「あなたは神についてどう思いますか?」
突然、こんなことを言いながら青い目が野田の顔を覗き込んだ。モルモン教の宣教師が自転車で走っている姿は今まで何度も目撃していたが、まさか自分が声を掛けられるとは野田自身、全く思ってもいなかった。彼らはどうやって生活費を稼いでいるのだろう、そんな関係のないことを野田はぼんやりと思う。だが宣教師は紳士的な笑みのまま再び問いを付け加えた。
「私たちの住むこの世界が、どうして生まれたのか、あなたはご存知でしょうか?」
「存知」にやたらと力の籠もった外国人特有の発音のおかげで、やっと野田は正常な判断力を取り戻した。同時に意地悪な発想が頭の中を駆け抜ける。
「この世界、というか宇宙はビッグバンで生まれた、って話ですよ」
野田の言葉に、宣教師はありがちな誤答を受けた教師のような曖昧な笑みを浮かべた。
「大いなるお方の御力を感じませんか? まず無から有が生まれるという点を考えますと」
大いなる、も何もないと思う。こっちは気合の入った無神教だと妙な矜持すら抱いているくらいだ。野田は苦笑にしか見えない愛想笑いを浮かべながら言った。
「無と有の揺らぎから世界が生まれた、なんて話がその辺の科学雑誌にも載ってますよ」
宣教師は眉をひそめる。野田はこれを機会に足の向きを変えて言った。
「とりあえず俺、急ぎますんで」
宣教師はかすかに戸惑った表情を浮かべたあと、いかにも営業向けな笑顔でうなずく。野田は振り返らず、彼らが来そうもない方向に早足で歩く。野田は理解できない不気味な何かから逃げたかったのだ。気がつくと、野田はセブンイレブンの前にいた。ぽつりと立つ街灯しかない街路の中、店から溢れる光はいつもよりもなぜか暖かいように思えた。
店内に足を踏み入れた途端、いらっしゃいませー、というマニュアルの声が聞こえた。店の中を一周したが、並んでいる商品には何一つ新しい発見はない。だが、彼はその何の変哲もない品揃えに安心し、途端に急に空腹を感じた。彼は梅おにぎりとカルボナーラスパゲティを買い、やっといつもの帰路についた。
夜中のカルボナーラスパゲティはあまりにも無茶な選択だったのかもしれない。目が覚めた途端、胸のむかつきが止まないのだ。野田は胃腸薬を飲みながら、これも全てあの宣教師のせいだと思うことにした。妙に宣教師との会話が頭にこびりついているのだ。あまりに無神教な生活をしていたせいか、悪い意味で新鮮な体験になってしまったらしい。野田にとって、そんな自分自身がまた奇妙としか思えない。とは言え、こんな下らない理由で仕事を休めるはずがない。
身支度をやっと整え、最後に髭を剃り忘れていたことに気づく。小さく舌打ちして電気剃刀を手に取る。髭が剃られていく焦れついた雑音を聞きながら、再びあの宣教師の笑顔が目の前にちらついた。
野田は電気剃刀を置くと外に出た。玄関口にある自販機でコカコーラを買う。普段は飲まないのだが、二日酔いの日などはこのきつすぎる刺激が心地よいのだ。はっきりした理由はないのだが、昨日の宣教師の記憶はどこか二日酔いに似ている気がしていたのだ。野田は軽い嘔吐感を無理にコーラで飲み下して出勤した。
その日の仕事はとくに面白みのなく、だが大きな事件もなく平穏に終わった。職場からの帰途、何となく周囲を何度も見回してしまう。またあの宣教師が現れるのではないか、そんな馬鹿げた危惧を抱いていたのだ。出会ったところで何かされるわけでもないのだから平然としていても良さそうなものなのだが、今日の不調を全て宣教師のせいだと決め付けたせいか、なおさら会うことに不安を抱いてしまったのだ。それに今日は折角の金曜日だ。休日の始まりにまで変な目には遭いたくない。
突然、猫の鳴き声が聞こえた。慌てて振り向くと、瘦せこけた灰色の野良猫が野田を見つめている。見つめ返すとまた一声鳴き、野田の足に体を摺り寄せてきた。頭を撫でてやると喉を鳴らす。喉元を撫でてやるとそのまま道路に寝転がった。変な猫だと思ったが面白いので今度は腹をくすぐってやる。猫はますます全身を伸ばして甘えた鳴き声をあげた。
だが暫くすると、急にこの猫が煩わしく感じ始めた。実際付いてこられたら困ってしまう。社宅で猫を飼えるわけがない。野田は立ち上がると、なるべく後ろを振り向かないように歩き始めた。背中に鳴き声が聞こえる。小さな猫の気配が背中に近寄ってくる。だがそれでも頑なに振り向かないようにした。
そのうち猫の声は止まり、気配も遠ざかっていった。野田はなぜか物悲しい気分で自宅の玄関をくぐった。
部屋に着いてパソコンの電源を入れると、メール巡回ソフトがメールの到達を電子音で知らせてきた。メールを開くと、友人の水木からのメールだ。野田にとって親友と呼ぶよりは悪友と言った方が感覚は近いだろうか。頭の回転は恐ろしく良いのだが、非常識と言うか非倫理的な男で、今もフリーターと称してはいるが、単なるバイト人生や就職あぶれ組とは思えない、どこか胡散臭さのある奴だ。
メールには何かファイルが添付してあるようだ。メールの題名は「ソフトウエア進呈」と書かれている。水木のことだから敢えてウイルスを送ってきた可能性もある。野田は注意深く本文を読むことにした。
親愛なる野田君よ。俺が新しく開発したソフトウエアを君に贈る。ウイルスだの下等なスクリプトなんて類ではないよ、念のため。
ソフト名は「交霊装置」だ。友人が作った霊気受信機は宅急便で明日届くように手配済みだ。なお、俺の組んだプログラムは受信機で受信した多次元構造の霊気を線形化した上で、自然言語に変換するアルゴリズムだ。
ここまで書いて気づいたが、君は霊気学を知らないだろうな。今の話を君にもわかるように言えば、霊魂と交信や対話をできるソフトを作った、とでも思ってくれたまえ。
インストール方法と操作はソフトウエア同梱のマニュアルを読んでくれ。まだベータ版なので、もし何かバグやセキュリティホールがあれば申し訳ないが教えてくれ。勿論、霊的セキュリティについては僕の方で対処するつもりだからご心配なく。
あまりにもな内容だ。だが相手を小馬鹿にしたようなこの文体は間違いなく彼の文章に違いない。それにしても先日の宣教師といい今日の水木といい、ずっと霊媒師もどきに付きまとわれているような気分だ。水木の説明では結局のところ交霊装置の原理がほとんど理解できないが、概略だけでも荒唐無稽すぎて笑ってしまいたくなる。ジョークソフトの類なのだろうか。だが久々のメールということもあり、野田は添付ファイルを開くと、交霊装置のプログラムをマニュアルどおりインストールした。
起動すると、通信で一日間かけて霊魂のパターンデータベースを受信し設定する、と表示が出る。野田は深く考えず了解のボタンを押し、そのまま布団に潜り込んだ。
朝、パソコンを覗き込むとパソコンが再起動され、デスクトップ画面には見慣れないソフトが表示されていた。十時を回った頃、予告どおり水木から小包が届けられた。開けてみるとテレビの室内アンテナのような物が出てきた。違う点と言えば、テレビに繋ぐケーブルの代わりにパソコン用のケーブルが付いていること、台の部分に梵字らしきものがびっしり書かれていること、そしてアンテナの根元に鹿の角がくっついていることぐらいだろうか。
ますます胡散臭く思いながらも、野田は霊気受信機のケーブルをパソコンに接続する。もしパソコンが壊れたら、修理代は真っ直ぐ水木に請求してやろうと思う。パソコンを起動し、次いで交霊装置をダブルクリックで起動する。真っ黒い窓が開き、英語の文章らしきものが高速で流れていく。
突然、流れが停止した。「交霊儀式を開始しますか?」とメッセージが出ている。野田は「はい」を選択した。再び英語の文字が流れる。受信機から断続的にガラスを擦るような音が発生する。暫くその状態が続いたあと、再び画面が停止して「霊を捕捉しました」と現れた。次いで画面に意味不明の文字列が並び、再び消えた。
野田はウイルス対策ソフトに手を伸ばした。だがウイルス対策を開始する寸前、画面に再びメッセージが表示された。
「霊魂が怨念により線形化できませんでした。情動のみを強制変換しました」
野田は急に馬鹿馬鹿しくなった。おそらく、数種類のメッセージや画面をある周期か、または全くの乱数で決めた順番に表示しているだけなのだろう。野田は軽い怒りを感じた。だが、再び画面に文字が表示された。
「怒りは負の霊魂を召喚します。悪霊との交霊を開始しますか」
馬鹿にするな、野田は独り小さく毒つく。だが野田はなぜかこのソフトを停止する気になれなかった。終了することが怖くなった。画面に再び一行が加わった。
「悪霊との交霊に環境が最適化されました」
手をキーボードから離した。画面上に同じメッセージが一行加わる。見つめる。また一行加わる。一行ずつ、加わる速度が次第に速くなっていく。画面が悪霊交霊への意志で埋め尽くされる。悪霊で満杯になる。野田は必死の思いでソフトを終了した。次いで携帯電話を握る。友人のグループに水木の名前を探し、電話をかけた。
五回ほど呼び出し音が鳴り、水木の眠そうな返事が電話口から聞こえた。即座に野田は怒りをぶつける。だが、水木の反応はずいぶんとあっさりしたものだった。
「そうか、恐怖感を感じたか、お前は」
いきなり核心を突かれ、野田は黙り込んだ。しかし水木は言葉を続ける。
「きっとお前みたいなのが正常な人間の反応だろ。俺は知らんがな」
よくわかっているじゃないか、異常な奴め。言いたいところだが、まずこの「交霊装置」について訊くのが先だ。ジョークソフトだろう、という野田の率直な問いに水木は喉の奥で笑った。野田は苛立ちを必死で抑えながら問いを繰り返す。すると水木は珍しく真面目な声で答えた。
「実用の定義は何だと思う?」
切り返すような質問に野田は戸惑った。あらためて訊かれると、簡単な答えでは当て嵌まらないように思える。電話口から水木の溜息を感じた。次いで水木は、今週末は空いているか、と訊いた。野田は逡巡した。馬鹿馬鹿しい騒ぎから逃れたい気持ちはある。だが持ち前の野次馬根性は水木との再会を求めていた。
野田は煮え切らない声ながらも、時間はある、と答えた。水木は即座に待ち合わせの時間と場所を一方的に告げるとそのまま電話を切ってしまった。野田は切れた電話を握ったまま、パソコンのモニタを見つめた。黒い画面がかすかに親しげな容貌に変わった気がした。
待ち合わせの駅前に行くと、ブラウンのサングラスを掛けた水木が立っていた。この男のサングラス姿を見ると怪しい取引現場に来てしまった気分になるのは、彼の服装の趣味だけが原因ではあるまい。
野田はふと、右腕は自衛のために必ず自由にしておくと水木が以前に言っていたことを思い出した。たしかに今日も、重そうなパソコン入りのバッグは利き腕ではないはずの左肩に下げている。野田が苦笑すると、水木が首をかしげながら手を挙げた。
二人は軽く仕事や他の友人の近況を話しながら、馴染みのバーに向かった。水木は勢い良く年季の入った木製の扉を開ける。中から橙色の光が溢れてくる。やっぱりここだよな、と水木は笑みを浮かべた。
奥の席に着くと、水木は野田に尋ねもしないうちに、バスペールエール二つ、と注文してしまった。次いで水木は、やはりこれでしょう、と人差し指を立てて勝手にうなずく。
バスペールエールはイギリスのビールで、日本のラガービールと異なる製造法なので色も味も日本のビールより格段に濃く、とりあえずビールが口癖の人に飲ませるとビールじゃないと言ってしまうほどで、イギリスの小説ではエールとビールを別物として書いている作品もある。野田が教えてやって以来妙に気に入ったらしく、一緒に来ると最初の一杯はこれに決まってしまっている。野田も反対しないせいか、なおさら水木はこれしか頼まない。だが、その規則が逆に、二人の間で再会の気分を盛り上げてしまうことも事実だった。
ビールが運ばれてきた。ペールは色が薄いという意味なのだが、日本で一般的なビールより濃厚な琥珀色をしている。泡もグラスの口から盛り上がってしまう。乾杯、とグラスをぶつけると二人は喉にビールを流し込んだ。日本にはない特有の濃厚な麦の味が舌と喉を刺激していく。
二人はほぼ同時にグラスを置いた。水木は再びこれだよこれ、と無邪気に笑った。時折見せる彼のこんな表情と、普段の悪趣味な奇行や理屈っぽさのどちらが水木の実体なのだろうか。野田は思ったが、本人に訊いたところでまた理屈へ逃げられるに決まっている。
野田が笑うと、水木は意図を誤解したのかバッグからノートパソコンを取り出した。軽薄な起動音が鳴り、お馴染みの画面が表示される。水木はソフトを一つ起動する。交霊装置で見た黒い画面が表示された。野田は途端、眉をひそめる。水木はサングラスを外してシャツの喉元に引っ掛けると、秘密を明かすような低い声で、霊を信じるか、と問いかけた。野田はまたか、と思う。あの宣教師の顔が目の前に現れそうな錯覚を憶えた。だが水木は予想と全く逆の言葉を吐いた。
「俺は信じない。いや、存在しないという事実にこそ価値があるとすら思うね」
野田は首をかしげながら、もっと詳しく、と急かした。水木はパソコンのマウスを弄りながら、嬉しそうに話を続ける。
「もし霊魂なんてあったら、俺たちは不自由に束縛されちまうんだ。冗談じゃねえ」
野田は理解できず、苛立ちの貧乏揺すりを始めた。水木は小さく笑い、話を続けた。
「霊魂って肉体がないんだ。この世界で何ができるんだ。よく『心があれば』なんて言う奴がいるけど、物質なしでどこまでできるんだ」
世の中は物だけじゃない、と野田はやっと反駁した。だが水木は余裕の声で返す。
「プログラムだけのものに実体を感じるか? ネットだけの世界に実体を感じるのか?」
野田は言葉に詰まる。次いで野田のパソコンを見つめた。出鱈目だろうと思いながら恐怖した、あの黒い画面を見つめた。そして水木は遂に白状した。
「これは俺が書いた単純なプログラムだよ」
乱数で表示する台詞を選択させた後に分岐や無限ループを行うだけの代物だという。だが、その無意味な情報の羅列に野田は霊魂と恐怖を感じてしまったのだ。その事実はむしろ、霊魂が存在しないという考えに対する違和感を払拭してしまうのだった。水木は残ったビールを一口飲み、さらに奇妙なことを口走った。
「だからさ、俺たちは神様に近いんだ」
さすがに野田も口を大開きにした。だが水木は平然と話をさらに広げる。
「もし全知全能の神が存在するのなら、それは同時に無知無能な存在なんだよ」
彼の言った意味がわからず、野田は眉をひそめる。水木は軽く首をかしげ、話を加えた。
「『全知』なんだぞ? ということは自分が次にいつ何を行うのかも知っているわけだ。ってことは、既定の行動をただなぞるだけの存在だってことだろう?」
「全能なら予定の変更もできるだろ?」
野田の言葉に、水木は軽い嘲笑で返す。
「予定の変更も知らなければ『全知』にはならない。ということはだ。全部知ってはいるが、同時に自分では何も選べない。そんな神は無知無能、ってことさ」
水木は底意地の悪い表情を浮かべると、左手で十字架を切った。野田は黙って目の前のビールを呷る。水木はカウンターに並ぶ瓶を見つめたまま、早口で話を続けた。
「しかし、だ。未来について俺たち人間は無知だと言って良い。だからこそ、俺たちはむしろ全能に近い存在なんだ」
突然、野田は水木の「無知」と言う言葉に怯えた。だがその不安はあまりに輪郭が不明瞭過ぎて正体がわからないのだ。日常の濃密な危惧ではなく、無限に希釈された不安へ身を浸している自分たちの姿が垣間見えた。だが、水木は目を輝かせて話を続ける。
「俺たちってさ、先が見えないだろ。つまり全能に近づいているんだ。俺たちは神から遠ざかって、全能の支配者になるんだよ」
野田は水木の冷静さに恐怖した。個々の発言を聞いていれば狂気にも似た、だが反駁できない論理はただ不安を与えるだけだった。
だが、急に野田は馬鹿馬鹿しくなった。こんなことを考えて何をしようとしているのだろう。彼の疑問に、水木は平然と答えた。
「ちょっとした癒しビジネスだよ」
「それって詐欺じゃないか?」
あまりにも俗な考えに、野田は即座に呆れた声で返した。すると水木は妙に明るく、だが困った表情で本当にそう思うか、と念を押す。野田は迷わず当たり前だと答える。すると水木は豪快に笑った。次いで空のグラスを掲げ、バスペールエール二つ、と叫ぶ。
ビールがまた目の前に置かれた。水木は乾杯、と叫んでビールを半分空け、今日は飲むぞ、と野田の背中にしがみついた。野田は急に野良猫を思い出した。あの猫は死んだら浮かばれるだろうか。いや、霊魂がないのならただ、消滅するだけなのだろう。水木がいつの間にか空にしたグラスを振りながらもう一杯、と叫んでいる。
水木がニャアと鳴いた気がした。
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