「優奈ったらまだそんな古いガラケー使ってるんだ」
留美は私の携帯電話を覗き込んで呆れたように言った。でも私はいつものように答える。
「私、使い馴れてるから変えたくないんだ」
「でもさあ、それって結構傷だらけでしょ。今さ、スマホのキャンペーンとかでほとんど本体無料だよ?」
留美の喋りがうざったくって、私は冷たく答えた。
「留美、携帯のショップにでも就職したら?」
留美の台詞を私は手を振って遮り、私はこれで満足している、と言い切った。留美は顔をしかめる。少しきつく言い過ぎてしまったかもしれない。とは言え、これ以上の余計なお節介には耐えられなくて、私は席を立つと廊下の踊り場へ逃げた。
壁に顔を向けると、受信メール一覧を開ける。沢山並んだメールをスクロールさせて最後のメールに辿り着く。
「保護」の設定をしてあるメール。ちょっと迷って開ける。
『俺、すっげー疲れた。でもお前は頑張れよ』
もう再び届くことのない、俊介からの最後のメール。でも、機種交換ではこのメールを受けたときの熱気のような何かが喪われてしまう気がする。だから。私は機種交換はしない。
「浩一。何いじってんの!」
部屋に投げ出してあった携帯を中学生の弟が開いていた。奴は慌てて机の上に置く。
「知らんぷりしたって駄目だよ。こら、何やってたの!」
「だって母さんの長電話が終わんねえんだもん。明日の宿題の範囲忘れちまってさあ、電話で聞いてたんだ」
「ならね、習った範囲全部やっちゃえば良いでしょ。そうすれば少なくとも先生には怒られないで済むよ」
「冗談じゃねえや。毎日こつこつが俺のやり方なんだよ」
ふてくされた浩一の頭を軽く叩き、私は携帯を手の中に取り戻した。すると浩一は冷たい視線で言う。
「姉ちゃんさ、俊介さんの番号、まだ消してないんだ」
「何よ。何か問題あんの?」
「いや。でもそんなの登録してたって邪魔じゃん」
この言葉に、私は冷静さを吹き飛ばした。携帯を握っていない右手が、痛いほどの握り拳になる。
「ぶつよあんた。グーで殴るぞ、浩一!」
浩一は慌てて私から飛び退くと、それでも言葉を重ねた。
「だから嫌なんだよ。姉ちゃん俊介さんのことになるとおかしくなるから、だから嫌なんだよ!」
「あんたがデリカシーのないこと言うからでしょ。弟なら少しぐらいわかりなよ!」
「弟だから姉ちゃんのこと心配してんだろ、このバカ姉!」
部屋を飛び出した浩一の背中を見ながら、言い過ぎた自分に嫌悪感を思う。いつもなら嫌なほど冷静で、その気になれば学校でも熟でも習っていない範囲でも簡単にできる優秀な弟。そんな浩一がここまで感情的になったのは本当に久しぶりだと思う。それほどまで私は心配をかけているのだろうか。
ただメモリ登録を消せないだけで。
ただメールを削除できないだけで。
ただ、彼を忘れられないだけで。
かすかに目の端が滲んでいた。涙を手で拭ってからゆっくりと顔を上げると、いつのまにか浩一が戻ってきていた。
「母さんさ、姉ちゃんに料理の手伝いさせないだろ」
首をかしげると、浩一は溜息をついて言った。
「不安なんだよ、刃物持たせたら何かするんじゃないか、って。俺だってときどき、姉ちゃんがいなくなりそうな気がする。吹っ切ってくんねえと、まともに姉弟喧嘩もできねえだろ」
やっと浩一は無理に悪戯っぽく笑い、そして私の部屋から出ていった。でも私は今でも俊介のこと、後悔してる。負い目がある。
もしあの日、お風呂に入るからって電源さえ切っていなかったら、俊介を助けてあげられたかもしれないのに。
俊介がまだ、そばにいてくれたのに。
逝ってしまわなかったのに。
遠い遠い、電波も届かない遠くにいるあなただから。
それでも消せない、あなたからの着信メール。あなたのアドレス。
メタルブルーの携帯ボディは、もうあなたへの。
あなたへの言葉は運べない。
そんなことわかってるけど。
「あいつも弱っちいんだもんな」
「って言うか、俺たちって信用なかったのかな。わかんねえよ」
「わかっちまったら俺たちも同じ世界の住人だぜ」
「怖いこと言うんじゃねえよ」
お通夜の外で交わされた、俊介の学校の友人たちのだらけた会話。そのうち、彼らの一人が携帯を取り出して言った。
「もういらねえよな、この番号」
ボタンを何個か押す。それを覗き込んだ一人が顔をしかめた。
「お前、もう消しちまったのか?」
「だって何だかあの世から電話かかってきそうじゃん」
「うっわあオカルト。稲川淳二のアップが出てきそうだな」
こんなことを言い合って、その場にいた他の連中も一斉に携帯を取り出すと俊介のメモリを消していった。
俊介を消していった。
だから。私だけでも番号を消しちゃいけない、そんなことを決心してしまったのだ。古ぼけた携帯に彼からの必死の叫びを閉じ込めてあげたい、そんなことを思ったのだ。
彼が海に飛び込んだ日の最後のメール。もし気づいていたなら助けてあげられたのかもしれない。止められたのかもしれない。
だから、私は俊介を見殺しにしたようなものだ。
「これ、ダウンロードしちゃった。前に優奈、結構好きだったんじゃない?」
留美の携帯から、私が俊介専用で使っていた着うたと同じ曲が流れた。ただし留美は音楽データを購入したらしく、着うたと違ってリアルな音質だ。留美は迷惑を気にしない奴で、携帯型のスピーカーで好きな曲を昼休みにかけていることがよくある。
「優奈も機種更新したら。ちょっと前まで鳴らしてたじゃない。相手は誰だか教えてくれなかったけどさあ」
私は留美の悪戯っぽい視線から目を逸らして、俊介のことに触れずに済むように話をすり替えた。
「留美がそうやって曲を垂れ流したら、私の着信か留美のかけてた音楽かわかんなくなるじゃん」
「あー、大丈夫。優奈ってバイブ派じゃん」
「『ナントカ派』ってさあ、どっかのおバカな政治家みたい」
「優奈ってちょっとおっさん入ってない?」
「まあ、時代はボーダーレスってやつよ」
「優奈ちゃんは難しい言葉使うね。おまけにちょっとおっさん」
留美はにひひ、と笑う。留美は少しでも真面目な話題になるとすぐに逃げ出してしまう。一方の私は時折硬い話をしたくなる。そんな私を俊介は「かわいい政治評論家」と言っていた。
でも、今はもうこんな風に私を受け入れてくれる人はいない。だから私は何となく携帯を開いて俊介の電話番号を選んだ。でも返ってくるのは「現在、この電話は使われておりません」という無機質な声だけだった。
当然、かかるわけがないのだ。俊介の実家がとっくに解約してしまっているのだから。私は笑って携帯を閉じた。留美が誰に電話したか訊いてきたので、私はなかなか出ない奴だと曖昧に言って誤魔化した。だが事情を知らない留美はさらに訊いてくる。
「んっんっんっ、何だか怪しいなあ」
「あんたの言い方が一番アヤシイ」
留美は快活に笑う。私も一緒に笑いながらふと思った。
「ねえ、メールって保存しておく?」
「私は片っ端から消しちゃうんだよね。ずらずら並んでるの見ると邪魔くさくって。どうせちょっとしたお喋りじゃん。こうやって話した中身、録音しておかないのと一緒よ」
留美は大切な思い出とか、そんなことを考えないのだろうか。私の胡乱な視線に、留美は少し真面目な調子で続けた。
「だから、お喋りと一緒だって。ここでもし優奈が転校するって言ったってさ、今このお喋りとかさ、この空気とか。憶えてるんなら良い友情だと思う。これが留美ちゃんの友情論だね」
留美の言葉に私は唇を噛んだ。そう。私は憶えてる。もし携帯がなくなっても、俊介のことは忘れたりはしない。と言うより、忘れちゃいけない。なのに、私はその義務をずっと携帯に預けていたのかもしれない。携帯に入っているから、私は忘れないだなんて。俊介のことをただのメモ扱いしていたのかもしれない。
俊介の最後のメッセージ。何に疲れたのか、私にもわからない。きっと最後まで誰もわからないんだと思う。でも、私がこんな風じゃ、俊介は天国でも気が休まらないに決まってる。こんなことを思うと私は急に恥ずかしくなった。
そして、私は俊介からのメールを削除した。
おやすみ、俊介。
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