文芸船

凍らない水

 岸田の目の前に立っていたのは、マクドナルドの接客マニュアルにそっくりな自信たっぷりの笑顔だった。

「一緒に環境のこと、考えてみませんか?」

 小さく首を傾けると、黒髪のロングヘアが肩筋を流れる。頰の線にはまだ十代の残滓が匂っていて、淡い青のブラウスが白い肌によく映えていた。しかし、腕の中に抱かれている「資源生態学」という分厚い書物は彼女を殊更に堅苦しく見せている。岸田は小さく呻いた。

 岸田が環境フェスタに来たのは偶然に見た新聞広告のせいだ。初めに思っていた通り、特に目新しいものもなかった。盛況なのは意外だったが、それも駅前という立地のお陰だろう。岸田は既に帰るつもりでいたのだ。だが、何の偶然かこの娘の目に止まったらしい。岸田は断りの言葉を探しつつ、彼女の真剣な眼差しには気持ちを揺すられた。就職して三年も経ったせいか、学生の熱中が懐かしかったのだ。試しに彼女が抱えている本について尋ねてみると、彼女は本を数頁捲って、実はまだ詳しくないの、と小さく舌を出してみせる。彼女は最初の笑顔に戻ると、会場の一隅を指差した。

「あちらにコーラありますけど、どうですか?」

 岸田は流されるようにうなずいてしまった。


 川原、と名乗った彼女は現在大学三年生で、調理学を勉強しているのだと語った。胸に抱えている本は教養科目の教科書で、専門に勉強しているというわけではないらしい。授業で行った食品添加物の実験をきっかけに環境サークルで活動しているのだという。社会人の方と一緒に活動しているんですよ、と彼女は自慢げに話した。二人の座っている休憩スペースの脇には、小学生が工作したペットボトルの風車が回っていた。反対側には蕾すらない、細長い葉だけの草がペットボトル製の鉢に生えている。実はアフリカ原産のケナフという草で、しばしば環境問題の教材として登場する植物だ。

「ペットボトルの再利用とか、こういう細かい活動が大切なんだ、って私も思ってるんです」

 彼女は誇らしげにペットボトル風車を指先で弾いた。風車はからから、と乾いた音を鳴らしながら回転する。と、隣のテーブルに座っていた親子連れが、紙コップを無造作にごみ箱へ放り込んだ。既にごみ箱は溢れる寸前だ。しかし間もなく会場係の女性が現れ、満杯のごみ袋の口を縛ると、真新しいごみ袋と交換して行った。

 ごみ多すぎるよな、と岸田が何気なく呟くと、川原は改めて会場を見回した。どのごみ箱もすぐ満杯になってしまうようだ。しかしどれも即座に新品のごみ袋と交換されている。岸田にはなぜかごみ係の目が奇妙に輝いているように思えた。

 川原は陰鬱な視線を岸田に向けた。意外と可愛いかもしれないと思う。だが岸田は川原から怪訝な視線を向けられた気がして、慌てて川原から目を逸らすと、ケナフの苗を持った主婦が目の前を通り過ぎた。アフリカから雑草を移入してくる意義について、また岸田はぼんやりと思ったが深く考えることはなかった。本当にこのフェスタが環境のためになっているのだろうか、と川原は真剣な面持ちで呟く。岸田はそれが世の中だろう、と苦笑しながらはぐらかした。川原は頰を膨らませると、大人の答えですよね、と軽く毒ついた。

 背中でフリーマーケット開始の放送が響いた。客たちが奥に移動を始める。誘導係もいないというのに、群集は次第に数本の歪んだ列へと変形していった。同じ速度で進むその様子は、どこか川水の流れを連想させた。

 岸田が列の最後尾を指差すと、川原は首を振って席を立った。時計を見ると既に一時間も回っている。川原は会ったときと同じ笑みで、本と一緒に抱えていたバッグから名刺大の紙片をつまみ出した。紙には「エコ・フラワー」という喫茶店の住所が書いてある。いつもここでサークルの打ち合わせや勉強会をしているのだと言う。彼女は当然の顔で、次回にまた、と言って微笑む。岸田はまた、何となくうなずいていた。


 自宅に帰った岸田は、大学時代の教科書を詰め込んだ段ボール箱を引っ張りだした。箱を開けると、懐かしい表紙が並んでいる。環境関係の本は「環境生態学」という、興味本位で買った本だけだ。学生時代は環境団体の真面目くさった雰囲気を避けていたような気がする。

 だが、子供じみた反発のみが避けていた理由だったのだろうか。いや、今は単に川原の笑顔に負けているだけのことなのかもしれない。岸田は苦笑しかかって、大学時代に気になった女子学生のことをふと思い出した。

 岸田が大学に入学したのは、Windows95に人々が群がりビル・ゲイツの個人資産が国家規模に膨れ上がったあの年だ。それなのに、岸田の入学した大学には当時もまだ学生運動の残滓が細々と生き残っていた。そんな中にいた一人の女子学生に岸田は惹かれた。化粧っ気のない上気した頰と小柄な体格のせいか、三年生のはずなのに岸田よりも幾分年下にさえ見えた。彼女は身長ほどもあるペンキ塗りの立看板を背中に立ち、リソグラフ刷りの手書きのビラを配りながら、反原発とブルジョワジーとの闘争を拡声器で叫んでいた。

 岸田がブルジョワジーという言葉を耳にしたこと自体、これが初めてだった。運動家の彼女とは何度か言葉を交わした。とは言え、彼らの思想に共鳴したことは全くなかった。話してみる気になったのは、彼女のショートヘアから覗いていた、ハート型のピアスに惹かれたせいだったように思う。

 彼女の台詞には闘争、団結、市民といった型通りの言葉が踊っていた。当局という耳慣れない言葉に、革命という言葉は既に死語だと確信した。革命家など、テレビの水戸黄門と大して変わらないと思った。実際に友人は、彼女らを絶滅危惧種指定だと揶揄していた。

 だが今、運動家の子と川原の印象はあまりに対照的な一方で、妙に似通っている気もした。なぜ彼女たちに惹かれるのだろう、自分に問いかけてみる。例えばグラビアモデルに対する憧憬と同質のものなのだろうか。それとも、彼女らのひたむきさに捉えられてしまうのだろうか。岸田には、どうにも解けそうにない難問に思えた。彼は環境生態学の本を掴むと、序文を開いてみた。そのうち、読み直してみようと思う。


 「エコ・フラワー」は百メートル先からでも簡単に見つけられる店だった。というのも、店は花を意識しているらしく建物全面を薄紅色に塗りたてていたのだ。扉に手を掛け、それでも岸田は躊躇した。この扉を開けて大丈夫なのだろうか、岸田は再度自問してみる。だが、岸田はその最後の選択を自分では行えなかった。

「こんにちは。すぐわかりました?」

 扉を開けた川原が中から手招きしていた。岸田は見えない程度に軽く肩をすくめて、川原の背中に続いた。奥には四人掛けの席を二つ繋げて八人用にした席があり、二十代後半から三十代初めに見える女性が三人と、五十代の男性が一人、真面目な顔で座っていた。

 川原が四人の前に立ち、昨日話してあった人だよ、と岸田を紹介して、彼に自分の向かいの席を勧めた。岸田は席につきながら残りの四人を見回した。女性の三人はジーンズにトレーナーという愛想のない身なりだ。一方で、五十代の男性は白髪混じりの顎鬚を生やしており、頭にはバンダナを巻いている。ログハウス風の喫茶店にいる趣味人のマスター、そんな雰囲気の男だ。五十代の男性が立ち上がった。

「気楽にして下さい。このグループは厳しさよりも優しさを、がモットーですから」

 言って彼は松永だ、と名乗った。松永の言う通り、川原の態度を見てもあまり厳しさは見えないように思う。だがその一方で、岸田は遠い親戚の家を初めて訪れたときのような、妙な居心地の悪さを感じた。ここは何処なのだろう。ここは俺が居ても良い場所なのだろうか。

 と、川原が喫茶メニューを差し出した。

「あの、注文しないとならないから」

 岸田は我に返った。喫茶店に来て注文するのは当然の話だ。岸田は逃れるようにメニューのリストへ目を走らせた。もちろん、環境の話をする会場だからといって特別なメニューがあるわけでもなかった。強いて言えば、ロシアンティーがある辺りが意外なところか。岸田はロシアンティーを注文すると、再び周囲に目を配った。

 松永は机上の分厚い本に右手を置いた。「奪われし未来」という黒い太字が胎児のカラー写真を取り囲むように配置されている。彼にとっては聖書なのだろうか。松永はバリトンの声で、水質や食品添加物の話をメモも見ずに話し始めた。話の展開からみても、彼が真面目な勉強家であることは疑いようがない。しかし、環境や自然を語る松永の正しさからはむしろ、人工的な匂いを拭えない。岸田は内心、自分の天邪鬼さに苦笑した。

 ふと顔を上げると、川原と目があった。彼女は小さく微笑み、すぐに松永へ視線を戻した。岸田は真面目な娘だ、と思いかけ、彼女がずっとシャープペンシルを指先で回し続けていることに気づいた。岸田もシャープペンシルを回してみると、再び川原が岸田に視線を向けた。彼女は声を出さずに笑い、またすぐに松永の方に姿勢を正す。岸田は川原に対して共犯者への安堵を感じた。松永は一息つくと、話をまとめるように言った。

「現代の環境問題とは、地球全体をいわば実験用のモルモットとして扱っている、そういう状況なのです」

 彼は満足そうに全員の顔を見回す。お芝居で自分の台詞を上手く言えた小学生のようだと岸田は思った。続けて岸田に対する歓迎の言葉が定番の形で再び述べられ、松永の話がやっと締め括られた。再び全員の目が岸田に集中した。岸田は視線をさ迷わせ、結局は川原に目を向ける。彼女は小さく横に首を傾げ微笑むだけだ。岸田は全員の顔を一通り眺めてから、よろしくお願いします、とだけ早口で答えた。


 会合が終わった後、岸田は川原に声をかけた。彼女は財布の中身を確認すると、ミスタードーナッツの看板を指差した。岸田は一瞬戸惑い、改めてうなずいた。中に入ると、大部分の客は女性で占められていた。岸田自身も、この店に男の友人連れで入ることは滅多にない。とくに断り書きがあるわけでもないのだが、女性向けの店、という印象が岸田の中にはあるのだ。だが、川原はそんなことは全く意に介さない様子で、ドーナッツを二個とアイスティーを注文した。岸田は適当にブラックコーヒーだけを頼み、一番奥の席についた。

 黙っていると、川原の視線が岸田の足に向いていた。自分で気づかないうちに貧乏ゆすりをしていたらしい。ミスタードーナッツだけは普段あまり来ないのだと弁明すると、川原はアイスティーを口に含んだまま笑った。彼女は岸田がさっきロシアンティーを頼んだのを見て、女性の多い店でも大丈夫だろうと思ったのだという。

 川原は再びアイスティーを口に含むと、喉を通っていくのが岸田の目でもわかるほどゆっくりと飲み、松永のことをどう思うか、と前置きもなく訊いた。唐突な問いに岸田は戸惑う。その様子を見て取ったのか、川原は少し声を低めながら、付け加えるように言った。

「松永さんって知識多いって私も思うんです。でもなんていうか、独特なとこ、あるでしょ?」

 彼女も松永に対しては多少、違和感を抱いているらしい。岸田は慎重に様子を窺いつつ、ちょっと変わった人みたいだよね、と答えておく。川原はゆっくりうなずきながら小さな声で、でもいい人だとは思う、と返した。川原から視線を逸らすと、コーヒーを口に含んだ。何となく薄い気がする。口を苦味で満たしたいと思う。松永、と口の中で名前を転がしてみる。彼の情熱を思い出すだけでも、その暑苦しさも戻ってくるように思う。

 川原はふと顔をあげた。先ほどよりずっと幼げな、学生が飲み会を思いついたときのような表情だ。彼女は全く興味本位な声で、岸田の大学時代にやっていた勉強の内容を尋ねた。岸田は答えかけ、自分の専攻が素人にはなかなか説明しにくいものだったことを思い出した。彼は水分子の物理、とだけ答えておく。川原は眉を顰め、難しそう、と呟いて黙り込んだ。岸田は自分の返事を後悔したが、改めて振る話題すら思い浮かばなかった。

 しかし、川原は突然思い出したように鞄の中を探って一冊の本を取り出した。岸田と初めて会ったときにも抱えていた、資源生態学の本だ。彼女は本の中ほどを開いて、一枚のグラフの載った頁をテーブル上に広げた。右の上端には水産資源と題が書かれている。

 図中では二本の線が原点から延びており、一方は正比例の直線、もう一方は中ほどに頂点を持つドーム型の曲線で、各々が互いに一点で交差している。この図は親魚の量と子魚の量の関係を示しており、適切な漁獲量を求める上で基礎となるグラフなのだという。

 これがどうしたというのか。岸田の疑問に、川原は唇を噛み、人間ではどうなのでしょう、と呟く。次いで軽く深呼吸をし、真っ直ぐ岸田を見つめながら言った。

「喪失しても困らない、大人の数を決めるんです」

 岸田はなぜか、川原の言葉には不気味さはもちろん奇異にすら思わなかった。グラフという一見、客観的なものを提示されたからなのだろうか。それとも。考えを進めている途中で、再び川原が口を開いた。

「人間も生物ですよね。なら、結局のところ、絶滅しないように上手く生存さえ出来ればいいんでしょ?」

 いいのかそれで。そう言いかけ、岸田は途中で言葉を飲み込んだ。ただの常識じみた言葉が、今この場にはあまりにも不釣合いに思えたのだ。安易な良識に囚われた言葉はむしろ、不謹慎さすら感じた。

 アイスティーのグラスが汗をかいていた。グラスの根元に結露した水が小さな水溜りを作っている。川原はその水を指でつつきながら言葉を続けた。

「就職本読んでたら『人的資源』って言葉、偶然に見つけちゃったんですよ。もちろん、これと全く違う意味だってことわかってます。わかってますけど、でも」

 彼女の本でいう資源とは水産資源であり、魚の側から見れば死んで良い資源量だ。だが人的資源とは使える資源、つまり必要な人材、という奴だ。これでは全くの逆ではないのか。だが、岸田は彼女に共鳴した。直感は同じ意味だと告げていた。俺たちはただ、総資源量の一部分にしか過ぎない。その感覚は全く同等なものだ。

「私って獲られちゃってもいい資源なのかな、なんて変なこと考えちゃうんですよ、ときどき」

 川原は無理な笑顔を浮かべて言い、ふっと小さな溜息を漏らした。岸田は肩をすくめ、砂糖を入れていないにもかかわらず、コーヒーをスプーンで掻き回した。

 岸田は松永のことを考えた。彼は自分自身をやたらと重要な存在だと考えていたように思った。それが川原も感じている松永への違和感なのだろうか。そういえば、大学で政治運動をしていた女子学生の自信は、松永のそれとも似通っていた気がする。いずれにしろ彼らのような存在は、岸田にとって理解の外にあるようだった。

 川原は再び溜息をついて、資源生態学の本を鞄の奥にしまい込んだ。壁の時計に目を向けると、店に入ってから一時間半以上も経過していた。二人は席を立ち、軽い挨拶のみを交わして別々の帰路についた。


 環境サークルの会合から三日後、高校時代の友人からメールが届いた。送信元の金子は高校卒業後に芸術系の専門学校へ進学し、今は近郊でデザイン関係の仕事をしているらしい。まあ、デザインと言っても大げさなものではなく、スーパーの特売チラシなどが中心なのだが。

 題名は「招待状(転送)」となっている。誰かからのメールを転送してきたものらしい。金子は冗談が好きな男で、面白い話やジョークメールを入手しては転送してくるのだ。岸田はメールの本文に目を走らせた。

 こちらのメールを受け取った皆様は、全き自由な人間として選ばれた方々です。おめでとうございます。以下に本集会「土方の茶碗ツアー」の手順を説明致します。

 決行日の正午、五稜郭前から丸井今井本町店へ徒歩で進行して下さい。到着しましたら、食器コーナーで「土方歳三が使う茶碗」をお買い求め下さい。こちらの商品は実際には存在しませんので、店員に断られた時点で現地解散となります。なお、知人の方が本集会に参加していたとしても挨拶を含む一切の交流は避けて下さい。なお、本集会は「無趣旨」を基礎とした全き自由を得る活動であり、政治的・宗教的その他あらゆる主張は存在致しません。お誘い合わせの上、多数ご参加下さい。

 金子からのメールだという点を割り引いたとしても、あまりに奇妙な内容だ。何が冗談なのかすら理解できない代物だ。だが、何回読み直しても間違いはなかった。岸田は発信元を確認し、金子に電話することにした。

 呼び出し音が四回鳴ったところで、金子の眠そうな声が電話口から聞こえた。岸田が挨拶もせずにメールの件を尋ねると、金子は笑ってモブだよ、と言う。最近アメリカで流行っている集会で、彼の言うには現代アートの一種だそうだ。金子は軽い調子で言った。

『参加するアートだよ。とりあえず行ってみようぜ』

 岸田は金子のにたついた顔を思い出し、いかにもこの男らしい考えだと思う。それと同時に、モブに対して強い好奇心が湧いていることも事実だった。自由な人間。なかなか魅力的な言い回しではないか。金子は大声で笑いながら、俺は参加するに決まってるがな、と言い切ると、いつも通り一方的に電話を切ってしまった。

 岸田は決行日と壁のカレンダーを見比べた。行かないと決めるまでには、まだ日数に余裕があるようだ。もちろん、行くと決めるまでにも。


 道立美術館前はコンサート開始前のような人だかりが出来ていた。まさかここまでの人数が集まるとは岸田も予想してはいなかった。集合時間の三十分前まで悩んだ末、岸田は結局モブの集合場所に来てしまったのだ。

 集まっている人間は若者が多いようだが、中年の男性や主婦らしき人も混じっている。服装を比べても、濃紺のスーツを纏った堅物からトランクスがはみ出て見えそうなHip Hop系まで様々だった。共通している点と言えば、互いに無視しあっているくせに周りを盛んに観察しているという点ぐらいなものだろう。資格試験会場の方が、むじろ状況は似ていたかもしれない。

 時計が正午を指した。道路に出ていた一群が動き出した。導かれるように直後の人間たちも歩み始める。動きは次第に全体へ伝播し、岸田も周囲に合わせて歩き始めた。もう一度見回したが、自分たちを指揮したり管理したりする、係員のような人間の姿は全く見当たらなかった。誰もが皆、勝手に集まったとしか見えなかった。

 角を曲がると目標の丸井今井が遠く正面に見えた。目の前に延びる一本の坂を上れば目標に辿り着く。群集は僅かに速度を緩めながら坂道を登り始めた。岸田は並走する車道から視線を感じたが、全く瑣末なことにしか思えなかった。そして、この気分は群集の全員に該当する事実なのだと、岸田は何故か明瞭に確信していた。丸井今井の玄関をくぐる。先頭は階段を選んだ。後続もそれに続く。階段をゆっくりと登っていく。年輩者が次第に遅れがちになるが、黙って追い越していく。もう一段、もう一段と目標へ近づいていく。

 と、目の隅に何かが引っかかった。見覚えのあるバンダナがすぐ後ろで荒い呼吸をしている。松永だ。松永は真っ直ぐ正面を睨み階段を登っていた。岸田には気づかないようだ。岸田は慌てて数人を追い越し、再び背後の松永を盗み見た。今は彼も、この群集の中に馴染んでいた。松永の個性もここでは浮き上がりはしなかった。いや、そもそも目立つものなどこの中に存在しなかった。この群集は、その多様さ故に全ての個性を飲み込むだけだった。群集にとって異物など存在せず、ただ膨張か縮小以外の何の作用も備えてはいないようだった。

 既に食器コーナーは目の前だった。向こうで引きつった顔の店員が何事か叫んでいる。岸田は前に出た。怯えたパート従業員が目の前に立っている。岸田の唇は意識もせず、自動的に既定通りの台詞を紡ぎだした。

「土方歳三が使う茶碗、お願いします」

「そんなもの、ありませんったら!」

 笑おうとした。だが何の表情も浮かべられなかった。足は真っ直ぐ帰路の階段に向かった。目の前には茶碗を頼み終わった一群が店外へと歩み始めている。岸田はその群集の中へ混合すると、再び流れ始めた。

 視線を感じた。川原が食器コーナーへと流れながら岸田を凝視していた。川原の唇が小さく動きかける。だが、岸田は視線を外した。自分たちは見知らぬ仲間なのだ。岸田と川原の流れはすれ違い、距離を広げた。川原の視線が追いつかなくなる。岸田は速度を一段と速めた。店の玄関口に赤色灯が見える。だが、警官はただ立っているばかりだった。目の前に広がる光景は、土方歳三の茶碗を求める以外に何の特徴もない単なる群集に過ぎないのだ。群集は衝突も起こさずに店外へと流出した。岸田は横断歩道を渡ると、振り返って店舗を眺めた。店舗から流出した群集が平凡な歩行者へ変貌する瞬間を彼は目にした。松永のバンダナも発見したが、彼への反発心すら浮かばない。招待状を回してくれた金子の姿も見た気もしたが、本当にそれが金子だったのか確証は持てなかった。改めて企画者の姿も探したが、それらしき気配を感じ取ることすら最後まで出来なかった。岸田は深呼吸し、真っ直ぐに帰宅した。


 土方の集会から数日後、岸田の元に川原からメールが届いた。ドーナッツに付き合わないか、という誘いだ。岸田は短く了解の返信メールを送ってから家を出た。ミスタードーナッツは丸井の向かいにある。丸井今井の前を通ると、普段通りのショーウィンドウと玄関だった。先日の集会が幻だったように何の痕跡もない。店舗の玄関前には、既に川原が待っていた。軽く右手を上げると、川原は両手を胸の辺りで小さく振って応えた。だが、どことなく硬い表情をしている。

 向かい合うと、川原はいつもと違ってぎこちない挨拶をした。つられるように岸田も堅苦しく頭を下げてしまう。岸田はすぐに目を逸らすと、黙ったまま川原を店内へ導いた。岸田はとりあえずコーヒーを飲んだ。話の端緒が思いつかない。今日だけは煙草を吸う人が羨ましく思える。

 沈黙の中、川原は凝固した笑顔を浮かべた。岸田も合わせて笑顔を返すと、やっと川原が口を開いた。

「岸田さんもモブに参加してましたよね。どうでした? あれ。なんか松永さんも参加してたみたいですけど」

 岸田はああ、と曖昧な答えを返した。岸田にとって、未だモブは不定形のままでしかないのだから。すると川原は何となく怖い、と呟いて岸田の言葉を待つ。岸田は天井を睨み、少し間を置いて言葉を発した。

「松永さんでもさ、あの中に入ると意外に平凡だよ」

 言ってから岸田は後悔した。話題が既に深みへ入っていこうとしている。だが川原は真っ直ぐ、なぜ松永を平凡に感じたのだろう、と問いかけてきた。なぜだろう、岸田は自問する。いや、実は松永は意外なほど、凡庸な人物なのではないのか。ただ外見や話し方に惑わされていただけのことではなかったか。

 川原も同様のことを考えているようだった。岸田が考えていたことを話すと、川原はうなずいて答えた。

「実際のところ、違うっていうか、型通りじゃないっていうか、そんな人って本当にいるんでしょうか」

 川原の言葉で瞬間、岸田の目の前にモブの帰りに見た光景が広がった。過剰に多様な人間が集まった、全き没個性の群集。それは鰯や水牛の群れと同じ群集と変わらなかった。そして、松永も岸田も川原もその群集の一点に過ぎなかったのだ。もし、政治運動の娘が当時のままで混じったとしても飲み込まれてしまっただろう。

 群集は留まることなく動いていた。岸田自身、企画者の姿を探したりもした。だがその行動は、限られた範囲に過ぎなかった。土方の茶碗を求めるという規定された挙動は、遂行する他に術はなかったのだ。自由参加、という文脈では幾らでも叛逆の機会は与えられていた。実際、叛逆は物理的には可能だった。だが、その枢要な基点に限って言えば、全く従順になる他なかったのだ。

「私たち、自由なつもりで捕まっていたんですね」

 たしかに、モブに招待されなかった人は常識の枠内に留まる他はなかった。そのため、自分たちが特権的に自由な人間になった気分になった。だが、それは幻影だ。岸田は大学時代の研究を思い出した。彼は不凍水と呼ばれる束縛された水分子を調べていたからだ。

 タンパク質分子のごく近傍に存在する水分子は、タンパク質との間に相互作用が働くため、マイナス十度以下になってもなお、凍結することなくある程度は自由に動き回ることが出来る。その代わり、この不凍水はタンパク質分子の影響下から逃れられない。否、その束縛こそが、彼らの自由を保障する本質そのものなのだ。

 私たちもね、と川原は呟く。とはいえ、全く動けないよりはましではないだろうか。川原の問いに、岸田は手元のナプキンに結晶格子の図を描き、氷点下の氷は全て等しいと思うか、と逆に問いかけた。川原は黙って首を傾げる。岸田は哂って、動くんだよ、と言った。

「凍結しても水分子はその場で振動してるんだ」

 一定の間隔で小刻みに震えている水分子を二人は想像した。次いで、タンパク質分子に繋がれた水分子も目に浮かぶ。檻の中で震える水分子と、強大な力で繋がれた水分子。いったい、どちらが自由だと言えるだろうか。

 岸田はふと、「環境汚染は人類を対象とした実験だ」という松永の言葉を思い出した。人間が人間を実験に供するという現況は或る一面、人間が自由な存在である証左であろう。しかし、その自由すらもまた結局は、結晶格子の枠内に限られた微小な振動に過ぎないのかもしれない。否、彼の言う「実験」は、互いに相手を実験しあうという相互作用の中でのみ継続されるのだ。ここに見出せる構造は、明らかに結晶格子のそれと相似形だ。岸田はモブの光景を再び思い出した。あの日、自分たちは自由を求めながら、自らをモブへ繋いでいたのだ。そこにあったのは、変質した目新しい束縛に過ぎない。

「所詮、俺たちは凍らない水に過ぎないんだ」

 氷が硬く鳴った。玄関に繋がれた群集が押しかける。

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