部屋に入るなりテレビとBlu-rayデッキとコンポの電源を入れると、ネット通販で届いたばかりのアニメBlu-ray「げんゆーけんナツミ!」の2巻を早速トレイに載せてコンポのボリュームを上げた。
「げんゆーけんナツミ!」はライトノベル原作のアニメで初めはそんなに話題にならなかったんだけど作画が妙に良かったのとアニメ放映開始からの公式サイトとの連携ができてたもんで掲示板で妙に話題になっちゃって異常な視聴率になって、つまりは僕も当然にハマって予約購入していたというわけだ。
アニメと言った途端にそこ、オタクとかキモいとか言わないで欲しい。確かにメインキャラの夏美がかわいいというか夢中にさせるというか僕は萌えるわけなんだけど、それ以外にも考えさせるところもあるとか作画のレベルが高いとか声優も凝ってるとか凄いアニメですと断固叫びたくなるというそんな作品なわけだ。
まあこんなこと叫んだりしていればやっぱりオタクとか言うんだろう。言うなら言えばいい。僕はオタクだろうが、だからこそ「げんゆーけんナツミ!」が好きだという一点は譲る気はない。まあそんなこと譲ってくれという奴もいないだろうけど。
暫く表示されたままだったBlu-rayお決まりの「部屋を明るくして見て下さい」とか著作権で保護されて云々という本音は読ませる気のなさそうな画面が通り過ぎ、オープニングの甲高い歌声が止むと本編が始まった。
しばらく見ていて中頃のちょうどいい場面で携帯にメールが入った。無視しようかと思ったけれど、バイトの連絡だったりしたら面倒なのでBlu-rayを一時停止してメールを確認した。
『俺様は元気なのだ』
吉野だってすぐわかったから僕。こんなお莫迦さんなメールくれる人間、上司先輩友人親戚全部搔き集めたって大学以来の友人と言うより変人の吉野しかいないよ君。僕はやむなくメールを開ける。近所に出張してきたらしい。彼は海のある場所ばかり出張していると聞いていたからそのうち来るとは思っていたけれど、よりもよって今日来やがったか。というか、僕の住所をタクシーに言ったとか飲み代はあるぞとか良い店を知ってるから安心しろとかすごく安心できないことを書いてあるのは僕の幻覚だろうか。たぶん違うだろう。だって今、部屋のドアをベートーヴェンの運命みたいに叩いてる奴がいる。
僕は溜息をついてBlu-rayその他AV機器全部の電源を落としてパソコンもシャットダウンするとドアを開けつつ、テレビ放映で観たこれから続くはずの場面を思い浮かべていた。
吉野とタクシーに乗りながら、テレビ放映時に観たBlu-rayで続くはずの場面が頭の中を駆け巡る。アニメの中なら笑ってられるが吉野は現実世界で応援団なことをやってくれる奴、というか一時期は寮で応援団の手伝いをしていたとかで酔っ払うと寮歌を歌うような奴だ。吉野はネクタイを苦しそうに緩めた。よく見るとスーツの前ボタンを全部開けている。
「太っただろ」
言うと吉野は口を尖らせて再びネクタイを締め直す。僕は苦笑して彼の上着を摘んだ。
「昔の君、ジャケットのボタンは必ず締めてたけど」
吉野はあ、と言ってボタンを締めかけ、再び手を下ろして苦笑した。
「太ったよ、どうせ。でもオタクファッション全開なお前がそんなとこ見てたとは思わなかった」
「バンカラとか言って、雪駄を履いてた君の口からファッションを指示されるとは思わなかった」
吉野の言葉に僕はぴたりと合わせてやる。吉野は尖らせていた口から笑いを吹き出した。
窓の外はもうネオン街になっていた。バイト先の飲み会で来ることはあるが個人で来ることはないせいか、僕は別の街に来たような錯覚に捉われかけた。吉野も僕の視線に気づいたのか、あまり来ないんだな、と呟く。まあ吉野の案内なら大丈夫だろう。意外に酒の飲み方はまともで、ウイスキーやカクテルが好きという男だ。
少し電飾の大人しい小路に入ると吉野が車を止めた。タクシー代は吉野が払い、降りた途端に半額を請求してくる。まあこれも僕達のいつものやり方だ。学生時代に一緒にいたからだろうか。もう半年も会っていないのに、いつもの、という言葉がしっくりとくる。
「まだやってるんだぜ、『星月夜』」
吉野と何度か一緒に行ったバー「星月夜」を思い出す。チェーン店の居酒屋しか行ったことがなく、酒は不味いから嫌いだと言ったところ、いきなり吉野が連れて行ってくれたバーだ。理科の白衣のようなバーコートを着た年輩のバーテンダーが作ってくれたワインクーラーに、僕は初めて酒が美味いものだと知った。それは残念ながら、滅多に他では感じられるものではなかったけれど。だから当然、今日の店にも期待して吉野の後に続いた。
カウンターとボックス席が二つだけの小さい店。奥の壁は僕の知らない酒瓶が覆い隠していた。それなりに年数を経ているのだろうか、手入れはされているものの傷の残る分厚い木製のカウンターに僕達は腰掛ける。
吉野はカウンターを見ずに僕の頭越しに壁を見て何かうなずいた。振り向くと壁に四角く光が当たっている。
「アニメ以外の映像だって知らないわけじゃないだろ」
吉野の言葉に僕はもう一度四角い光の窓を見詰めた。そこにはオードリー・ヘプバーンの扮する王女の姿があった。
「ここのマスター、ヘプバーン好きでね。客のためというより自分が観たくて写しているらしい」
僕達よりちょっと年上らしいマスターがグラスを磨きながら首をすくめる。
水とメニューが差し出されたが、僕はいつもの通りワインクーラーを頼んだ。吉野はラフロイグ、と慣れた様子で緑色のウイスキーの瓶を指差し、ウイスキーと水を半分ずつで、と注文した。
不思議そうに見つめる僕に吉野は何だ、と訊く。僕は当然のように、ウイスキーはストレートじゃなかったっけ、と訊いた。吉野はああ、と言って手元の水を飲み、小さく呟くように、好みが変わってね、と答えた。だがすぐに、まあ弱くなったのさ、と余計小さい声で言う。
ちょっと途切れたところでワインクーラーと濃い水割りが僕達の前に置かれた。
「じゃ、乾杯」
グラスのぶつかる音が涼やかに鳴る。一口飲み、やはり吉野の選ぶ店は間違いないと思う。吉野は僕なら一杯で酔いそうな水割りを美味そうに半分ほど飲み干した。
「俺、相変わらずビールは苦手でさ。げっぷがきついというか。やっぱりウイスキーは香りだろ香り。あとカクテルは色々混ぜて最高の味を出す辺りアートだろ」
吉野の酒談義が始まった。でもこれを聞くのも今はなぜか安心できる。久しぶりの、いつもの時間。
ふと吉野は僕のワインクーラーを見つめると、山ぶどうワイン覚えてるか、と言った。記憶の糸を手繰り寄せる。すると吉野はにやにや笑って言う。
「ほら、密造酒だよ」
ああ、と僕は笑った。吉野の後輩が山から採ってきた山ぶどうでぶどう酒を仕込んだことがあったのだ。だが悪いことはできないもので、飲んでみようと思って蓋を開けたらワインを通り越して酢になっていたという、今考えれば莫迦な話だ。
「相変わらず俺は莫迦だ」
「たしかに莫迦な顔をしているね、君は」
僕の言葉に吉野はこの野郎、と言って笑う。笑いながら、成功していたら後輩にも飲ませたかったな、と少し寂しそうに呟く。僕は不謹慎にも、また残してきたBlu-rayのことを思い出してしまった。
水着コンテスト、と思わず呟いた途端、吉野は何だって、と聞き返した。いや何でもないと言っても吉野は面白がって食いついてくる。僕はやむなく「げんゆーけんナツミ!」のこと、今思い出していた場面のことを吉野に話した。吉野はグラスの残りを一息に空けると、もう一杯、と注文して、さすがオタク魔王、と口走る。何だそのオタク魔王って。言っても吉野は「お前はオタク魔王だ、魔王だから偉いのだ」とわけのわからないことを言う。この酒オタク、と言ってやるとたしかに俺は酒オタクだと開き直ってまた笑う。
笑いが止まると吉野は僕の手元を覗き込んだ。空になったグラスの中で、氷が半分以上溶けて飲めるほどの水が底に溜まっていた。
「プースカフェ一つ」
吉野がいきなり僕を指差して注文した。聞いたことのないお酒だ。僕が不安で吉野に目配せすると吉野はにやにやしてでき上がってのお楽しみ、と答え、少しゆっくり新しいウイスキーを口にしてから言った。
「そのアニメ、ラストは水着コンテストか?」
いきなりの言葉に僕ははあ、と間抜けな声を発してしまう。だが吉野は続けて言う。
「考えてみればさ、水着コンテストなんて本物、見たことないよな、とか思ってさ」
現実はアニメみたいにはいかないさ、と答えると吉野は少し意地悪な顔で言った。
「じゃあさ、普通の小説と現実ってどうだよ」
言われて僕はうん、と言葉を飲み込む。吉野は一冊の文庫を鞄から取り出すと僕の方に放り出して言った。
「最近うざいんだな、家族とか書いてるの」
吉野は真剣な顔でグラスの中の氷を見つめながら言う。
「俺達みたいに一人暮らし独身で家族の将来とか苦悩なんてもん、美少女水着コンテストと何が違うんだ」
言って吉野は酒を再び一息に呷る。うん、と僕は曖昧に同意する。さっきからアニメを思い出してばかりいる僕には、アニメの世界も充分現実の一部に違いない。
「なあ、そのラスト話してみてくれや。お前、粗筋話すの得意だったろ」
僕はうなずくと、残った話を話し始めた。話し終わって吉野が変な笑い声を上げていると、僕の前に細長い虹が現れた。
「プースカフェになります」
マスターが注意深くグラスを置く。グラスの中で五色の酒が層になって輝いている。
「比重で作る、酒の虹さ」
吉野の言葉に僕はうなずく。携帯を取り出して飲む前に写真に収めておく。プースカフェ、と名前を口の中で繰り返し、名前を必死で覚えておく。これも現実の酒だ、という吉野の言葉に僕はしっかりとうなずいた。非現実的だけど、という僕の呟きに吉野が指を立てる。いつの間にか吉野も自分用にプースカフェを頼んでいたらしく、彼の前にも細長い虹が立っている。
「男二人でかわいすぎるか?」
「僕らには筋肉野郎の水着コンテストが関の山」
僕達は同時に吹き出すと、一緒にプースカフェのストローに口づけた。
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