"Hello World"
画面に浮かんだ文字に僕は小さく歓声を上げた。昨日から取り掛かっていたパソコンの設定がやっとうまくいったみたいだ。その辺で売っているアプリケーションのインストールなら全く苦にしないのだけれど、これは無料の上にプログラム開発用のぶん、全く不親切な設定なのでずいぶんと苦労してしまった。だが、やっと動いたとはいえプログラムの書き方はまだよくわからない。僕はテスト用のファイルを開けると、また少し書き足して動かしてみた。
"Hello world! Name?"
予定通りのメッセージが浮かぶ。僕は独りうなずいて自分の名前を書き込む。
"Warning!"
いきなりエラーメッセージが出て勝手に終了してしまった。どこか書き間違ったらしい。僕はもう一度ファイルを開いて参考書を片手に見直しを始めようとした。だが、参考書の目次を見ているうちに携帯が鳴った。見ると大学で同じサークルにいた由紀先輩だ。
「生きてる?」
受けていきなり発された言葉がこれだ。何とも酷い言い草だが、由紀先輩ならいつものことなので怒る気すら失せてしまう。先輩は向こうで独り、ふふふ、と笑う。僕はとりあえず、何ですか、と問いかけた。すると先輩は、いやとくに用というほどでも、と言って言葉を濁す。
少しの間、電話を挟んだ沈黙が流れた。パソコンの画面上にはまだ"Warning"の文字が浮かんだままだ。僕はふと、先輩もこのプログラムを使えると話していたことを思い出した。僕は今出ているエラーについて話す。すると先輩は小さく鼻で笑い、そのぐらいは勉強しろや、といつもより少し空回りの声で言った。
再びの沈黙の中、なぜか先輩の心音が聞こえたような気がした。もう一度話題を探そうとすると、先輩はぽつりと呟いた。
「ハロー、ワールド」
え、と僕は聞き返す。先輩はううん、とか弱い声で答えると再び沈黙する。僕はなるべく静かな声で話を促しながら、手元のペットボトル入りの緑茶を急いで喉に流し込んだ。
「ちょっと逃げたい。仕事とか色々、逃げたい」
僕は戸惑う。今まで愚痴るのは僕の方で、こっちが相談に乗るなんて全くの想定外だ。だが先輩はそんな僕の戸惑いに気づいたのか、少しいつもの悪戯な声に戻って言った。
「あんた、腕枕下手でしょ」
いきなり何を、と言い返すと先輩は続けて言った。
「女の子がもたれたらもぞもぞ落ち着かなく動いてる、そんな気がする」
やはり先輩には勝てないと思う。たぶん、僕はそういう人間だろう。とくに腕枕してきたのが由紀先輩ならなおさらだ。年上のくせにむしろかわいらしい容貌をした先輩を思い出し、僕は今が電話で助かったと思う。
先輩は再び溜息をついて言った。
「会社ね、辞めよっかな、ってさ。で、転職したあんたなら何て言うかな、とか」
電話の向こうで喉の鳴るのが聞こえた。向こうもお茶でも飲んでいるのだろう。僕は少し考え、月並みなアドバイスや失業保険の話をする。先輩は珍しく神妙な声で僕の話に耳を傾けた。
とりあえず即席職業安定所のような話を終えると、先輩はふふ、と再び笑った。
「吉田さあ、結構大人んなったね。吉田くん、って呼んでも良さそうだね」
僕はそんなの気味悪いっすよ、と返す。本当はそれよりも、軽く呼び捨てにしてくれる由紀先輩がいなくなるのが寂しかっただけなのだけれど。
先輩は猫の唸り声のような声を出して、そして言った。
「私も『Hello World』からやるかな」
プログラム、と聞き返しかけ、慌てて言葉を飲み込む。Hello Worldは有名な初歩のプログラミング例だ。だから、先輩の言いたいのは。
「仕事も全部、最初っからやり直し」
すっきりした声で先輩は言う。少し、いつもの先輩が戻ってきたように思う。それはちょっと淋しいような気もするのだけれど。でも不思議なぐらい、嬉しい気分になる。僕は残ったお茶を一息に飲み干すと、エラーが出たままの画面に目を向けた。画面を閉じ、先輩に言った。
「ハロー、ワールドを、一緒に」
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