「どうだ、ナポレオンだぞ!」
大川は目の前にブランデーの瓶をどん、と置くと、棚から適当なグラスを出して並べ、無造作に注いでいった。
大川は私に気があるみたいだけど、好みじゃない。でも友だちでいるなら面白くて良い奴。ま、もう少し子どもたちに目が向いてくれれば、と思う。
せわしなく動き回る大川の大柄な背中を黙って見ていると、細い指が私の背中をつついた。
「渚先輩。団長の挨拶して下さい」
どこから見つけてきたのか、美枝がおもちゃのマイクを押し付けてくる。私は体を縮ませて反対側に逃げた。でも大川はまたお節介にも重ねて言う。
「人形劇団『ワン助とチュー太』は渚がスタートなんだから。だろ? 初代団長さん」
私はわざとらしくアヒル口に口を尖らせて残りの団員を見回した。けど、彼らも全く同じ意見なようでグラスを掲げて私をじっと見つめている。私はしぶしぶ立ち上がり、グラスを高く持ち上げ叫んだ。
「みんな、ご苦労様。乾杯!」
みんなも乾杯、と言ってグラスに口をつけた。でも。
「かっらーい!」
美枝が悲鳴を上げた。この娘はどこか子どもっぽい。甘党な上にお酒もあんまり飲まないんだっけ。見かねた大川は冷蔵庫から氷を引っぱり出そうとした。
「おい、渚。離せよ手」
言われて気がつく。無意識に大川のベルトをつかんでいた。ちょっと力を緩め、また思い直して力を込める。不機嫌だった大川は、ほんの少しの気遣いと怪訝さの入り混じった表情で私を覗き込む。私はうつむいて目を逸らし、ぽつっ、と答えた。
「ブランデーは水割りにしたら台無しよ」
大川はますます眉をひそめながらも、明らかに好奇の目で私の顔を覗き込んできた。それでも私はさらに構わず言い募る。
「舌だけで味わうんじゃないわ。鼻でも楽しむものなの」
言い切ってから、再び私は目を逸らす。見つめたい人は大川なんかじゃない。それは、私に教えてくれた人。
そうでしょ? 海野先輩。
あの日、私も喉を焼くだけのように思えた。そう、初舞台が終わった日に海野先輩が勧めてくれたブランデー。
「渚、そんなに顔しかめるなよな」
「だってきついんだもん。ね、水割りにしようよ水割り」
海野先輩はそんな私の顔を覗き込んで笑う。
「ブランデーは水割りにしたら台無しだ。それに舌だけで味わうんじゃない。ほら、グラスが大きく口を開けているだろ? これは香りを楽しめるようにってことだよ」
うなずきながらも、やっぱり私は顔をしかめてしまう。お菓子に入ってるくらいなら良いけど、ここまできついと匂いだけで酔いそうに思った。そんな私を海野先輩はあったかい目で見つめてくる。グラスを空ける先輩を眺めるのは本当に幸せだった。
海野先輩は私の憧れの人だった。と同時に変わった人。バンド活動にイラスト描き、それにプログラミングまで何でもできる。でも私が憧れたのはそんなことじゃない。先輩は地域の児童館で人形劇をやっていたんだ。それもたった一人で。両手で二つの指人形を操る一人二役。
私が先輩を知ったのは、叔母に頼まれて児童館で遊んでいる従弟を迎えに行ったときのことだ。先輩はちょっと恥ずかしそうにしながら、でも嬉しそうに言った。
「この子たちの表情見てよ」
って。そして人形を動かし始めた。
身を乗り出す子どもたち。狼が「ひゅうっ、ふひゅうっ」と息を吸い込むと一緒に後ろにのけぞる。狼が子羊に迫ると「危ない危なーいっ!」って必死で声を絞る。口を軽く開けたまま息をはあはあさせて集中する。
先輩は子どもたちの反応を探りながら盛り上げていく。ときにはアドリブを混ぜ、子どもたちの声をまとめあげていくんだ。私にはそんな先輩がなぜか綺麗だって思えた。
終わった後、海野先輩は私に声をかけてきた。
「どう? 子どもたち」
汗で少し湿ったTシャツが先輩の体の線を際立たせていて、私は何となく目のやり場に困った。でも、芝居の余韻で火照った先輩の体温がじんわりと包み込むように伝わってくる。私は何とか動悸を隠しながら答える。
「あんなに夢中になるものなんですね」
先輩は微笑んで私を指さす。
「君だって十数年前はああしてたはずさ」
かっこつけな台詞だけど。海野先輩の口から出ると何だかまともに思えた。先輩は私の表情を読んで言う。
「もう一人いると嬉しいんだけど。『三匹の小ぶた』だって脚本さえ書き換えればできるんだから。誰か一緒にやらないかな、って。でも真面目にやってくれる人じゃなきゃ」
先輩の目が私を捉える。まるで手を握られているみたいだった。先輩の熱気が私の顔を打つように思えた。そして。私は大きく笑顔を浮かべて首を振った。
ほんとに。子どもみたいにうなずいていた。
「そう、その調子。腕を下げないで。ほら、それだと頭が見えるだろ? よーし、良いぞ」
先輩は一から人形劇を教えてくれた。人形だって自作。作れるなんて考えなかったし、その作り方も予想外。
芯に古新聞を丸めてくっつけ、その上に小さく切った半紙を水で薄めた糊で貼っていく。そして不透明水彩の絵の具で顔を描く。半紙ができるだけ重ならないように、でも新聞は見えないようにするのが意外に難しい。
服だって見て面白いように、でも操作しやすい形につくる。壊れないようにきっちり手縫いするのが意外に大変。そして最後に服に頭部と手を縫いつけしてでき上がり。
なんてね、言うだけなら簡単なんだけど。子豚ちゃんがタヌキになったり。後で指の位置が逆なのに気付いたり。散々失敗した。でも海野先輩はそんな人形を優しく撫でる。「ごめん」って人形に謝ってから解体する。
私に謝るんじゃない。人形に。それが嬉しかった。人形をほんとに大切にして、愛情をかける。私もそれを見習って。とうとう一人で全部作れるようになった。
先輩は大道具の色塗りを私に任せてパソコンに向かった。
「先輩、何してるんですか?」
画面を覗き込むと、題名は『大ぶた小ぶた』と書いてある。先輩は難しい顔でキーボードの端を叩きながら呟くように言った。
「藁の家の飛ぶシーンさ、君が両方動かすしかないや」
「先輩は?」
ちょっと不安混じりで訊くと、先輩はいつもより強い視線で答えた。
「狼は両手操作の大きい人形を使いたいんだ。でも、君にゃ操作がまだ難しいから。それに、狼の声出せる?」
「う、うがおーっ、とか」
先輩はくくっ、と笑いをこらえる。私は憤然と食いついた。
「先輩! そんな笑うことないでしょ?」
「悪い。でもそんなかわいい狼じゃ恐くないよ」
言われて複雑な気持ちになった。先輩がかわいいって言ったのはこれが初めてだけど。にしてもこれじゃ。むくれてみせても先輩はまた笑う。そのうち私も一緒になって笑ってしまった。
「な? だから藁の家、大ぶた君、小ぶた君の三役頑張って」
ちょっとむくれてみせたけど、内心嬉しくてしょうがない。初めっから大事な役を与えてくれたんだから。私のこと信じてくれてるから。
こんなことしながら、とうとう児童館の初舞台。何とか読み聞かせは上手くいき、一緒に体操しよう、ってコーナーは自慢じゃないけど先輩ぐらいまでいけた。そして遂に。
「最後の劇は『大ぶた小ぶた』。どんなお話かなあ。みんな、呼んでみよう。大ぶたくーん、小ぶたくーん!」
子どもに精いっぱい声をかける。舞台に目をやると、さっすが先輩。紙製の平面人形、ペープサートを揺らしている。私は舞台の袖に入るとすぐに大ぶた君を手にした。
「さ、初公演最後だよ」
私は短く返事すると、私は大ぶたくんを高く掲げて言った。
「眠いよう。もう朝かあい?」
子どもたちの笑い声がはじけた。
「海野先輩、来ないよねえ」
「きっと忙しいんだよ、チュー太」
一人芝居。先輩が急に来なくなった。携帯にかけると「家がちょっと揉めてるんだ」って。事情だけに自宅を訪ねるのは気が引ける。私は絵本の読み聞かせや紙芝居をしながら先輩を待ち続けた。そのうちネズミのチュー太が主人公の脚本を書き始めた。先輩が戻ったら新作にとりかかる、そう思いながら。先輩が戻ってくる、そのことには疑いなんて持たなかった。そう、あの電話があるまで。
久しぶりに、先輩だけに設定していた着メロが鳴った。でもその電話の向こうにいたのは、先輩のお母さんだった。お母さんは少し口ごもってから、息子の様態がちょっと、と言った。
私は急に馬鹿になったように錯覚した。様態って。まさか。だって、家庭の事情って言って。
「総合病院に来て下さる? 息子が入院してますから」
電話が切れた途端、私は大通りに走った。目に付いたタクシーを呼び止め、聞いた病院の名前を告げた。
呼吸が苦しい。タクシーが遅く感じる。タクシーの中で流れるラジオのトークが奇妙に遠く、でも煩わしいように思う。目が時計と窓の外をせわしなく往復する。いつのまにか「嘘、嘘だよね」ってうわごとのように呟く。
先輩は元気なんだもん。また一緒に人形動かすんだもん。そんなことしか頭には浮かばなかった。でも。タクシーが着いて。顔色の悪いおばさんが見え。現実が私を押し潰そうとした。
「渚さん?」
おばさんの問いかけに黙ってこくっ、とうなずく。おばさんは手招きすると真っ直ぐ病院へ入っていく。
鞄には人形が二体。先輩が使う犬のワン助と、私のネズミのチュー太。それが背中で慰めてくれる気がする。でも。そんなのも。病室の前に立って何も言えなくなる。無機質なプラスチック板にマジックで書き込まれた「海野浩治」という文字。私をあざ笑っているみたい。
おばさんは病室のドアを開けた。中にはベッドの上にいる青年。やっぱり海野先輩だった。
「嘘つき!」
叫んで鞄を先輩に投げつけた。先輩は都合悪そうに言う。
「だって、病気なんて言うと心配するだろ?」
「私のこと信じてなかったんだ、先輩」
私はさらにひどい言葉を重ねた。先輩はただ黙り込む。でも目が合うと怒った顔が自然にほころんでしまう。先輩のそばにいたいから。今度は押さえて言った。
「先輩、治ったらこの脚本、一緒にやりたいんです」
そっと差し出す。あの頃まだワープロは苦手だったから手書き。先輩はちょっと驚いて、すぐにページをめくった。そのうち明るい顔に変わっていく。そして、言ってくれた。
「面白いよ、渚。よし、治ったら一緒にやろう」
先輩の言葉に、さっき自分が怒っていたことも忘れて大きくうなずいた。それは先輩に認めて貰えた嬉しさと、そして何よりも、先輩の笑顔が私のずっと待ちわびていたものだったから。だから私は敢えて意地悪を言った。
「治して一緒にやるって、約束して下さい、先輩」
私の言葉に先輩は口を尖らせ、でも優しく小指を差し出した。小学生みたいに指きりして、その指の暖かさが私の気持ちをますます暖かくさせてくれた。
でも。ふと目の端に映った先輩のお母さんの涙がちょっとだけ気になっていた。
大川はすっかり酔っぱらってからみ酒。私は一足先に帰った。自宅に戻るといつもの通り真っ先にパソコンのスイッチを入れる。Windowsのオープニングがじれったい。待っているうちにまたあの日のことを思い出してしまう。
先輩のお母さんに呼ばれて駆けつけたときにはもう、目を開けてくれなくて。先輩の嘘つき、と怒鳴った声が病室の中に響いていた。渚、って諭してくれる、もう聞けない声を待っていた。
いつものデスクトップが表示されると、私はメールチェックもせずに画面上のアイコンから「umino.flac」というファイルを開く。画面にぽつりと浮かぶ、「はじまり」の文字。私はゆっくりマウスのボタンを押し下げる。
小さなアニメーションフラッシュ。ブランデーグラスを持った犬が、頭にリボンをしたネズミの肩を抱いてちょこちょこ動く。そして、最後に。
「ガンバ、渚」
先輩の声。あの脚本を読んだ後、ノートパソコンを病室に持ち込んで作ったらしい。告別式の日に頂いた。もう何回も再生してすっかりタイミングまで覚えてしまった。でも。
もう一度再生。ちょこちょこ動く。涙を拭って一緒に呟く。
「ガンバ、渚」
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