文芸船

ヒロインの影法師

 俺は電話を切ると盛大に溜息をついた。この半年で相手のとんでもなさは身にしみているつもりだったが、まだ俺も甘いようだ。単なる取引先だったら売上への影響も含めて考えた上で切ってしまうことも検討できるのだが、残念ながら相手も一緒の企業グループだ。先方の製造した商品をうちが仕入れて販売するという流れは親会社と上の人たちが決めた話だから俺がどうにかできる話ではない。別会社と言ってはいるが実態としては俺の会社が営業部、向こうは製造部、親会社が企画部とか営業戦略部みたいなものだ。

 で。向こうの製造担当者の山花係長が何とも変な人物なのだ。言う言葉は売上第一なのだが実は長期戦略も何もない無計画な人で、突然思いつきの新製品を押し付けてきたり仕入れ過ぎた原料在庫を捌くために無茶な量を製造しておいて、何とか営業力でよろしくなどと一方的に告げて電話を切るとかいったことが何度もある。お前が一番の不良在庫だと叫んでやろうかと何度も思ったほどだ。

 で。今日も奴が動き始めた。今回は更にひどい話で、工場見学に来た会社と勝手に商談を進めたらしい。若くて元気の良い人だったから思わず勢いで商談を進めてあげたと軽く調子で笑っていた。それもうちの利益をろくに考えずに、だ。どうせその来た会社の社員の中にかわいい女子社員でもいたのだろう。

 マグロキムチ八丁味噌ジャーキー。怪しげな商品を無理矢理売り切るのはいい加減慣れたが、今回は何でも勝手に一ケース全部サンプルにと渡したらしい。嫌な予感がして一袋サンプルに貰ったところ、韓国伝統料理なんぞと書いてある。マグロを韓国で食べるのか自体知らないが、八丁味噌だのジャーキーだの見るからに多国籍なものを突っ込んで韓国伝統だなどと謳って販売したら今流行りの表示偽装で酷い目に遭う可能性すらある。国際的な営業ならおっかなびっくりやってみたい気持ちもあるが、国際的なクレーム処理なんて冗談じゃない。

 俺は廊下に設置された自販機の前に立った。百円玉を入れて迷わずブラックの缶を押す。落ちてきた缶のリングプルを開け、一息に半分ほどを飲み干した。もう一度溜息をついて自分の席へ戻ると、缶を机の脇に置いた。その前には今日の午後に飲み干した缶が三缶並んでいる。俺はいつも、苛立つたびにブラックのコーヒーを一気に飲む癖がある。そのせいで、並べた缶を数えれば自分の調子もわかってしまうのだ。

 俺は事務室に掛かった時計を見上げた。既にを回っている。他の社員は帰ってしまい、残っているのは俺だけだ。打ちかけた提案書を読み直すと文章の内容が重複していた。これではかなり効率が落ちている。俺はこれ以上の仕事を諦めてパソコンの電源を落とした。社外に出ると潮風の香りがふんわり俺の鼻をくすぐった。初秋だとはいえ、海からの風は既に冷たい。俺の会社は港の目の前なので、社外はいつも潮風が吹いている。おかげで夏も海水浴に行く気もしなくなった。

 海水浴か。海に行かなくなってもう何年経つだろう。輸入魚の荷揚げで岸壁にいることはよくあるが、遊びで海に行ったのはかなり前のことだ。もう五年以上経つだろうか。最後に行ったのは加奈とドライブしたときだと思う。でも加奈は彼女ではない。何と言えば良いのだろう、加奈は俺に恋するような子ではないし、俺も加奈を恋愛対象として見ていたのか、今でも自分ではよくわからない。ずっと連絡がないのだから、もう携帯のアドレス帳から削除しようかと何度も思っている。だが、携帯を二回も機種交換しているのに結局はまだ削除せずに保存したままだ。

 あまりにも突飛な性だった加奈は、未だ俺の中では何かヒロインのようで、このアドレスは彼女の残した影のようなものなのだ。


「ここに行こうよ」

 加奈はショートパンツ姿で胡坐をかいたまま、一枚のパンフレットを俺の前に放り出した。俺は呆れつつも、いつもの加奈のことなので諦めてパンフを開く。加奈はペットボトルのお茶を勢い良く飲んで旨い旨い、と笑いながら俺と向かい合わせでパンフを覗き込んだ。近くにある漁師町の名産品を紹介した内容で、砂浜の海岸線を背景にしてアワビ料理やウニ料理が幾つも載っている。加奈は魅力的でしょ、と言って二つの店を指差した。

 俺たちは当時、国内SNSでは代表的だったmixi内にあるグルメコミュニティで意気投合したのだが、実は近所に住んでいることがわかり、それ以来お目当ての店に一緒に行くようになったのだ。ラーメン屋なら気軽に行けるが、焼肉などに独りで行くのは何とも気恥しい。そんなときに重宝する相手という感じだ。

「さて、どっちの店が美味しいかな」

 加奈は飲み干して空になったペットボトルをゴミ箱に放って投げ込むと、ナイスショット、と言って胡坐の膝を叩いた。この何とも小学生の男子のような粗雑さ。加奈は気の良い子なのだけれど、これで俺と同い年で大学院の二年生なのだから呆れたものだ。まあ、文系の俺と違って加奈は理系のフィールドワーク中心で高山植物の生態を調べているそうなので、このぐらい元気さがないと到底やっていけないのかもしれない。

 俺はあらためてパンフを覗き込んだ。一店舗はウニ尽くしでバフンウニとキタムラサキウニの味が食べ比べられるというセット。もう一つはアワビ尽くし。どちらにしてもバイト代を頭に置くとずいぶんと贅沢な内容だ。

 ただ、写真を見比べるとウニの方が料理の幅も広いようで、ウニ尽くしの潮汁にはウニの他にアワビも入っているらしい。加奈もやはり同じことに気付いたようで、黙ってうなずくと一緒にウニ尽くしの写真を指差す。

「今週さ、車は私出すから」

 言って加奈は車のキーを振って見せる。俺はぐえっ、と小さい悲鳴を上げた。加奈はへらへら笑って、だって今は取締月間じゃないからさ、と更に不安にさせることを言う。

「三十キロオーバーは禁止な」

「また学級委員長さんみたいなことを言うのね。大丈夫、取締レーダーも積んだし」

「スピード狂」

「安全オタク」

 うー、と俺たちは睨みあう。言うなれば石橋を叩いてX線撮影した上で渡らない俺と、吊り橋の切れそうな綱を刃物で叩いてから渡る加奈。お互いこの点は反りが合わない。

「君はもっと冒険した方が良いよ。この間だって青森で食べたホタテ入りソフトクリーム、結局当たりだったじゃん」

「お前が買ってきたイチゴパフェパスタは最悪に不味くて、お互い全部捨てたけどな」

 加奈はまたむー、と唸って床を掌で叩く。俺はちょっと溜息をついて言った。

「そろそろ就職の内定とかさ。そういうのも考えないとまずいだろ」

 加奈はまあね、とつまらなそうに言う。これまでもお互い何となく就職活動についてはあまり語ることはなかった。将来の見通しとか内定件数とか、そういう生々しい現実の話をしたくないという空気があった。今はこんな遊ぶ話をしていても、俺たちは就職がじゃぶじゃぶのバブル世代とは違う。俺は何とか内定を一つ貰っているけれど、本当にこの会社に決めて良いか迷いが残っているし、加奈については就職活動をしているかさえ全くの謎なのだ。まあ、それ以前に加奈が生真面目にタイトスカートとブラウスを着て面接を受けている姿は想像できないが。

 再び加奈はそうだね、と呟いて床に背中から倒れるように寝転んだ。そして再びゆっくりと起き上がると、俺を真正面から見つめて真面目な声で問いかけた。

「二十四歳。三年足して二十七歳。その頃、この国ってどんな国になっているんだろ」

 どんな国。いきなり大きい話題になって俺は面食らう。加奈は俺に指を突きつけた。

「こら、文系の経営学専攻。生態学の私なんかよりもずっと専門でしょ、そっちが」

 俺は黙り込む。だが加奈は初めから俺の答えを期待していたわけではないようだ。

「もし、これから海外に行って帰ってくるとか。そんなときにどうなるだろうとかさ」

「留学か。語学ってタイプじゃないよな」

 加奈は途端に口が重くなった。何でも話しているようで、これがたぶん、俺と加奈の間にある意外な距離の広さだ。加奈はあは、と力の抜けた笑い声を上げて立ち上がった。

「とにかく来週の日曜日はウニ尽くしで」

 そそくさと出ていく加奈を見送りながら、俺は妙な胸騒ぎを感じた。


 ウニ、ウニ、ウニ。ウニ丼にウニ鍋にウニ焼きにウニパスタ。潮汁はウニとアワビに白菜を塩と出汁で仕立てた汁物で、あっさりしていながらもウニの香りが立った面白い汁物だ。そして最後に出てきたデザートは。

「俺パスしようかな」

「いーや、これは食べるべき」

 ウニアイス。涼やかなガラスの器にかわいく半球形の白いアイスが載っている。一見普通のアイスに見えて、油断ならないことに怪しげな黄色い粒々が見える。加奈も黄色い粒々をスプーンでつつきながら躊躇して、それでも俺の方をきっと見てから一匙口にした。俺は加奈の反応をじっと待つ。加奈が慎重に舌の上で転がしているのがわかる。次いで何だか妙に気の抜けた顔になった。

「なんつか、まあ食べてみりゃわかるわ」

 言って今度は普段の速さで面白くなさそうに食べ始める。俺も加奈の後に続いて食べてみると、かすかにウニの香りがするのと塩味が効いている程度でそれほど旨くも不味くもなく、おかげで残念なことに話の種にもならない。素材は随分と冒険しているくせに、妙に小さい枠に落ち着いてしまった印象だ。

「遠回り一周して平凡にご到着」

 馬鹿にしたような、でも的確な加奈の感想に俺は吹き出した。ウニをアイスに合わせるなんてかなり苦労をしているのだろう。でもその結果が俺たち学生風情に平凡と言われるというのも何だか悲しいような気がする。俺たちはウニアイスを平らげると支払いを済まして駐車場に出た。

「当分は倹約だね。セール品様ありがとうって感じの生活だわ」

 加奈はレシートと財布の中身を見比べて溜息をつく。初めからわかっていることだが、代金を払った後は後の生活を思ってしまう。だが加奈は続いて思わぬことを口にした。

「就職後は食べに行ける場所じゃないし」

 俺は加奈の顔を見返す。加奈は車のドアを開けると俺に早く乗るよう促し、自身は運転席に着いて席からぼんやりと外を眺めた。

「せっかくだからさ、海岸に行こうよ」

 俺に疑問を挟ませず一方的に言って、加奈は車を走らせ始めた。


 海水浴の季節が終わったばかりのせいか、砂浜は海水浴客の散らかしたごみが随分と目立つわりに全く人影はなかった。俺たちは砂浜に立つとぼんやりと海を眺めた。海は遠くまで青く、潮目から向こうの藍色は日本海の深さを思い知らされる。漁港の消波堤に砕ける波頭の純白さは沖合の藍色をより際立たせ、これほど身近な海が未知の世界を抱えていることを納得させてくれる。

 俺がこんな風に海を見られるようになったのは加奈の影響が大きい。加奈はアウトドアの中でも野山よりは海派で、加奈と歩いたり加奈が薦める店に行ったりしているうちに、加奈の海の見方が移ってしまったのだ。

 加奈は砂浜に腰を下ろすと、俺を見上げて海を指差しながら言った。

「卒業したらさ、向こうに行きたいんだ」

 向こう。俺は目を細めて海を見つめる。加奈はわざとらしく笑って続ける。

「見えないよ、ここからは。海の向こう。海外。ずっと遠くの発展途上国」

 俺は意味がわからず加奈の顔を見返す。加奈は少し恥ずかしそうに言った。

「海外の生物に興味があるの。あと、何て言うか、もっと冒険したいわけ。だからさ」

 加奈はポケットから皺だらけになったWebサイトの印刷物を取り出した。それは青年海外協力隊の募集要項だった。

「期間は二年間。帰国後の就職は斡旋してくれるって。どんな仕事かわからないけど」

 俺が訊きそうなことを加奈は先回りして言う。この辺り、やはり加奈は頭の良い子だと思う。そして同時に、俺の目からは呆れるほど危機意識が感じられない。だが、再び見上げた加奈の視線からは考えた末の決断であることが読み取れた。今更になって俺が何か反論する隙はなかった。加奈は携帯電話を取り出して弄りながら、気後れした口調で問いかける。

「でね。私、海外に行ったら当分、君とは連絡、取らないようにしようと思うの」

 加奈は少し躊躇してから立ち上がり、俺と向かい合わせに立って少し距離を開けた。

「二年間って長いと思うんだ。余計な里心をつけたくないんだ。それに君には」

 言葉を切って視線を外すと、海に向かって呟くように続ける。

「君に弱みは見せたくないんだ。私たちってさ、彼氏彼女とかじゃないし。別に誰か他にいるわけじゃないけど」

 加奈はそのまま海を黙って眺める。俺は何とか無理に言葉を探した。

「じゃ、携帯のアドレスは残しておこうか」

 加奈は黙ってうなずくと、俺の肩を優しく叩いた。


 俺は出社すると、早速マグロキムチ八丁味噌ジャーキーについての打ち合わせのため山花係長に電話した。すると、この怪しげな商品に食いついた先方の商品企画担当が既にこちらに向かっているという。海外帰りで技術屋系出身だという話だから、利益率や接待で話を上手く進められる相手ではないようだ。勝手に話を進めておいて、さらに無断で客を送り込むとはよく今まで会社勤めを続けられたものだと呆れつつ、俺は電話を切った。

 先方の到着時間がわからず、とは言うものの山花係長だと、アポとっておきますなどと無断で先方に告げている危険もあるから出かけてしまうわけにもいかない。苛々していると携帯に私用メールが入った。隣の先輩が俺の方をちらりと視線を向ける。俺は何だか気まずくて、携帯を確認せずにパソコンで提案書の作業を続けた。

 十五分ほど経って、受付からお客が到着したとの連絡が入った。俺は山花係長がメールで送りつけてきた製造関係の資料を携えると迎えに走った。玄関に近寄ると受付が俺を手招きする。目を向けると、待合席の傍に見慣れない女性が堂々とした態度で立っていた。この人が俺の客なのか。俺はゆっくりと近づく。いや、その人は見慣れないどころか。

 セミロングの髪をまとめ、タイトスカートを履いて薄く口紅を引いていて。少し太っただろうか。俺は慌てて携帯を手にする。着信メールには短いメッセージがあった。

『ただいま』

 俺はもう一度、目の前の加奈を見つめる。加奈。加奈ならこんな無茶な名前の商品で冒険的な商売をしようとしても納得がいく。

「遠回り一周して平凡にご到着」

 いつか聞いた台詞を口にして、加奈は懐かしい悪戯っぽい視線で俺をじっと見つめる。俺はゆっくりと短く答えた。

「おかえり、加奈」

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