文芸船

君はいらない

「飯食いに行こうぜ」

 山川の唐突な誘いに由加は首をかしげた。由加の知る山川は人生どこか投げ遣りで常識外れな行動が多い。酒癖も良くないし、普段の生活を見ている限りではこんな奴でも大学に入れたのが不思議に思える。そのくせ今まで留年していない上に、由加が落ちた試験すらかいくぐっていた。話の端々にも頭の切れを印象づけるような台詞がある。そんな、気にはなるものの妙な感じのする男だ。

 時間、あるんでしょ。全く当然のように再び山川は声をかけてくる。喋りからすれば色っぽい話ではなさそうだ。まさかこの昼間から変なことをする気でもあるまい。とは言うものの、自分に声を掛けてくることに納得できたわけでもない。それを訊くと、何となく、という全く要領の得ない台詞が返ってきた。由加はかすかな苛立ちを憶える。しかし山川はにやっと笑って付け足した。

「旨い店なんだよ。でもさ、結構量が多いんだよな。お前大食らいそうだから良いだろ」

 全く予想外の言葉に拍子抜けした由加は、無礼者、と言い放った。

「どうせ俺は無礼者だ」

 山川は由加の抗議を軽く受け流した。由加はわざと尖らせて見せつつ、デートじゃないよね、と念を押す。山川は鼻で笑い、そのまま黙って歩き出した。

 冷静に考えれば、なぜ山川の誘いにのったのか由加自身もよくわからない。山川に格別好意を抱いているはずはない。ただどことなく気になる、そんな気持ちはある。どちらかと言えば好奇心というか、変わった動物をみたときにちょっと近づいてみたくなる、そんな感情に近いかもしれない。

 色々と思い返しているうちに山川はずいぶん先まで進んでいた。由加が急いで駆け寄ると、山川は一枚のCDを取り出した。どこかで見たことのある名前だが、どんなバンドかは全く思い出せない。表情を読みとった山川は不満そうな口調で、大物なんだぞ、と言い足した。

「でも知らないものは知らないもん」

 山川は嘆息して、今度は教師みたいな口調で話し始める。

「アメリカでもチャートインしたバンドでさ、今のテクノ系にはすっげー影響与えてるんだ。音自体の形成が全然違うんだよ」

 必死で説明したわりには気のない返事しかしない由加に黙り込む。しかし由加はそんな山川に興味を抱いて笑みがこぼれた。山川はそれを見とがめて攻撃する。

「お前さ、俺のこと馬鹿にしてるだろ」

 ひねた感想に由加はまた苦笑した。山川は由加の表情を見ても今度は黙り込んだままだ。そうするとただ黙って歩くのは由加にはつらい。そんなわけで由加は無理に話題を作って話しかけた。

「私、初め山川くんって頭の良さそうだな、って思ってたんだ。変わったこと知ってるし」

「ただの不気味なオタクかもしれないぜ」

 わざとらしく口元を歪めた山川を見て由加は吹きだしてしまう。すると山川は調子に乗ってさらに自分の趣味をまくし立てた。

「絵も本も好きだな。酒も好きだし馬鹿騒ぎするのも悪くねえ。この間は仲間と一緒に歩いて隣町の湖まで行ったしな」

(お前みたいなオタクがいるかよ)

 由加は突っ込みを入れそうになって慌てて飲み込む。普通の人間ではないことは確かだが、世の中狭く生きてる連中とも全然違う。とにかくこいつは「タイプ分類・山川」とでも言おうか。

 ふと気づくと二人は一軒の大衆食堂の前に立っていた。看板は「中川食堂」。入り口に「中川スペシャル大好評」とマジックで書いた段ボール紙がガムテープで乱雑に貼ってある。

「ねえ、女の子をこういう店に誘う? 普通」

「デートじゃねえって言っただろ」

 冷静に返す山川に由加は渋々口を閉じる。それでもさすがの山川でも由加のことを気の毒に思ったのか、ほんの少しだけ柔らかい声音で付け足した。

「でもここの『中川スペシャル』って旨いんだぜ」

「ま、味をみてからあんたへの裁きを申し渡したる」

 ふざけた答えにやっと山川は笑い、暖簾をめくった。

「おばちゃん、中川スペシャル二人前!」


 「この馬鹿男っ!」

 にやにや笑う山川を由加は恨みがましい目で睨む。確かに旨い。旨いとしか言いようはない。しかし、だ。こんなに大量に食べたのは何年ぶりだろうか。由加は苦しさのあまり、男の山川を前にしながらベルトを緩め、それでも足りずにジーパンのボタンも外してしまった。

 だが店のメニューの脇に小さく添えてある注意書き。『もし残された場合には、料金は倍額とさせて頂きます』とある。山川がこんな大食らいだとは思いもしなかった。自分の分はとっくに平らげ、由加の丼飯も半分ほど食べて飄々としている。

「あんたさ、何で半分ことか考えないわけ?」

「え? そういう手もあったか」

 気づかなかったような言葉は嘘に決まっている。箸を口にくわえてどの皿をお茶で胃袋に流し込むか物色している姿をみて楽しんでいるのが由加にははっきりとわかる。

「倍額払うか? まあ、そりゃ金は二人で半分でも良いけどねえ。なんで多く払わなきゃなんないのかねえ」

「いーや! 食べてやる食べてやる! 負けてたまるか!」

 とうに由加は胃袋の苦しさに冷静さを失っている。だがそんなことは自分でわかるわけもなく無理矢理胃袋に叩き込む。いつのまにか味もわからず、機械的に押し込んでいく。

 それでもついに食べ尽くし、箸をテーブルにたたきつけた。

「おりゃ、食べたよ!」

「お、すげえすげえ」

「いやー、凄いですねえお客さん。女性初ですよ」

 囃したてる山川の背後に店主が現れ拍手する。由加は腹に手をあてたままVサインをしてみせた。途端、フラッシュが焚かれる。由加が小さく悲鳴を上げたが、店主は当然の顔で言った。

「お二人ともちゃんと飾っておきますから。一人で食べきった人はみんなここに飾るんですよ」

 店主が指さした奥の壁には大きく「中川スペシャル攻略の豪傑たち」という張り紙があり、数枚の写真が貼られていた。

「待って下さいよ! 恥ずかしいです!」

「何言ってんの。学生のうちだけだよ、こんなことやってられんのは。大丈夫。あんたかわいく撮れてるって」

「そういう問題じゃないです!」

「うちの店にはそういう問題なのさ。さあさあ帰った、帰った」

 言われて由加はまた恨みがましい視線を山川に向けた。だが、考えてみればギブアップしなかった自分が悪い。高校時代にやっていた体育会系の体質がまだ抜けないらしい。それにしてもあの頃はケーキの食べ放題とかまだかわいい方だった。

 溜息をついて、でも体を折り曲げる余裕もなくて体を反らしたまま店を出ると、山川は豪快に笑った。

「今日は面白いもの見させてもらった。ありがとさん」

「『ありがと』じゃないよ! 誰かに見られたら私、まるっきりの馬鹿じゃない!」

「良いじゃねえか。たまに馬鹿になろうぜ。その方が面白いぞ」

 思わず由加は握り拳を握った。だが山川の妙な雰囲気を前にしてやはり拳を下ろしてしまう。山川は面白いものを見るような目で由加をじっと見つめ、手を叩いて言った。

「お前、たしか演劇部だよな」

 新たな突然の話に由加は戸惑う。だがそれでも自分の経歴を由加は披露した。

「今はやってないけど、高校のときはヒロインもやってるわよ」

「ってことは情けない騎士を助ける剛毅なお姫様か?」

 由加は顔をしかめながらも、たしかに自分は剛毅な姫様の方が似合うかもしれないと思う。山川は鞄を探り、中からチケットを二枚取り出した。山川の友達が演劇部なのだという。

 チケットの中央に印刷してある『あなたへのヴァージンロードは/あまりに遠すぎて』というクレジットは由加の興味をひくものだった。嬉しそうな表情の由加を見て、山川は相変わらず軽い調子で待ち合わせ時間を言い、そのままさっさと歩いて行ってしまった。

 翌日はまた平凡な生活だった。翌日に教室で会ったときも山川はいつもの憮然とした顔のままだ。由加はそんな山川に安心したような気持ちと、ちょっとだけ惜しいような感情を抱いていた。山川が昨日より特別な友だちになったような、そんな妙な気持ちがあるのだった。

 学校が終わり由加が開演ぎりぎりに走って行くと、会場の玄関で安心した表情の山川が出迎えた。

「ごっめーん! こっち来たの初めてだったから」

 叫んで走り込むと、もう会場はほとんど満席になっている。山川は迷わず前の席に歩いていき、舞台の真ん前あるかなり前の席を指さした。由加が良い席だね、と笑うと山川は満足そうな笑みを浮かべた。

 由加は席につくと、パンフをめくりつつ山川の友達の配役を訊く。すると山川は軽く鼻で笑って答えた。

「『大変だあ』って走るだけのちょい役だってさ」

「あ、いけないんだあ。そういうのだって意外に難しいんだよ」

 反省した顔でうつむいた山川をみて由加が吹きだすと、山川は憮然とした顔で睨み返す。そんなじゃれ合いを繰り返しているとすぐに会場が暗くなった。次いで場内放送が通る。

「皆様、携帯電話のスイッチをお切り下さい。只今より定期公演『傍らに君がいる』を開演いたします」

 ブザーが鳴る。ざわついていた場内が静まり返り、幕が上がった。中央に眠る女の子にスポットライトが当たり、コントラバスの響きが底から這いあがってくる。由加の胸に期待が膨らんだ。

 芝居が始まった。


「あー、久しぶりだあ、こんな気持ち」

 言って由加は目の端を拭った。まだ少しだけ涙が残っている。

「お前ってやっぱ繊細だな」

 由加が首をかしげると、山川は由加の目の端を指差して言葉を重ねた。

「だって演劇観て泣くなんてさ」

「演劇やってた人間が繊細なのは当たり前!」

言いながら何となく芝居の余韻で許してあげたい気持ちになる。しかし山川はまた鈍感な台詞を吐いた。

「少し呑まねえか?」

 さすがに由加は疑り深い視線を向けた。すると山川は手で制して言い足す。

「いや、今度はお前が店を選んでくれよ。俺の連れてく店なら怪しいとか思ってんだろ」

「当たり前でしょ! お酒の店なんて言って並んでる酒が全部薬用アルコールだった、とかありそうだもん」

「いくら俺でもそこまではねえって」

「いーや、あんたなら何があっても驚きゃしない」

 ここまで言ってやっと由加は気持ちが晴れた気がした。とともにもう少し遊んでみても良いかな、とも思う。

「私の家の近くにある居酒屋にしよっか」

 言ってすぐ、呑み遊んでいる女に誤解されたくないと後悔する。だが山川は何のわだかまりもなくうなずいた。


 店に入ると、すぐに山川は店主と打ち解けてしまった。

「しっかし兄ちゃん、かわいい彼女だねえ」

 店主のおだてともからかいとも取れる台詞に、山川は激しく手を振って友達だ、と主張した。だが店主は、友達の女と二人っきりかい、と言葉を重ねる。山川は少しふて腐れた声で返した。

「彼女だったらもっと洒落たとこ探すさ」

 無礼な台詞にも店主は明るく笑い、空になった山川のグラスを焼酎で満たした。

「山川くん、けっこう飲んでるんじゃない?」

「まあだまだ」

「嘘だよ。あんたがパンフ見てるうちにこの人もう五杯目だよ」

 由加は信じられないという面持ちで山川の顔をしげしげと観察した。山川は赤くなった顔で手招きしている。呑みすぎだぞ、と言ってグラスを寄せると山川はへらへら笑って言った。

「由加ちゃん意地悪だなあ」

「あんたに『ちゃん』呼ばわりされる筋合いないよ」

 二人のやりとりを聞いて店主は吹きだす。そして由加の前にいきなり緑色の酎ハイを一杯置いた。由加が首をかしげると、店主はご機嫌な顔で言った。

「これは俺からのおごり。この兄ちゃん、本当は純情なんだよきっと」

 店主の優しい目で言われると、山川を許してやりたくなる。由加は肩をすくめ、山川のグラスに自分のグラスを当てて言った。

「はい、乾杯」

 山川は妙に嬉しそうな顔で一息で飲み干してしまう。由加が目配せすると、店主は焼酎を水で割って山川のグラスに注いだ。山川はグラスに口をつけ、ちょっと怪訝な表情を浮かべたがそのまま喉に流し込んだ。由加はほっとしながらも頭を抱える。

 私、なんでこんな酔っぱらいのお守りしてんだろ。自分の人の好さに呆れてしまう。ばかばかしさに笑ってしまいたくなる。だが、そんな自分の境遇も悪くないような気もする。そして同時に山川の意外な面を見たように思う。投げ遣りなくせに自信家の山川。しかし今、由加の前にいる山川は別人だった。酒に飲まれ尽くされそうな弱々しい人物、それが今の山川だった。

 しばらくそうやって飲んでいるうちに、ようやく山川は席を立った。店主に見送られながら縄暖簾をくぐると外はもうすっかり夜中の冷たい風が駆け回り、まるで酒に火照った体を一気に冷却しようとしているようだった。

 ふらつく山川を支えながら歩いた。一応山川は自分の家はわかるらしい。だが山川は強引に途中の公園で休むと言い張る。しばらく二人は揉みあった末、由加も諦めて近所の公園に向かった。

 思いの外、夜中の公園は不気味だった。柵で囲われた空間は本来の地上と魔法の境界線を形成している、そんな幻想に襲われそうに思う。しかし砂場に置き忘れられた小さなシャベルは、それがただの錯覚に過ぎないことを必死で主張しているようだった。

 急に山川が立ち止まった。いきなり支えてやっていた手が由加の肩を押さえる。抱きしめるように指に力がこもった。

「山川、くん?」

 由加の心に恐怖が走る。あまりに不用心だった。最近は妙な事件が多いというのにいったい自分は何をやっているのだろう。危険。喉の奥に悲鳴が溜まる。だが、絶叫が飛び出しそうになった途端、いきなり山川が手を離して笑い出した。

「何なの?」

 言ってからどうせ酔っぱらいだと思う。だが山川はさっきと違った鋭い目で由加の顔を凝視した。

「悪かったな」

 由加は戸惑う。だが山川は無視してまた繰り返した。

「悪かったな」

 やっと由加は首を小さく横に振った。すると山川は息を大きく吐いて呟くように言った。

「由加さん、君ってかわいいし、良い人だな」

 突然の言葉に、由加は戸惑いの声を発する。だが山川はまるで勝手な調子で話し続けた。

「かわいいから、お前だけは彼女にしたりしたくねえ。あ、どうせなりゃしねえか」

 由加は首をかしげ、曖昧に首を振ってみせる。山川はやっと静かに呟いた。

「恋人とは別れがあるし、俺のせいで大切な人を傷つけるのはもう二度とごめんだ」

「何かあったの? 昔の彼女と何かあったわけ?」

 さらに訊こうとする由加を遮り、山川は泣きかけの顔を隠しながら言った。

「ごめん。お前と友だちでいたい。友だちでいたい」

 由加は急に酒が回ったように感じた。今の言葉で頭に血が昇っただけなのだろうが、アルコールのせいにしておこうと思う。黙っていると、遂に山川は打ち切るように言った。

「異性は彼女にするか、そうじゃなきゃ薄くしか友だち付き合いできないってつらいよな」

 山川は手を挙げてそのまま公園からまっすぐ家への道を歩いていった。由加は独り、しばらくの間その場に座りこんでいた。


「山川くん、レポート大丈夫なの?」

「ああ? 寝てて聞いてなかった。ノート貸して」

「ちょっとー。ま、しょうがないな」

 軽くこづいてやると、山川は猿回しの猿みたいに謝る。由加が吹きだして授業のノートを手渡すと、山川はいつも通りの怪しい笑顔でお礼らしき変てこなポーズをとってみせた。

 あの日の翌日、山川はまた普段の表情しかみせなかった。だが由加に対する言葉や態度が以前より柔らかくなったように思うのは由加の勘違いだけではあるまい。とはいえ、あの日以来ずっと山川からの誘いはない。由加自身、もう二度とないように思う。

 知らないうちに山川に彼女ができたらしいが、好きでもないのにつきあったとかでその娘とこじれたという噂を耳にした。そんなわけで最近、山川に対する女性軍からの評判はすこぶる悪い。だが由加はその話を他の人たちとは違った思いで聞いていた。

(あいつ、好きじゃないからこそつきあったんだよね)

 そう思うと、かすかに胸が痛むような気がする。山川が自分で解決すべき問題でしかないことはわかっているが、その女の子にしろ山川にしろ不幸な巡り合わせだったように思う。

 ちょっと感傷の入った目を向けると、山川はいつものおどけた表情でまた妙なCDを鞄から取り出して講釈をたれ始めた。由加は小さく笑い、山川の肩に手を置いて囁く。

「私はあんたのこと好きだけど、絶対愛しちゃいないから」

 山川は満足そうに、寂しい笑顔を浮かべた。

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