文芸船

札幌の渇き

 俺が海のない街に住むのは初めてのことだ。生まれが小樽だった上に大学を卒業後は水産営業に就職したおかげで、これまで海のある街を点々と移り住んできた。うちの会社は札幌本社を除けば函館支社、釧路支社が大きいので、大きい街の印象はどうしても函館と釧路の印象がずっと強くある。

 北海道最大の都市、札幌。百九十万人の人口を誇り、東京都特別区を除けば全国第四位だという。札幌は子供の頃には隣町、就職後も本社への出張で何度も訪れていたが、田舎から来て駅前に立つと居並ぶビル群に圧倒されそうになるし、地下街は通り一つだけでも先日まで住んでいた町の商店街全部が入ってしまう規模だ。歓迎会で連れて行ってもらったガールズバーの店長は、ビル一つに百軒の飲食店が入っていると言っていたが、俺のいた小さい町の飲食店が全部入ってしまう数だ。

 ただ、これだけ大きいとどの店が一番安いのか旨いのか、商品が揃っているのか見当もつかないし、インターネットで検索すれば店の紹介ページがやたらと多過ぎて絞りきれない。根っからの札幌生まれの同期辺りは色々と土地勘があるようだが、学生時代は札幌にほとんど出ることがなく、ここしばらくは田舎回りが多かった俺は戸惑うばかりだ。そんなわけで面倒になった挙げ句、結局は札幌駅前、狸小路、ススキノなど地下鉄で簡単に行ける場所で済ませてしまう羽目になる。

 それでも札幌は夜中まで店は開いているし店を訪問すれば店員が即座に反応するので単身暮らしには便利だ。だが、時折ふと何か物足りない気分になることがある。それが先ほど言ったような店舗の多さによる戸惑いなのか、それとも流行歌にありがちな都会の孤独という奴なのか、その辺はよくわからない。

 今日もそんな日だった。デリバリーミスがあって切身商材を配送トラックに積込できず危うく欠品しそうになり、自分で営業車で配達して歩いたせいでぐったりしてしまった。仕事中は、まだ顔見せしていなかった個別店舗マネージャーと顔合わせできました、などと言って強靭なふりをして明るく振る舞っていたが、退社した途端に気分がすっかり落ち込んでしまっている。こんな日はとりあえず自炊する元気もないのでとりあえず駅前のコンビニでおにぎりを買って軽く食べ、とりあえずススキノにでも繰り出そうかと思う。

 溜息をつき、ただでさえ腰痛で猫背気味の体を余計に丸めて札幌駅の地下街を歩く。ふと顔を上げると地下鉄までの並ぶ柱に動画広告が流れていた。アイドルなのだろうか、知らない芸能人らしき女が妙な服を着て踊っている。電気屋のテレビ販売コーナーのように、柱の上で全部が同じ動画を繰り返し流している。その柱の合間を似たスーツを着た人たちがせわしなく行き来している。他にも今日はどこかで祭りでもあるのだろうか、浴衣姿の若い女性がずいぶん多いが、あまりの混雑で美しさよりも暑苦しさしか感じられない。

 俺は何だか気分が悪くなって視線を逸らした。すると偶然アイスクリーム屋の女性と目が合った。彼女はアイスジェラートどうですか、と笑顔で声を掛けてくる。視線を動かすと、脇に設けられた椅子に数人の女子高生が座って美味しそうにアイスを舐めている。俺はよたつきながらアイスクリーム店に近寄る。一つのカップに二つの味を入れられるというが、面倒臭いので価格も見ないで人気一位と二位だというバニラとベリーを頼み、とりあえずベリーを舐めてみた。

 酸味のあるアイスを食べたのは久々で、またこの酸味と冷たさが少し頭を冷静にさせてくれる。ヘラで盛り上げた形は固そうなのに、カップアイスのような歯に沁みる固さは全くなく、ゆったりと舌の上で溶けていく。少し落ち着いた気分で今度はバニラに移り、今度は大きく掬って口に入れる。札幌でアイスを食べたのは初めてなのに、懐かしい味が口の中に広がった。俺はもう一度確認のためにバニラを頰張った。

 俺はアイスジェラートをしっかりと味わいながら店の看板を見直す。どこかで見たことがある。通勤で見慣れたのではなく、どこか違う街で。

「ここって支店、ありますか」

 尋ねると店員は完璧な笑顔で、当店は函館に本店があります、と答えて壁のポスターを指差した。そこには函館の代表的な観光地の五稜郭と函館西部地区が写っていたのだ。いつだったかは忘れたが、夏の暑い最中に西武地区でアイスを食べたことはあったと思う。涼を求めて食べただけだったので店の名前は全く覚えていなかったが、店員さんが同じ制服を着ていたような気がした。

 函館ね、と呟くと店員さんは、函館って楽しいですよね、と笑う。この街に来てしばしば感じるが、札幌市民にとって函館というと強烈に観光地の印象が強いようだ。

 ふと、駅構内のキオスクで函館銘菓のチーズオムレットをいつも売っていることを思い出した。何だか函館に行きたくなってくる。南北線に乗らずに左折して地下街を三分も歩けば函館行きの高速バス乗り場がある。

 思いかけて独りで笑ってしまった。背広のまま高速バスに乗って函館へ脱出するだなんて、完全に何かの逃避行だ。でも今はどこかへ逃げたい気分になっていた。

 函館へ逃げる。それは無理な相談だけど、チーズオムレットを買うことはできる。いや今はもう、函館のアイスを食べた所だ。それよりこの札幌に、もしかして函館由来の店は他にもあるのではないだろうか。

 面白い思いつきだ。俺は鞄からタブレットを取り出すと、ブラウザを立ち上げて函館をキーワードに札幌市内を検索すると、お土産と海鮮関係の店が幾つも表示された。リンクを辿ってマップを開き、現在地との距離を確認すると、ススキノの居酒屋が手頃な価格のようだ。他にもススキノを検索すると、道南出身の店員がいると宣伝しているスナックやカクテルバーも表示された。

 俺は地下街をススキノに向かって歩き始めた。札幌のは現在、札幌駅からススキノまで地上に上がらず地下街を歩いて行くことができ、その通路ではジャズのミニライブや何かの商品宣伝などがほぼ毎日行われている。

 今日は道東の観光宣伝のようで、丹頂鶴やエビ、カニの写真を展示した区域があり、初めて見るゆるキャラがゆらゆらと体を揺らしながら立っていた。さすが道東だけあってエビやカニは箱売りしているようだが、独身で忙しい最中に水産品の箱売りは勘弁だし、今日の仕事も魚の切身が原因なのであまり関わりたくない気分だ。

 だが、パネル展示にある寒そうなオホーツク海の流氷や、幣舞橋と釧路港を合わせた写真には気持ちがざわついた。アウトドアにはほとんど興味のない俺だが、こういうビルの中にいると恋しくなるのだろうか。しかし他のパネルにある湿原やヒグマの写真を見てもそれほど気持ちは波立たないのだ。

 奇妙な気はしたが、とにかく俺はススキノへと地下街を進んで行った。ススキノに近づくにつれてスーツ姿の人が減り、代わりに浴衣の女性とカーゴパンツなど軽装の若い男性が増えてくる。

 見回していると、花火大会のポスターが掲示されていた。今日の日付で、場所は豊平川となっている。開始まであと二十分程度だ。俺は再びタブレットで豊平川への経路を確認する。徒歩で二十分と表示される。ちょうど良いのでこのまま花火見物に行くことにした。我ながら行き当たりばったりだが、せっかくの機会だし必須の予定もないのでどうでも良いと思う。

 初めはマップを確認していたが、そのうち浴衣姿の人々の歩く方向が一方向に向かい始めたので、そのまま流れに混じって行くことにした。

 俺は普段、家も職場も買い物もほぼ西側で済ましているのだが、豊平川は東側にあるようだ。そういえば母校の大学の校歌に豊平川が謳われていたが、俺はまだ実際に豊平川を見たことはない。せっかく札幌に住んでいるのだから川も見ておいた方が良いのかもしれない。

 十分ほど歩くとススキノの繁華街の光があまり見えなくなり、幾つか建っている店もうらぶれた感じの店や馴染み以外は相手にしていないような雰囲気の店ばかりになってきた。運動不足なのか、かなり暑くなってきて扇子で顔を扇ぐ。札幌はコンクリートが多いせいか、それとも何となく風も少ない気がする。

 行き先の方から花火の音が聞こえてきたが、ビルが邪魔になって全く何も見えない。周囲を歩いている女性の集団も少し早歩きになってきた。俺も何となくその流れに乗って歩みを早めた。

 遂にビルの隙間から光が見え、交通整理員が持つ赤い光も目に入った。橋の欄干にもたれる観客がいる。俺はそのまま花火の光る方向に歩き始めた。

 周囲では、来た、綺麗、などの声が上がっていた。橋梁から見下ろすと、河川敷も多数の人々がのんびりと歩きながら空を仰いでいる。俺は欄干のそばで空いている場所を見つけ、欄干にもたれかかって観客に混じった。

 大輪の花火や枝垂れる花火、連射などが次々と打ち上げられる。花火の打ち上げは南の方で打ち上げており、花火が開く下を車が次々と走行している。花火の下には橋梁に取り付けられた道路照明の橙色の光が眩しい。花火を見る上では下に光があると邪魔だと思う。すぐに、なぜ邪魔だと感じたのだろうと考えた。ここにいる他の人たちは感じていないように思えた。

 だがすぐに、俺は他の街で見た花火のことを思い出した。函館でも網走でも釧路でも小樽でも、俺の見た花火にはこんな光は周りになかった。やはり大都市だとどこでも光が溢れていて、海へ映り込む花火も見えなくて。

 違う。俺は再び橋と豊平川に目を向けた。俺が今まで見たことのある花火は全て、海上に向けて打ち上げられていたからだ。俺にとって花火は港や海とつながっていたのだ。そして、この札幌の街には海がない。

 俺が馴染んだ潮風が吹かない。

 磯の香りがない。

 この街で言う自然とは木々や川のことで、海ではないのだ。僕はコンクリートに飽いていたのではなく、海が恋しかったのだ。地下街のパネル展で心がざわついたのも、そこに海の影を感じたからなのだ。

 陸に上がった魚のように、俺は海水を欲していた。潮風の湿度を喪った俺は渇ききっていたのだ。

 俺はタブレットを開いて自分のスケジュールとバス時刻を検索した。近く休みをもらって小樽に行こう。函館に行こう。釧路に行こう。そして海に会いに行こう。

 空に、大輪の青い花火が打ち上がった。

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