文芸船

君のいる場所

「新車なんだし、もう一つ思い切っても良いんじゃない?」

 カーナビを買おうか迷っていると話すと、調子良いが俺の財布には全く無責任な、ある意味いかにも藤川らしい答えが返ってきた。これに加えて、昔ながらの地図を読むのは好きだからカーナビなんて持っていない、とまるで当然のように言い放つのもこいつらしい。

 もちろんそんな女だってことは昔っから知っている話なのだが、それでもこいつに相談したのには理由がある。藤川はアウトドア好きで、その上さっき言った通り地図を異常と言えるほど好きだからだ。学生時代、部屋に遊びに言ったらロードマップ以外にも色々わからない地図があって、卒業単位で航海学が必修だったとはいえ海図までインテリアと称して壁に貼ってあったような奴だ。先日もハンディGPSという単に現在地点の緯度と経度を測定するだけの、普通の人には何に使うのかわからない機械を買ってはしゃいでいた娘なのだ。ある意味、もしかしたらあまりにマニアな人間に相談するのも間違いだったのかもしれない。

 俺の気持ちも無視して、藤川は自慢のGPSを取り出してボタンをカチカチと操作すると俺の目の前に突き出す。そこには単に「44.025, 144.26」と数字が表示されているだけだった。

「この単純さが良いの、ごてごてしてなくて。これ、ちゃんとメモリしておけて、あとでパソコンに取り込めるし。それに数字があれば地図に落とすことも出来るし。携帯GPSなんて邪道よ邪道」

 大学の実習で、三角定規をずらしてしまって何回もやり直しをしている不器用な俺を尻目に、悠々と課題の海域を見つけてさらに色々勝手にポイントを測ったりしていた藤川のことを思い出して俺は溜息をついた。藤川も同じことを思い出していたようで、苦手だったかー、とまた他人事な口ぶりで言う。わかっているくせに、と言いたいところだがそんなことを言えばますますからかわれるに決まっている。俺はやむなく言葉を飲み込んだ。

 藤川はGPSを手の中で弄びながら少し真面目な声で、でもこれって怖いかもね、と呟く。何で、便利なのに、と訊き返すと、藤川は画面に表示された小数点以下の数字を指差した。

「緯度経度、って言ってもこんな細かい点まで出てくるんだよ。並んだ家を識別できるくらい。今の時代ってほら、物騒じゃない」

「そこまで正確だから道案内に使えるわけだし、小学生に持たせて事件に巻き込まれないように使えるんだろ?」

 俺の返事に藤川は口を尖らせ、少し恨みがましい視線で言った。

「もしさ、私のこのデータが全部ネットで公開されたらどう? どこの誰ともわかんない奴がさ、私の寄った場所、全部知ってたらどう?」

 たしかに気持ち悪い話かもしれない。ただ、藤川の言う「私の」という言葉になぜか俺は妙に引っ掛かった。俺たちは過去も今も通してただの友達なわけで、おまけに男女だからどうして男同士の友情という域には達せない。本当はそれもありだとは思うのだが、相手が女だと思うとどうしても踏み出せない境界があると思う。

 自分に当てはめれば気持ち悪いね、と俺は敢えて変な答えを返した。藤川はまたいつも通り冷淡な口調で、そうでしょ、とだけ答えて元通りGPSをバッグにしまい込んだ。


 悪友の川村が面白いWebサイトの話を持ちかけてきたのは藤川と会った数日後のことだ。音楽や酒の話ではいつも盛り上がるし認めている男なのだが、こと女関係となると手早い奴で合コンやらナンパやらでは勝率が高いらしい。俺は苦手なので川村のその手の話にはいつも乗らないのだが、今回はちょっと違う話だった。なんでも、自作のWebサイトで決まった箇所に緯度と経度を書き込んでやると、自分のサイトが地図上に現れ近所の人がわかるという仕組み。もちろん川村のことだからナンパに使える出会いに使える面白いぞときたわけだが、先日の藤川とのやりとりのせいか、俺はその仕組み自体が面白いと思ったわけだ。

 川村から聞いたサイトにアクセスし、ネットで調べた自分の家の緯度経度からご近所さんを検索してみた。案の定と言うかなんと言うか、どこかの出会い系サイトと日記系サイトの個人紹介ばかりがずらりと並んでいる。これじゃあ出会い系サイトそのものに入るのと変わらないな、と苦笑したが、ふとその中に個人ページらしき「Nagisa Map」というページを見つけた。

 試しにクリックしてみると、それは海の写真を中心に掲載したサイトだった。プロフィールを見てもハンドルネームが「渚」だとしかわからず、性別すら書いていない。ただ、写真サイトとしては凝った造りで、各海岸の写真をクリックするとその写真を撮影した場所の詳細な地図が現われるのだ。中には遊覧船やフェリーから撮った写真もあり、イルカなども映っている。俺はしばらくそれらの写真に見入ってしまった。

 しかしふと、その中の一枚に俺は目を奪われた。濃厚に透き通る群青の日本海。人間を拒絶するような絶壁。地図で確認する必要もない。俺の故郷だ。もう何年、あの日本海を見ていないだろう。それどころか夏でも気温の上がらない道東にやって来て以来、海水浴もしていない。今さらながら俺は海が好きなんだと思い出させられた気がした。

 写真には一言、こんな言葉が添えられていた。「友人と一緒に行った美術館で見た絵の題材を改めて撮ってみました。その友人の故郷でもあります。」

 藤川だ。故郷出身の木田金次郎が好んで描いた海岸。漁師画家の異名を持つ彼の絵に藤川が興味を持ったので、一度だけ一緒に美術館に行ったことがある。藤川が珍しくはしゃいでいたこともはっきりと覚えている。だがふと、あのときの藤川の印象がどうも今と一致しない気がした。若さとかそんなものではない。たしかに髪はショートヘアからセミロングにはなったけれど、それ以上に。

 俺は改めて写真を見返し、そして「渚」という名前で綴られた日記を読んで行った。もちろん、先日のGPSの話もぼかした形で書かれている。するとその中に気になる一節があった。

GPSデータで物理的な場所はわかります。でもそのぶん、自分の気持ちがどこにあるのかわからなくなるときがあります」

 先日の藤川を思い返した。「私の寄った場所、全部知ってたらどう?」この言葉に俺はもっと返す言葉があったような気がする。自分に当てはめれば、なんて言葉に逃げないでもっと別の台詞があったはずだ。

 俺は携帯電話を手にして、藤川の番号を探した。良い飲み屋にでも誘ってやろう。GPSの良い機種を教えてもらおう。そしてGPSでは見えない場所を一緒に探してみよう。

文芸船profile & mail