文芸船

ヒグマの都会モグラ生活

 元北海道民にとって、首都圏の暑さは尋常ではない。何しろ北海道は上限の気温が低いし、夕方は涼しくなるのが常識だ。でも首都圏ときたら、とっくに太陽は沈んで見上げる空に星一つ見えない夜でも、街路樹ではセミが大合唱して、粘りつく湿度が皮膚をじわりと覆う。エアコンを掛けて寝ても、眠っているうちに汗をかいて喉が渇いて目が醒める、そんな毎日が未回復の体力を少しずつ削っていく。もはや外国か異世界かという環境だ。

 今も鉄道の車内だが、駅間はずっと地下で周りの風景どころか広告すらないコンクリートの壁ばかりで、ではスマホでネットで遊べるのかと思えば駅間は電波が途切れてろくに見られない。本や新聞も隣りとぶつかるから文庫本も気がひける環境で、結局はこの鬱屈した寿司折どころか漬物樽状態の中、電子書籍を読むかオフラインでもできるスマホゲームをやるしかない。白髪混じりで退職間際のおじさんたちは、小学生のチャンバラ棒のように丸めた新聞をくるくると器用に読みつつ「今どきの若者は何でスマホの小さい画面を操作できるんだ」などと言っているが、彼らの方がはるかに曲芸だよと思う。

 ようやく地下鉄が止まる。だが駅の光はない。体調不良の乗客を先行車両で救助中という放送が鳴った。車内にいくつもの溜息と舌打ち、スマホを乱暴に爪で叩く音が聞こえる。俺はぼんやりと車内広告に目を泳がせた。

 発車します、という車内放送とともに電車が動きだして乗客が倒れそうになる。パンダ体形の中年女性が、ピンヒールで俺の靴の脇をがつりと踏む。あんなものが刺さったらと思い冷や汗が吹き出した。直撃する冷房がその汗をさらに冷やし、冷汗が胸から腹へと流れていく。

 ようやく待望していた本物の光が車窓から差し込む。駅だ。俺の隣りでスマホゲームをしている女子高生も、はげ頭をハンカチで拭っている男も一緒に顔を上げた。

 駅だ。扉を開ける圧縮空気の音が聞こえ、俺たち乗客は皆、半ば前の乗客を押す勢いで駅構内へと流出した。

 ようやく着いた駅構内も冷房が効いているのか冷たい空気を感じる。しかしそれを超える熱い外気の空気層が圧迫してくる。外に行けばさらに酷いと思うとうんざりなのだが、クールビズ何それとネクタイに背広姿で気温三十度以上の改札外に駆けていく奴らは大した勇者だ。だが大半の人は俺と同様、順番にエスカレーターで改札方向に運搬される道を選んだ。何というか、疲れるし。連れていかれるんだから仕方ないと思う方が気は軽い。

 改札を次々と通過する。電子マネーが普及しているので改札で滞るはずがないと思っていたのに、目の前の男がキャリーバッグを引っ掛けて立ち往生しやがる。俺の後ろに並んでいた奴が隣りの改札をバスケのフェイントのように素早く通り、俺も渋々隣りの改札をくぐった。

 ようやく俺は外気に触れる。目が痛いほどの太陽光と熱風を浴び、一瞬だけ外への第一歩を躊躇してしまう。それでも俺はあらためて足を踏みだした。

 汗を拭いつつアスファルトの道路を歩いていく。相変わらず人の波は途切れず行列して進む。屋外だというのに、太陽の熱以外に前を歩く人の体温をうっすらと感じる。左はコンクリートの店舗の壁で、右は虚ろな顔をした人々の群れとすれ違い、たまにスマホを打ちながらの人や前を見ているのか分からない老人の肩がぶつかる。

 最近、交通事故やら何やらで死んだら異世界の勇者や魔法使い、魔王や果ては蜘蛛に転生するファンタジー小説が流行りだけれど、この暑さときたら「異世界熱帯王国の労働歯車転生記」でも書いてやろうかなどと血迷った考えが頭に沸いてくるほど不快度が上がったままだ。

 何か先で騒がしい。地下鉄の中で、誰かとがぶつかるたびに舌打ちしていた奴が、スマホ女子高生と肩がぶつかったと喧嘩をしているらしい。暑苦しいから道の外でやってくれ通りをふさぐなこのはげ親父。都会人は「表へ出ろこの野郎」というチンピラの礼儀も知らんのか。

 慌てて思考の流れを押し止める。俺もあの喧嘩っ早い髪の毛の不自由な御方と思考が近くなりかけていた。

 ラグビー経験を思わせる体格の若い奴が女子高生の背後から喧嘩っ早い男に声を掛けた。男は舌打ちをして前に進み始める。情けない奴だと腹の中で嘲笑ってやる。

 ようやく職場の玄関が見えた。鞄からミネラルウォーターを取り出すとがぶ飲みして呼吸を整えた。この一労働を終えたような汗だくの中、ようやく仕事が始まる。


 今日は休日出勤の振替で、午前中で仕事を終えた。楽しい早退気分の中、職場の扉をくぐった途端に熱風が体にぶち当たってきた。

 この暑さは危険だ。慌ててスマホの気象予報アプリを開くと、今日の最高気温は摂氏三十六度の予報で、当地は現在、摂氏三十四度だと表示していた。

 職場の建物に逃げ戻ると急いで自販機を探す。深くは考えずペットボトル入りのミネラルウォーターにしておく。ショルダーバッグに買った水を押し込むと意を決して再び外へと足を踏み出した。

 さて、選択肢。今から真っすぐに帰宅してエアコンをつけ、お風呂にお湯を入れてクマ牧場のクマよろしく水の中でぼんやりする。なかなか魅力的な選択肢だ。だがせっかくの休み。おまけに今日は金曜日ときた。このまま帰って良いのかという囁きが聞こえる。

 スマホのブラウザーを起動し「東京 イベント」と入力してみる。美術館の特別展がいくつも表示されたが、どれも何度か見たことのある画家で、おまけにそれほど俺の好きな画家ではない。マラソンイベント。俺に自殺願望はない。六本木ヒルズのビジネス会合出会いクラブとやら。ビジネスと言いつつシャンパンとナンパの匂いのする画像という矛盾。もう勝手にやっていてくれ。

 公園で自然に触れる環境活動。爽やかなそうな男女が芝生で寝っ転がっている写真や縁なし眼鏡の女性が木陰で本を読んでいる写真が表示された。場面のつくりがいかにも作り物じみているし、何よりきれいに刈り込まれた芝生と都市公園の環境樹木を自然とは笑わせてくれる。玄関を開けたらキタキツネのチビ助が小首をかしげていたり、白鳥の鳴き声で朝起きていた俺には、この画像には人工という言葉しか思い浮かばない。

 帝国ホテルでカクテルイベント。面白そうだと思いかけ、特別カクテル一杯につき約二千円の数字が目に入ってさすがは天下の帝国ホテルだと諦めて、ホテルの玄関に立つどころかブラウザーを即バックさせる。

 ところでこのサイト、函館と札幌のグルメ広告が差し込まれているのはなぜだろう。こういうイベント検索をする層は北海道観光に行きたがるのか、それとも俺みたいな上京組に帰って来いとでも言っているのだろうか。汗を流しつつしなしなと心が折れそうになる中で、ふと気になるイベントが目に入った。

 七夕まつりと称して、有楽町に夜店が出るそうだ。お祭りのお店で何か食べるのは良いかもしれない。そう思うと途端に腹が減ってきた。俺は乗換案内アプリで最短最安の鉄道経路を検索すると足早に駅へ向かった。

 通勤時間から外れているおかげで、さすがに混雑しておらず座席に座れた。席に着いて強い冷房を浴びると途端に強い眠気に襲われる。慌ててスマホのネット掲示板やニュースサイトを眺め、寝過ごさないよう堪える。

 今日は普段なら乗らない路線を使うので、寝過ごしたら本当にどこに行ってしまうか分からない。俺の行き先は全てこのスマホの乗換案内の地図アプリが頼りだ。よく歩きスマホが問題になっているが、都内でスマホを立ててうろうろしているのは道に不案内な上京組も多いのだから、その辺りは大目に見てもらいたいと思う。

 出入口の駅表示を見上げて確認した。目黒駅を過ぎて恵比寿駅。山手線だけでも降りたことのない駅はたくさんある。恵比寿駅の近くはヱビスビールの記念館があって試飲などできるらしいので、今日行ってもいいかなとも思いつつ、やはり元の目標を狙うことにした。

 ようやく有楽町駅に到着した。有楽町というと古い歌謡曲があったような気がするけれど、あまりに古くてどんな曲なのか俺もよく分からない。ただ、歌詞は覚えていないけれど何となく高級飲み屋というか、とにかくお洒落を意識したような先入観があり、銀座並みに足の向きにくい街だったのだが、降りてみると都内によくある大きな街としか見えない。

 見回した印象では、飲み屋やお洒落ブティックは見当たらず、大型チェーン飲食店に混じって少し高めのランチやカフェといったところか。あとは「○|○|」という看板で「マルイ」と読ませる意地悪クイズみたいな名前の総合店舗がある。

 そもそも、首都圏の人は渋谷が若すぎるとか色々言うけれど、路上でメイドさんがうろちょろしていたり電子部品や中古パソコン屋が多い秋葉原はともかく、新宿、池袋、渋谷の違いはよく分からない。

 もう少し見回していると、小さな石碑を見かけた。南町奉行所跡とある。時代劇で大岡越前がいた奉行所跡らしい。跡と言っても見回す限りビルばかりで石碑があるだけなので、スマホで写真だけ撮影しておいた。

 さらに歩くと英国旗を斜めに掲げた英国風パブ店があり、その玄関先に小さなお稲荷様の祠に近い神社が建っていた。英国の十字とくぐれない大きさの鳥居という組み合わせがこれまた面白いので写真を撮っておく。

 上京して以来、ビル街に混じっている歴史や伝統を観る機会が嬉しい。北海道だと道南圏に江戸時代の事物がわずかにある程度で、道央や道東だとほぼ確実に明治以降だ。とくに神社仏閣関係が江戸以前というのは本州だと当然で、その感覚は北海道と大きく異なると思う。

 その一方で、街が発展して人も多く集まっているのは明治神宮とその周辺の表参道、原宿だというのもこれまた面白いと思う。そういえば明治神宮周辺と原宿がほぼ一緒の地域だと知ったのも上京してからだった。

 北海道にいたときは仕事以外ではめったに写真を撮らなかったのだが、こちらに来て以来、面白そうなものは片端から撮影している。スマホに変えて撮影しやすくなったおかげもあるけれど、北海道に生まれ育ったせいで、今は住居近隣の日常も小旅行の風景に変わるのだ。

 ぼんやりと思い返していたら汗が雫になってシャツを濡らしていた。人差し指で持ち上げると、べったりを超して水を被ったかのようだ。額を人差し指で拭うと、指を伝って汗が雫になってアスファルトに落ちる。

 慌ててバッグにねじ込んであったミネラルウォーターをがぶ飲みする。次いでスマホでイベント会場を検索すると、地図アプリの道案内をクリックした。

 スマホを見ながら会場に向かう。都内でこれがないといつ迷子になるか分からない。最近は歩きスマホを止めましょうという放送が鳴っているが、もし歩きスマホを完全に禁止するなら、代わりに道案内窓口を各駅に作った上で歩き地図は可としてもらえないとたまらない。

 最近は座って本を読んでいる二宮金次郎の銅像があるそうだが、それってただ仕事をさぼっているだけじゃないかとか、そのうち電子書籍をタブレットで読みながら歩く二宮金次郎も出るんじゃないかとかつらつら考えつつ、右に曲がって下さい直進して下さいというスマホの指示を全面信頼して歩いていった。

 それにしても暑い。またペットボトルの水を飲む。もはや水というよりぬるま湯に近づいている。途中で電気屋にでも寄ってエアコンの風に当たってこようか。

 考えているうちに会場に到着した。この暑さの中でも浴衣を着ている女子が多いのは、お洒落に対する意地なのか、それとも単に都民はこの暑さに耐えられるだけの話なのか。俺も浴衣は好きだが、到底この暑さで浴衣は着る気にはなれない。むしろふんどし一丁はどうですかとか誘われたらふらふらとやってしまうかもしれない。

 出店は定番のお好み焼き、焼きそばにラムネやかき氷を売っていた。最近始まったのか、それとも新大久保の韓国焼肉辺りの店が来ているのか分からないが、チーズタッカルビ風菓子など韓国式の店も何軒か出ている。

 そんな中、目を引いたのは鮎の塩焼きを売っている店だ。何度かこの手のお祭りやイベントには来ているが、必ず一軒は鮎の塩焼きを売っている店がある。北海道だとまず見かけなかったので、これも地域性だろう。

 俺は鮎の塩焼きと抹茶味のかき氷を買うと、まずかき氷を頬張った。暑すぎるので持っているだけでも氷がどんどん溶けていってしまうので急いでかきこむ。でも頭も暑くならずそのまま氷は喉を流れていく。

 次いで鮎の塩焼き。骨もあるので用心しながら身にかぶりつく。強い塩分が舌に心地良い。ほろほろと落ちる身が旨い。鮎は香りが大事だというが、俺の鼻が鈍感なせいか香りはよく分からない。

 また汗が流れてくる。他の店も眺めつつ、さすがに金魚すくいなどはやる気にならんし。

 くだらないことを考えていた矢先、急に腹痛に襲われた。慌てて周囲を見回す。トイレはどこだ。コンビニはない。衣料品中心のビルはどこにトイレがあるか見当もつかない。電気屋の看板は見えるが結構な距離がある。

 焦りながら視線を巡らせると、真向かいに何か店の看板が出ている雑居ビルが目に入った。セキュリティが軽そうだから、案外とトイレは簡単に見つかりそうだ。

 俺は急いでビルに駆け込む。何が展示してあるかにも目もくれず、目に入った店員さんにトイレはどこか尋ねた。指差す方法によちよち歩きの小走りという矛盾した姿で男女のトイレマークを睨んで駆け込んだ。

 早く済ましたいのに汗がべたついてパンツが張り付いてくるのがもどかしい。この酷い暑さの中、さらに腹を下すとなると冗談を抜きに生命の危険すら感じる。痛みと暑さの相乗作用なのか、額を伝ってシャツにしみていた汗が、今度は額から直接床に雫の形で落ちていく。

 くらりとしそうな痛みと、足に力が入らないというのに腹にだけは強制的に力が入る。中年太りの腹がぎゅっと内側から背骨に向かって引き絞られていく。

 ようやく腹の中が軽くなって、助かった、と声に出して安堵する。そういえば塩分不足のまま水だけ摂取すると、肉体は水が過剰だと勘違いして腹を下しやすくするとネットニュースで読んだことがある。思い返すと鞄にねじ込んだのはミネラルウォーターで塩分なんて全く入っているはずもない。あれとかき氷が原因か。

 本当か嘘かわからないけれど何となく本当らしい理由が頭で整理でき、お腹も軽くなったおかげで気分がぐっと元どおり安定してきた。ただ、トイレの中は全く冷房が効いていないのか、再び汗がだらだらと床に零れ落ちていく。とはいえトイレ内で水を飲む気にはなれない。

 急いでトイレを出ると手を洗う。冷水のおかげで手が気持ち良いけれど、さすがにいつまでもトイレで手を洗い続けるほどばかげた話はない。

 ようやく暑苦しいトイレを出てゆったりした気持ちで見回すと、どさんこプラザという北海道産品のアンテナショップが目に入った。

 ぶらぶら入ると懐かしいものが目に入る。人工着色料のオレンジ色が鮮やかなリボンナポリン、牛乳由来らしい謎の発酵飲料カツゲンといった、北海道限定の謎な飲料が並んでいて、他にも地ビール冷えてますなどと棚が俺に手招きしている。買って飲んでしまおうかと思いかけ、向こうの行列に疑問を感じた。

 物産展で並ぶといえばレジだろうと思い込んでいのだが、やたらと動きが早い。ただのレジの列ではない。子供も並んでいる。

 ソフトクリームだ。

 何でこのビルに来たのかも忘れたことにして、俺は列の最後尾に並ぶ。食券方式でどれにするか選ぶが、さすがに少しが脳内ブレーキがかかって夕張メロン入りは避けて定番のバニラ味にしておく。

 店員さんがかなり手慣れているのか、一人しかいないのに次々と列が進んでいく。列から離れた人はみんなソフトクリームを手にしてにやにやしながら店外に出ていく。何というか、にこにこじゃなくにやにや。

 俺も冷房で少し汗が冷めたとはいえ、まだ体内に変な熱が篭ったままだ。ついに俺の番がくる。俺もにやにやしながらアイスを受け取り、そのまま店外へと出た。

 店外の廊下ではみんな思い思いにソフトクリームを舐めていた。俺も口に頬張る。思ったより甘みが薄く、逆にしゃきんと冷たさが伝わってくる。ぼんやりと俺のいた列を見ていると、廊下を通る人が俺たちを見て歩みを緩めてはふらふらと列の後ろにつながっていく。

 だらだらとソフトクリームを舐めつつ体を休ませ、片手でスマホを何となくいじった。道内の友人のSNSを確認すると「二十八度もある。暑くて倒れそう」だと、何かぬるいことを書いている。

 やはりヒグマは毛皮を脱げなくて東京は厳しいよと思いつつ、また街中をぶらついて地下鉄モグラに戻るのかと嘆きながら、もう少しアンテナショップで故郷のものを探そうと微笑んだ。

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