文芸船

カタバミの庭

 僕が出会ったのは夏の真っ盛りでした。ふと目についた、たった一枚のささやかなA4サイズの広告が僕をそそのかしたのです。「小さな庭をつくってみませんか。『カタバミ庭園』」という、ただのバイト募集。そのくせどこかすましたような、そんな小さなビラでした。

 僕はフリーターだとはいえ、きちんとバイト先はありました。たぶん仕事のわりには最高の時給だったでしょう。ところがこの広告を見た途端、なぜか魅入られてしまったのです。広告の隅には恥ずかしがるように電話番号がありました。僕は命令されているように急いで電話しました。

 落ち着いた中年の声の女性が、カタバミ庭園です、と応じました。僕は見かけた広告の件をおそるおそる話しました。すると彼女は嬉しそうに返事を返しました。

「そうですか。あのビラで。では、働いて頂けるのですね」

 僕はあまりの簡単な答えに少し迷いました。けれど、人の良さそうな声。信用せずにはいられませんでした。

「では、明日の朝十時。広告に書いてある所まで来て下さい。そこから庭園に案内しますので」

 僕は切れた電話を持ったままでしばらく考え込んでしまいました。カタバミ造園。どんな人が働いているのでしょう。本当に、ちゃんとした職場なのでしょうか。けれど。それでも僕はいそいそと目的のバスの時刻を調べているのでした。


 目的の場所は郊外とはいえ普通の住宅街でした。バスから降りると日傘を差した穏やかな女性が待っていました。会釈すると、女性は笑って手招きしました。

「『カタバミ庭園』アルバイトを希望の方ね。これから職場に案内しますわ。もっとお気楽になさい」

 僕はうなずくと彼女の後に続きました。彼女は造園とは縁のある人とは思えませんでした。どこかのお金持ちで、それもご婦人なんて言葉がぴったり似合うような人でした。僕たちはほとんど話すこともなくしばらく歩いて、あまり人のいない外れに来ました。けれど、それでも避暑地に近い場所でした。

「こちら。来て下さる?」

 彼女が指さした先は大きな門構えのお屋敷でした。僕がまごついていると、彼女は小さく笑って安心するように行って笑みを浮かべ、僕の背中を押すと門をゆっくりと開けました。すると門の中は雑草だらけの庭が広がっていました。

「これから、この庭のお世話をして頂きたいの、良い?」

 僕は慌てて、庭造りの経験なんてないことを必死で説明しました。しかし彼女は全く動じることもなく、ゆったりと首を振って答えました。

「大丈夫。私の言うとおりにしてもらえば。それに、これはプロなんか全然いらないんだから」

 僕が疑わしそうな顔をして彼女を見つめると、彼女は肩をすくめて付け足します。

「ちょっと普通のお庭とは違うの。だから、驚かないでね」

 僕はなおさら不安が膨らんでいました。しかし彼女はそんな僕の気も構わず、そのまま家の中へと招き入れました。部屋に入ると彼女は一冊の図鑑を僕の前に示しました。

「ここで育てて欲しいのは、このカタバミ」

 そこには黄色くて小さな花が写っていました。けれど、よく見るとどこかで見た花です。

「これは普通、雑草なんて言われているわね。でも私はこの花を育てて欲しいの。雑草って言われても、私はこの花でいっぱいにしたいの」

 僕は黙ってうなずきます。彼女は宣言するように言いました。

「じゃ、さっそく始めてもらうわね」


 いつのまにか、僕は住み込みで働いていました。花の育て方は一から十まで、婦人が教えてくれました。夏も過ぎ、秋に入りました。カタバミは春から秋まで咲く花です。手入れのせいか、初めより多く咲き始めました。そして秋も終わりになって。一面が黄色い色に染め上げられました。小さな、カタバミの花が畑を包み込みました。

「ご苦労さま」

 婦人は微笑んで僕に頭を下げました。でも僕はすぐに自分の身が心配になりました。だって、一面を花一杯にするという目的を達してしまったんですから。すると彼女は首を振りました。

「これから種がはじけるの。ぴつちっ、ぱーんっ、って。それまで世話を見て下さらない?」

 僕は不思議な気分のまま婦人の言葉に従うことにしました。それにしてもいったい何なのだろう。金持ちの道楽ぐらいにしか考えていなかったのに。どうしてこんな花を育てるんだろう。僕はそれが気になりました。そこで僕は休日に図書館に行ってカタバミを調べました。勉強の苦手な僕が図書館に行くだなんて本当に久しぶりでした。

 けれど。出てくることはただの『雑草』。それ以上は何も見つかりません。僕は不安になってきました。なぜ一人暮らしで。こんなことをして。この人はどんな人なんだろう。僕は夜、彼女が寝静まるのを待って屋敷の中を調べることにしました。どこかに秘密があるかもしれない。僕はテレビドラマさながら、入ったことのない部屋を漁り始めました。

 最後は彼女の寝室の隣でした。ゆっくりと隣に響かないよう注意して。するっと体を滑り込ませます。耳をそばだてて、物音を確認して。電灯を点けました。そこは、全くのがらんどうの部屋でした。たった一つ、壁を覆う百号ぐらいの大きな額縁があるだけの。そう、その額縁の中の絵のために用意された部屋だったのです。

 それはカタバミの花でいっぱいの絵でした。高い秋空に一面の黄色いカタバミの庭。その真ん中で一人の若い女性が微笑んで立っています。若い頃の婦人でしょう。素晴らしい絵でした。どこかの美術館で中心に飾られていておかしくないような。そんな素敵な絵でした。

「見にいらしたんですね」

 背中から急に声がしました。振り向くと婦人が立っています。僕は慌てて言い訳をしようとしました。すると婦人は僕を手で制しました。

「良いの。私こそ何も教えなくって。ごめんなさい」

 彼女は溜息をついて僕に謝ると、再び話し始めました。

「今年は夫の三回忌。そう、絵描き。この絵はね、彼が初めて入賞したときの絵。そして、初めての告白の日ににくれた絵。ここは一面原っぱで屋敷も何もなかった。ここで彼は私を描いたの。私はもう一度、彼とあの原っぱに逢いたかった」

 彼女は静かに語り終えました。そこには、少し年老いた少女がいるようでした。


 種がはじけました。僕の仕事は終わってしまいました。婦人は僕をバス停まで送ってくれます。

「じゃ、頑張ってね」

 彼女は僕にいつも通り優しく声をかけます。僕は悪戯っぽく笑って小さな鉢を手渡しました。首をかしげた婦人に、僕は胸を張って答えます。

「部屋に置いておけば、冬でも咲きますよ」

 彼女は涙を溜めて僕に頭を下げました。僕は手を振ってもう一つ鉢を見せます。

「少しだけ、分けてもらいました」

 くすっと彼女は笑います。僕もそれに笑い返します。バスが短くクラクションを鳴らして発車しました。

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