文芸船

ヒトカラ

 残業が積み重なっていた末の休みでゆっくり寝ようと思ったけど気がついたらもう真夏の真っ盛りで、道東でエアコンなんて家につけているはずもなくトランクスの中まで全身汗まみれで目が覚めた。布団をぱすぱすとめくり上げて煽いでも冷たい空気なんてなくて余計に汗まみれになっちゃってぐわーっと起きてしまった。

 もう寝てられない。早起きは三文の得でも疲労にはリゲイン一本の損みたいな。せっかくの休みなのに。ぼんやりと部屋を見回してとりあえずコンポのスイッチを入れる。あーCDが入ってないや。ごそもそとケーブルにiPodをつないで適当にシャッフルで音楽をかける。掛け布団の上でごろごろ転がりながら携帯を手にとって適当にサイトをチェックする。頭の上からメロディックゴシックメタルのハイトーンボイスを浴びながら2ちゃんねるのニュースとかの掲示板をだらだら眺める。ふとそのうち毒男こと独身男の掲示板も見たりして今の俺って変身のグレゴール・ザムザだぜとか思いながら今度はネタで放り込んだオタクのカリスマアイドルのきんついた声がスピーカーから耳に刺さってくる。

 ようやく頭が回転し始めた気がする。時計はもうとっくに十時を指している。夜寝るまであと十四時間。どうしよ。とは言ってもこのままだらだらしているのも馬鹿くさいし体臭いし意味ないし。掲示板に「生きてて意味あるんですか」とか書いてる馬鹿いるし。あ、最後関係ないかっていうか俺馬鹿だ。

 パソコンを起動しようかと思ったけど、ますますこのまま布団の脇でザムザごっこを継続しそうな気がしたから手を引っ込めてまた携帯に戻る。つか起動すら面倒なんだけどね俺。スイッチ押して黒い画面が出てジャーンと起動音が鳴るのをぼーっと待ってるのがだるいの。

 携帯で検索。ガソリン高いから近場で安いとこで独りでオッケーでストレス解消になりそうな何か。でも近場にはお祭りイベントがちょうど穴になっているみたいで何もひっかからない。しょうがないからまた掲示板をぐだぐだ検索してみたら、偶然にも「一人行動上級者」なるものを見つけた。内容は一人で行きにくいこんな場所に行ったぞという自慢大会で、焼肉屋やファミレスや遊園地やらがずらずらと並んでいる。それらを流し読みしているうちにふと、一つが目に止まった。

 カラオケ。

 何でも、ヒトカラとか言って店も少し対応する気配になっているらしい。そう言えば以前、バイオリンの練習場代わりに一人でカラオケ使っている友達がいたなと思い出したりする。

 カラオケか。安いし近いし。そういやしばらく歌ってないなとか。そんなに職場で歌いにいく感じじゃないしいちいち仕事関係でつながってられるかだし昔の仲間はだいたい三百キロメートルぐらい遠く離れてるし一人で行くしかないわけだし。というか何でかいつの間にかもうカラオケ行く気になってるし。まあ良いや。やっと俺はパジャマから外出着に着替えると、財布と携帯を持ってiPodのイヤホンを耳にはめ、ザムザの巣からごそもぞと抜け出すことにした。

 スポーツサンダルを履いて玄関口に立つ。太陽は遠慮のかけらもなく明るく輝いてすぐに俺の顔は汗まみれになる。早くカラオケボックスに逃げ込んでエアコンを思い切り浴びてやろうと早足になる。耳のイヤホンをあらためてねじ込み直して雑音を下げてやる。空は青いし空気は暑いけど音楽が耳元で鳴っている分、俺の周りが元の部屋の空気みたいに感じてくる。iPodの魔法で起こした薄い保護被膜に包まれて歩いているような、住んでいる部屋を被って移動しているような微妙な安心感。外を歩いていても、俺はまだザムザのような虫なのかもしれない。それとも動く蛹なのだろうか。


「いらっしゃいませー」

 機械的な挨拶とともに店員の子が出てくる。視線がふと俺の背中より後ろに走る。だから後続の人はいないってば。僕今日一人カラオケデビューです初心者優しくしてねこれ大事。

「お客様何名ですかー」

「ひ、一人」

「一名様ですねー。コースはお昼ランチセットとソフトドリンク飲み放題セットと三十分パックと一時間パックと二時間以上とありますがどういたしますか延長は三十分五十円です機種はどれがお好みでしょうかお煙草はお吸いになられますか」

 だから一人なんだからそう焦って喋ってくれるなバイトっ娘。つかじっと見つめるな気恥しいなもう巣に帰ってまた虫に化けちゃうぞ俺ザムザ。

 頭の中で余計なことを呟きつつ、同時に最も安上がりなコースを考えてランチセットを選択する。彼女は入ったときと全く変わらない表情でぴぴぴとレジに何やら打ち込んでマイクその他の入ったバスケットを手にした。なぜか一人なのにマイク二本も入ってるし。よーし一人でデュエットしちゃえみたいなことか違うなあははは。

 彼女はご案内しまーすとさくさくと店の奥に歩き始めた。とりあえず余計なことを口走らないようになるべく差し障りのない定番の話題を口にしながらついていく。

「今日は暑いですね」

「外はもう結構暑いんですか? 私、店の中にいるからわからないんですけど」

 いきなりその答えかよ愛想でいいから合わせろよとか思っていると彼女は部屋に案内しながらエアコンエアコン、とスイッチを入れる。あー風が来る。俺がエアコンに向かって涼んでいるうちに、彼女はぱたぱたとその他電源類を入れて部屋を出ていった。

 リモコンを手にして曲を探す。何を歌おうか。せっかくだから周りに仲間がいると歌いにくいような変な曲にでもするか。と、画面上に履歴ボタンを発見した。押してみると、俺の前にこの部屋の人が歌った曲がずらずらと並んでいる。百曲ほど遡られるようだ。

 だいたい売れ線の曲が並んでいる。どうもこの前に入ったのは女性客が多いのか、女性ボーカルばかりだ。まさか中年親父の集団がアイドルだのダンス系だのを入れてはいないだろう。

 入れていないだろう? 俺は気づいた。今は俺一人。好きなようにできる。怪しげなことし放題。これは。

「失礼しまーす。キムチチャーハンと烏龍茶お持ちしました追加注文はございませんかー」

 さっきとは別のバイトっ娘がさっきの子と同じ調子で入ってくる。俺は今考えていた曲をまだ入れてなかったことに安堵しながら追加なし、と答えた。

「ではごゆっくりお楽しみ下さい追加注文はそちらのインターホンからよろしくお待ちしておりまーす」

 一人でそんなに注文するかよと思いつつマニュアルなんだろうなとも納得する。そうだあれはアンドロイドなんだろうだから一人とか認識しないで同じように言うんだ。それにしてもずいぶんと性能の低いアンドロイドもあったもんだ。

 無茶な妄想で落ち着きを取り戻すと、俺はあらためて曲を検索し始めた。


 iPodで最近聴いていた曲を探し、それをカラオケのリモコンで検索する。今まで歌ったことのない洋楽や声が高すぎる気のする曲を主に歌ってみる。失敗したら自分の気分だけで好き勝手に中断できるので気楽で案外楽しい。そのうち悪ふざけでアニメも歌ってみる。うーん、ダメ。ネタ、笑い物を独りで歌うと何だかやたらと空しい気分になる。仕方ないから忘年会とかの仕込み用とでも納得してとりあえず歌いとおしてみる。

 そんなことをしていてふと時計を見ると既に一時間が経過していた。いったんマイクとリモコンを置いて室内を見回した。淡いパステルカラーの青と明るいベージュを基調とした部屋だ。俺が座ったり寝そべったりしているソファーは硬めで歌うにはちょうど良い感じだ。ふと俺はこの部屋にパソコンと自分の部屋のオーディオを頭の中で配置してみる。なんだそんなに悪くないじゃないか。今の俺の殺風景な部屋と比べたら、蒲団が置いていないことさえ除けば居心地の良い人間味のある部屋じゃないか。

 あらためて自分の部屋を思い返してみる。独身男のわりには整理整頓している方だという自信はある。あるんだけれど。何だろうあの殺風景さは。

 美術館とかは好きな方だけど、なぜか自分の部屋を飾るのは嫌いだ。とくに集合写真とか記憶を固着して振り返るような何か。生きてきた証がどこかに残っていることが気持ち悪い。このカラオケ店に俺がいたという入出店データが店に残ることすら、何か余計な痕跡が残るようで気分が良くないのだ。飛ぶ鳥跡を濁さずとはずいぶん違うのだけれど。

 テーブルのマイクを見つめる。使われたマイクと、消毒済と書かれた袋に入れられたままのマイク。一人で来る限り、いらないはずの補欠マイク。

 だるだるとまた曲を検索する。そうだ少し明るい曲にしようダウナーには明るい曲明るい曲。またいつも歌わない曲でメジャーな曲で何がいいかな何がいいかな。

 結局「未来予想図Ⅱ」を見つける。俺の年代にはかなり流行った曲で売れていたのに、なぜか俺が今まで歌わなかった曲だ。歌いあげる様式の曲だから俺には合うはずなのに、なぜか今まで無意識に避けていた曲。

 前奏が始まる。最初は少し外したが、すぐに音程を把握して普通に歌えるようになる。モニタ画面では背後で砂浜を歩くカップルの映像が流れている。

 と、歌っているうちに何かぼんやりとした違和感を感じてきた。上手に歌えないとか嫌いな曲調だとかそんなことではなく。歌詞だって嫌いな歌詞ではないはずなのに。それでも押し通すように歌う。サビを超して歌いあげていく。声を上げるために立ち上がる。

 室内が高い視線で目に入った途端、唐突に違和感の全てが理解できた。この曲の語る未来予想図は。

 俺にはあまりに妄想なのだ。幸せすぎて。歌詞で歌の中にいる人々の間に愛情がありすぎて。それはあまりにきつい妄想なのだ。恋人がいるかどうか以前に、深い愛情を注ぐ対象があるという妄想。

 部屋を見回す。独りで歌っている俺。誰かのために生きるとか誰かを愛するとか歌っている俺は、愛される以前に俺に愛情を向けられることを受け入れてくれる人なんて身近にいないのに。俺はただ独り、この小さな閉鎖された部屋の中で歌いあげているだけだ。それは昔の孤島の霧笛のようなもので。

 ああ何で俺は生きてるんだろう働いてるんだろうとか思うほどもう子供じゃないけれど。でもそう真正面から問われたら敢えて俺は答えるしかないんだ。この社会には歯車が必要だろうって。人間を歯車のように扱う非人間的な社会とか言うけれど、歯車のように必要とされる場所がなかったら本当に俺は不良在庫品じゃないか。

 この歌は、実は俺にはあまりにも酷な歌だったのだ。だから。だから俺は無意識に避けていたのだ。

 俺はマイクを置いて曲を中断する。時計を見ると残りわずかだ。テーブルの上には食べかけて半分だけ残したキムチチャーハンが冷めて残っている。俺は急いでレトルトっぽさのある残りのキムチチャーハンを平らげるとマイクを元のバスケットに放り込んでドアを開けた。

 振り向くと、ザムザにしか気づかないほどかすかに、俺の巣の匂いが漂っている気がした。

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