それは唐突な感覚だった。荷物をバンド機で締め直そうとしたらバンド機が壊れていて、仕方なく久しぶりに手で縛っていたときのことだ。僕は慌てていたのか、それとも久しぶりの手作業だったせいか間違って自分の手をまとめて縛りかけたのだ。普通なら当然、痛いとかしまったとかいうところだろう。いや、営業とはいえ配送も担当している身なのだから恥ずかしいと思うべきなのかもしれない。だが、そのときの僕はそのいずれでもなく、なぜか安心してしまったのだ。ほんの一瞬のぼんやりした時間。忙しいこの職場ではありえないような安心感だ。
フォークリフトがバックしてくる警告音で僕は我に返って手を紐から抜いた。その奇妙な安心感はすぐに消滅してしまい、僕はいつもどおり平然と荷物を持って作業員に手渡した。同期入社の佐藤は荷物を片手で受け取ると、これ一個か、と確認する。僕は肩をすくめてうなずいた。彼もすぐそれが誤配送の荷物だと気づいたらしく、空いた片手を振るとそのまま倉庫へと運びこんだ。
さっきの感覚は何だったのだろう。考え込みたいところだが、もうすぐキタボシの出荷が始まる。キタボシは僕の担当する顧客の中では最大手で、この市内で十店舗を展開する市内最大のスーパーだ。バイヤーの西川は切れ者ながら穏やかな人物だが、欠品などの細かいミスにはドライな対応で、納入開始から二回のミスでその商品は取引停止という男だ。先週に加工場が原料仕入れミスで欠品を起こしたばかりだから、少なくとも今月二度目の欠品など冗談では済まない。短気なうちの社長なら上司を飛び越え社長直々に辞表の書き方講習会を開催してくれることだろう。
荷捌き所に向かうと、毎朝の怒鳴り声が飛んできた。
「こっちのホタテパック、東部店に出しちまって良いんだなお前!」
商品ピッキング担当の田中さんだ。いったん定年退職したのだが、職人的な真面目さと家にいても暇なだけだという理由で早朝出荷のみの契約社員をやっている人だ。頼りにはなるのだがとにかく毎朝怒鳴り声がきつい。走って見に行くと、東部店十五ケースとなっている。普段の五倍の発注量だ。昨日見逃したのだろうか。
「あと十分で積み込むからな。確認とるなら早くやるんだぞ」
どやされながら僕は慌てて店舗マネージャの携帯に電話をかける。機嫌の悪い声が聞こえたが構わず要件を告げると案の定、三ケースが正解だという。昨日パートさんに任せて間違っていたようだ。僕は再び田中さんに告げると、田中さんは俺様の手柄だという感じで鼻で笑い、余った十二ケースを倉庫へと戻していった。やっと落ち着いて荷捌き所内を見回すと、東部店以外の荷物は既に積み込みが終わり一部の店舗についてはもうトラックが発車した後だ。東部店も問題が解決したからあとは積み込みだけだ。ここから先は営業の僕の出番はない。慌ただしく荷を積み込んでいるが、積み込みにも色々と手順があるから、僕が下手に手だしをすると余計邪魔になってしまう。
僕は田中さんに会釈すると、荷捌き所を後にした。
出荷が終わればいつもの顧客との商談、仕入先と来週のセール品の価格交渉と配送の打ち合わせでほぼ夕方になってしまう。今日も結局同じ展開で、時計を見上げると各店舗からの発注が受注システムに入ってくる時間になっていた。僕はいつもどおり受注システムを立ち上げ、受注伝票を印刷する。
キタボシはそれなりに大手のくせにコンピュータ関係の管理はずさんな会社で、商品コードをきちんと管理してくれないから、毛ガニと伝票にあっても実はズワイガニの発注だとか、何のために高価なネットワークを導入しているのかよくわからない部分がある。とはいえ、僕の会社も人のことを言えた立場ではなく、各店舗の発注内容から他社に仕入発注するときは、発注システムどころか手書き発注票とFAXという、さらに前時代的な方法を採っている。まあ、仕入先の一部は社長自身も包丁を握って切り身を作っているような会社なのだから仕方ないと言い訳はできるのだが。
古びたドットインパクトプリンタが伝票を吐き出している最中、うちの次席の山岡さんと経理の絵里奈さんが何やら怒鳴り合いをしているのが聞こえた。僕は大学院卒の入社、絵里奈さんは高卒入社なので、同い年ではあるが職場では六年先輩だ。絵里奈さんはさっぱりとして良い人なのだが、絶対譲らないところがあるのでまた喧嘩になったのだろうか。僕はとばっちりが来ないよう小さくなって伝票の印刷を待つ。
やっと印刷が上がると、僕は伝票を机に置いてデータを一列ずつ蛍光ペンでチェックしていく。そんな僕を尻目に上司と先輩たちが次第に帰り始めた。店舗はこちらの締切ぎりぎりにデータを入れてくるものだから、とくに忙しいことがない限りは僕が最後に帰る形になるのがいつものことだ。逆に上の人たちが帰ってしまった方が余計に声を掛けられずに済むので気楽かもしれない。僕は自分の周囲のみ電気を点した状態でおれはうんとのびをした。と、後ろに伸ばした手が何か柔らかいものに当たった。
「とろくさ」
情け容赦ない言葉が頭の上から振ってくる。そして僕の額に冷たいコーヒー缶が押し付けられた。振り向こうとすると、さっきの触れた手が握られる。
「だから、とろくさいって」
相手は喉の奥で笑うとやっと僕の腕を解放した。立ち上がった先に立っているのは絵里奈さんだ。絵里奈さんはどちらかといえばお姉さん気質、歳の離れた兄以外に兄弟がいない僕は弟気質のせいか立場以上に差が開いて感じてしまう。
絵里奈さんは座禅のときの坊さんのように、三十センチメートル定規で僕の肩を叩いた。
「そんなフリーハンドでペンでチェックしてるから遅いの。ちょっとどいてごらん」
言って絵里奈さんは定規を当てて一列ずつ僕よりかなり速くチェックしてみせる。
「こうやって定規、それも幅広で下の文字が見えないのを使うと速いの。どっかで習ってない?」
僕が首を振ると、大学じゃ教えないよね、と言って笑う。僕が机に放り出していた新製品の衛生管理提案書を勝手に手に取り、ぱらぱらとめくって顔をしかめた。
「やっぱ全然わかんないわ、こんなの」
僕は苦笑して提案書を受け取った。はっきり言ってまともなものとは言えない。何の設備もないこの会社で立てた提案書なんて、実験データも何もないのだからひどい机上の空論にならざるをえない。だが絵里奈さんは大したもんね、と微笑んでくれる。だが次いで、ぼそっと不機嫌に呟いた。
「なんつか君、損してるわ」
ええ、と曖昧に答えて僕は定規を借りると続きをチェックし始めた。絵里奈さんは隣の席に座って肘につくと、鞄からポッキーを取り出して一本を自分でくわえ、もう一本を僕にくわえさせる。絵里奈さんがこりこりとポッキーを食べる姿は何だかウサギに似ているような感じがしてしまう。絵里奈さんは僕の視線に気づいたのか、悪戯っぽい視線を僕に向けると、頭の上に両手を伸ばしてうさぎの耳の仕草をして見せた。初めから僕の考えは見抜かれているらしい。こうぴったり合わせられると、かわいい仕草もむしろ圧迫に感じてしまうのは不思議だ。
ようやくチェックが終わった途端、絵里奈さんは再び口を開いた。
「ついてない子って、とことんまでついてないよね」
そうですかね、と僕は何となく目を逸らして曖昧に答える。すると絵里菜さんは小さく笑って言った。
「そうだよ氷河期大学院くん」
この手の言い方をされるのは嫌いなのだが、なぜか絵里奈さんの言い方は不思議と棘がなく、そのまま受け入れる気分になってしまう。何というか、上下とかやっかみとか何も考えず、ただの記号として学歴を言っているという感じなのだ。絵里奈さんは先日のボーナス翌日に新調したバッグを僕の目の前にぶら提げて見せつけながら続ける。
「私の場合、高校を出てすぐ就職して、こうやってブランドを買ってるわけ。君は大学院まで行って勉強して、で奨学金の借金も抱えてるわけでしょ? で、悪いけど君の係の連中って営業勘だけでやってる奴ばっかだから。細かいこと本当に呆れるほど教えないし」
言われて僕は面々の顔を思い浮かべる。一応、営業成績は良い人たちだったと思うけれど。絵里奈さんはふん、と笑って僕のペンを取り上げると器用に回しながら言う。
「私って君の二課だけじゃなく、一課の経理もやってるでしょ? 比べると無茶苦茶なのよ、そっち。よく言えば柔軟、正直に言えば相場師も真っ青なほど危なっかしいの。何て言うか、あー、言わないでおくわ」
絵里奈さんは中途半端な物言いをしてペンを山岡さんの席に投げ付ける。また一本ポッキーをくわえると少し乱暴な感じに平らげ、結果オーライバカ、と呟く。そして僕の方に視線を向けるとまた僕の口にポッキーをくわえさせる。
「裏切ったら駄目だよ、ちゃんと餌付けしてるんだから」
僕はポッキーを手につまんでじっと見つめ、餌付け、と呟く。
「そ、餌付け。ペットなのだ君は」
絵里奈さんは顔に似合わず豪快に笑って僕の頭をぽんぽんと軽く叩いて、すぐ慌てて僕の頭を叩いた手を不思議そうにじっと見つめる。僕が怪訝な顔で見上げると彼女は眉をひそめ、柔らかい、と呟いてゆっくりと僕の頭を撫でる。
「見事な猫だね、君の髪は」
一応職場では先輩とはいえ。同い年の女に頭を撫でられて君呼ばわりされるなんて。だが、怒って当然の場面なのに僕はなぜか絵里奈さんに逆らう気になれなかった。それどころか、僕はこのままずっと身を任せていたい気分になった。
「何だか君、かわいい」
絵里奈さんは小さく笑うと空いている右手を僕の右手に重ねる。僕は絵里奈さんの顔を見上げる。絵里奈さんはなぜか妙に生真面目な顔で僕を見返した。そのまま優しく握られるのかと期待していると、いきなり僕の腕を固めた。慌てて振りほどこうとして、でもなぜかまた力が入れる気が失せてしまう。このままでも良い気がしてくる。身動きのしにくい体勢の今、朝に誤って自分の手を縛ってしまったときのことを思い出す。
「君、流れていきそうに思った」
流れていきそう。僕は意味がわからず訊き返す。絵里奈さんは頭を撫でていた手で僕の頰をつついて言う。
「根っこの切れた水草とか昆布とか。何かそんな感じ。そんな感じでちょっと」
絵里奈さんは言葉を切って天井を見上げ、そして再びいつもの調子に戻って舌を出して笑って言った。
「ちょっと繋いでおきたいって思った」
繋いでおきたい。言われて僕は室内を見回す。処理の終わった伝票の山と転がしたままの蛍光ペン。机に置いた原価計算表の束。今、僕はここに居場所があるのだろうか。僕を繋ぎ止めるものは何なのだろうか。
「君はペットだよ」
再び絵里奈さんは笑って僕の手を解放すると、あらためて一本ポッキーを取り出して僕にくわえさせ空になった箱を僕に振って笑った。
もう少しの間、絵里奈さんに餌付けされたいと思う。
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