をしたいのかもわかんないで、ただ生きるだけ」

 だが、正しい関数には繰り返しを抜ける命令があり、抜けたあとは新しい関数に移るのだ。なら、ループを抜けた人間の行き先は。裕香は眉をひそめて答えた。

「またループが来るんじゃないでしょうか。最初の方のループでkillされたり、後ろにkillされたりするだけで」

 吉原は自問する。俺はどの辺りのループにいるのだろう。どれだけ長いループの中にいるのだろう。繰り返しの停止条件が書かれていない、壊れたプログラムが目に浮かぶ。無限ループのプログラムに恐怖を嗅いだ。

「でも、そのループで求めた解は何なのでしょうか。どこに行くのでしょうか」

 裕香の言葉に、吉原は怯えつつ答える。

「周りの人の記憶じゃないかな。他の関数に値が渡されるんだ。で、値を受け取った関数は再び、新しいループ関数を起動する」

 裕香は目を逸らすと、私も誰かに値を引き渡して、と呟いてウイスキーボトルを手にした。水割りを吉原の目の前に置く。初めての日も水割りだったことを思い出す。そう、これも同じ水割りだ。吉原は一息に水割りを呷った。

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