文芸船

遠いカーテンコール(後編)

「こんなもんかな」

 美枝先輩は昔懐かしのチューブ入りデンプン糊を水で薄く溶いた。言われて触ってみるとほんの少し粘つく程度だ。

「新聞紙で作った頭に半紙をこの糊で貼っていくの。硬い糊とか、ましてビニール糊とかは駄目だからね」

 美枝先輩は物づくりに厳しい人なのだ。でも、おかげで新聞紙で頭を作るまでは簡単にできた。頭の作り方は、まず新聞紙を適当に破ってからくしゃくしゃに丸めて柔らかくする。次に白段ボールで指を入れる筒を作る。そしてその筒に普通の糊で新聞紙をくっつけていき、少しずつ丸く頭の形にしていく。

 耳は白ボール紙を扇形に切り、それを折って新聞紙で作った頭に張り付けた。手の方は白ボール紙で指を入れる筒を作り、手の形に切った白ボール紙をとりつける。これだけでも一応は猫っぽくなってきた。

 続けて習字用の半紙で手のひらの真ん中に納まるくらいの紙切れをたくさん作った。そして新聞紙の上に、違いがなるべく重ならないようぺたぺた貼っていく。

「でたらめに貼らない。ちゃんと順番考えないと後で困るでしょ。ごめんねー猫ちゃん」

 美枝先輩は、私が適当に貼った半紙を剝がして別なところに貼り直した。そっか。いい加減な作り方をしたら人形がかわいそうか。

 美枝先輩の手つきは本当に優しい。人形の形になる前からいたわる感じ。そんな先輩の手を見ていると私まで優しい気分になる。でも現実の私はずぶの素人。注意しているつもりでも失敗ばかりだ。しわがあるとか糊を付けすぎだとか随分と叱られた。でも。

「できたあ!」

 真っ白なトラ二つ、ちょっと曲がり気味の猫一つ、計三つの頭が並んでいた。

「今日はここまで。明日の夕方には糊も乾くはずだから明日からは着色よ」

 私が脳天気に思いっきり返事すると、美枝先輩はちょっと意地悪な顔で付け足す。

「着色はやり直しきかないからね」

 張り切っていた声が下がってしまう。そんな私の態度を見て美枝先輩は吹き出した。

「そんなに笑わなくても」

「ごめん。でも似ているんだ、去年の私に」

 聞き返すと美枝先輩は優しい顔で答えた。

「私も渚先輩には叱られたの。最初っからやり直しなんて言われたの私だけだよ」

 美枝先輩の言葉に私も少し気が楽になる。

「渚先輩はすごすぎるんだよね。一人で何でもできちゃうんだもん。どんなアクシデントが起きても平気で舞台まとめちゃうし」

 美枝先輩は形の良い鼻を少しひくつかせていったん言葉を切り、再び話し始めた。

「山岡さんって留年生で、本当は渚先輩や大川先輩の同期なんだ。で、初舞台で子どもが騒いちゃって大変になりかかったんだって」

 あの少し恐い人もそんな時代があるんだ。

「渚先輩が人形で割り込んで、次の場面につながるような寸劇やっちゃったの。両手で二体を動かして、足で脚本の切り替わるとこ指示して。神様みたい、あの人」

 引っ込んだらここから始めろ、とか足で合図でもしたのだろうか。あれこれ想像していると美枝先輩は肩をすくめて続けた。

「でもね、固すぎるんだよあの人。妥協してくれなきゃ『ワン助とチュー太』の脚本を引き継ぐ人なんているはずがないわ」

「そう、ですか?」

 私の返事に美枝先輩は頰をひきつらせた。言い過ぎた、そんな表情が見える。

「あ、あのさ、今の話はオフレコね?ね?」

 肩に手をかけて軽く揺さぶる美枝先輩に、私は平板な声ではい、と答えた。彼女はそそくさと荷物をまとめて立ち上がる。

「じゃ、私は帰る。バイトあるし」

 私も、お疲れさまでした、とだけ答えて作業台に戻った。美枝先輩には思っていたのと違う面があるらしい。


「さあ着色、着色!」

 恐怖の着色だ。失敗は許されません、だもの。気を引き締めていかなくっちゃ。

「不透明水彩、要は小学校で使う絵の具。あれで色を付けて最後にラッカーかけるから」

 美枝先輩は小中学校で使うようなパレットと絵筆を取りだした。ここからは私の頼りない感性がものを言う。

 そっと、ゆっくり描く。表面はでこぼこで紙は半紙だから乱暴には塗られない。それでも次第に猫になってくる。三毛猫。いたずらしてエメラルドの瞳にしてみる。

「あ、かわいいねえ」

 美枝先輩は早々と一体目のトラを塗り終えて、私の猫を覗き込んだ。私は慌てて袖で隠し気味にする。

「恥ずかしがったって仕方ないのに。でもほんと、うまいよ。大道具づくりも平気ね」

 美枝先輩は満足そうにしてもう一体の方にとりかかった。結局、美枝先輩が二体とも仕上げた時点で私の猫一体が仕上がった。

「あとは服を縫うよ。大丈夫。そんな立派なもんじゃないけど。ミシンもあるし」

 美枝先輩は小型のミシンを机の上にどっ、と置いて布をばささっ、と広げると人形の顔と色合わせをする。しばらく時間をかけて布を選び、型紙の通りに切っていく。手と首を入れる三個の穴が空いた布袋が服だった。

「あとはこの穴に首、手を入れて縫いつけしてでき上がり。これだけは大川先輩とかの方がいいんだけど。ま、やってみればわかる」

 やってみて意味がわかった。だって硬い紙と布を縫いつけるわけで、針を刺すだけで一苦労だった。これだけは美枝先輩もうめきながらやっていた。それでも。

「ほい、完成!」

 新品の人形に指を入れて動かしてみた。生まれて初めてのごあいさつ。人形が動いている。私が作った人形がほんとに動いていた。

 私が自慢げに見せつけると、大川先輩は人形の頭をなでてくれた。そしてふと訊いた。

「こいつの名前は?」

 私は胸を張って考えていた名前を答えた。

「ミャオ、です」

「ミャオか。よし、明日から一緒に演技の練習するか」

 大川先輩の言葉に私が歓声を上げると、大川先輩は当然そうな口振りで答えてくれる。

「基礎ができなきゃ演技もないだろ。それに渚がこもったんだから、急がないと台本に間にあわなくなる」

「いきなり役をもらえるんですか?」

「そうじゃなかったら脚本にかかったりしないよ。昨日だって図書館で書いてたからな」

「うわあ、お礼に行こうかな」

 私はちょっと気が引けて本気で呟いた。すると美枝、大川両先輩は二人して首を振る。

「それだけはやめとけ。あいつ脚本書いてるの邪魔するとめちゃくちゃ怒るから」

「そんな邪魔なんて」

 美枝先輩は私の言葉を強い声で遮った。

「あのね、大川先輩が差し入れしたとき、追い返されたんですって。ものすごい剣幕で」

 渚先輩が理不尽を言うようには思えないけど。でも大川先輩は軽い調子で言い継いだ。

「放っておけって。渚が戻ったとき、ここまで成長しましたってのを見せつけろよ」

 確かにそういうのも面白そうな気もする。

「そうですね。頑張ります!」

 私は大川先輩の言葉に応えた。そうだ。渚先輩をびっくりさせてあげたい。後継者候補って言ってくれたし。

 でも妙な気もした。この二人の先輩、渚先輩のこと、本当はどう思ってるのかなって。


「泣いているの? 怒っているの?」

 容赦なく降りかかる侮辱的な声。さすが大川先輩は渚先輩が劇団の看板を上げたときからやっている人だ。ちょっとしたことも見逃さない。でもそんな大川先輩でもかなわない渚先輩が指導に来たらどんなことになるんだか。考えるとちょっと背筋が寒くなる。

 今の私は音楽に乗って動作だけで感情表現する練習の真っ最中。それも人形なしで自分の体でだ。初めは何でって思ったんだけど。大川先輩いわく、

「自分の肉体ですらろくに表現もできないのに、人形で表現ができるか」

というわけ。人形の顔は当たり前だけれど表情に変化がでない。指先だって動かないし、ずっと不利だ。それでも表現しようっていうのだから当然難しくなるし、自分で色々把握してなきゃならないって。

「まず人形は顔の表情がないから全身を使って。実際にはないだろう、っていうぐらいやらなきゃ伝わらない。ほら、映画の名優って背中で演技するっていうだろ」

「そう言われても私、俳優じゃないし」

「悲しいときは自分も悲しい気持ちになるんだ。うれしいときは本気で喜ぶつもりで」

 わかりにくい練習。基礎のときの「声が大きくなった」みたいなはっきりした到達感がない。「いい」って言ってもらった後で「全然駄目」って言われたり。

 だんだん気持ちが荒んできて。ついに。

「本当にこんな練習なんか意味があるんですか? わかりません!」

 しまった、って思った。大川先輩の憮然とした顔。背中に山岡先輩の視線を感じる。

「水谷さん。それ言っちゃいけない」

「でも、わかんない!」

 説教しかかった山岡先輩にも即座に言い返してしまう。何で。こんな風に言いたくなんかないのに。木田先輩にまで不安げな目を向けられる。困っているけれど、こんな私をかばってくれる人なんているはずがない。

 またおかしなことを口走りそうになったとき、部室の入り口から声がかかった。

「どうしたの。何かあった?」

 渚先輩だった。何でこんなときに。幻滅されるんじゃないかって思った。けど。

「大川、どしたの?」

「水谷が実演訓練を無駄だって言い出して」

「無駄まで言ってません!」

 また叫んでしまう。でも目を移した途端に渚先輩の鋭い視線とかちあって思わず目を伏せてしまった。

「みんな集まって。新しい脚本『サーベルの歌』の主要シーンだけ演じるから」

 渚先輩は全く意に介さない、というか無視したように新しい話に入った。他の先輩たちもぼうっとしていたけど、次の瞬間には慌てて練習用の舞台を用意する。

「絵里は私の動かす人形、しっかり見て」

 表情を変えずに告げられる。悲しかった。怒っている、それがはっきりとわかるから。でもさっき、見捨てられたなんて思った自分のことがもっと情けなかった。

「用意ができたね。じゃ、みんな観客席で」

 渚先輩は二匹のトラを抱えて舞台の向こうに回った。そういえば、と思い出す。私が入団きっかけの舞台では渚先輩は司会だけだった。だから正確には、これが最初に見ることになる。「神業」渚先輩の二役を。


『ガガアウッ!』

 いきなりの咆吼。渚先輩の声。あんなかわいい顔してるのに信じられないぐらい大きくて太い声。続いてトラが一頭だけ飛び出す。

『ガウワアウッ!』

 今度は中間ぐらいで、だけど甘さのある吠え声だ。そして二頭目が現れ、別人のように澄んだ声が響く。

『ママはあんなすごい声。お兄ちゃんもいい声だよ。だけど僕はこんな声しか出せないんだ。友だちはみんなお兄ちゃんみたいな声が出るっていうのに』

『まだ小さいんだからしょうがないよ』

『お兄ちゃんにはわかんないよ。こんな小鳥みたいな声のトラなんて嫌だよ!』

 弟トラが泣きだした。外見は全くそっくりのトラなのに、どっちがお兄ちゃんでどっちがサーベル君なのかがはっきりわかる。動き一つで表情まで違っているように見える。

『サーベル、お前だって今に立派なトラの声になるよ』

『うるさいやい!』

 交互に全く別の声。人形は無駄に動くこともなく、なのに動きだけでもストーリーがわかる。感情が伝わる。背筋がぞくりとした。

 ここで渚先輩が顔を出して中断した。

「このあと、サーベルは家出します。その後に小鳥と友だちになります。小鳥の言葉がわかるトラは世界でサーベルだけ。この声のおかげ、って設定。で、小鳥から悪人がトラたちを狩ろうとしていることを聞く。サーベル君は家に帰ってお兄さんトラと一計を図ります。ではその相談シーン」

 渚さんはまた舞台に戻る。すぐにトラ兄弟が登場した。

『お兄ちゃん。僕が鳥になるの。この声で誘い出すんだ。あいつら小鳥も撃ってるから』

『そうして?』

『僕とお兄ちゃんで挟み撃ちにする!』

『よし、やろう!』

 また渚先輩が顔を出す。

「このあと茂みに入って人間を待つ。やくざっぽい嫌な感じの人間ね。作戦は成功するけれど、小鳥さんは流れ弾に当たって怪我しちゃうんだ。で、最後のシーン」

 再び先輩が隠れる。トラが現れる。うなだれた二頭のトラ。でも片方が前に出てくる。

『みんな。泣いてばかりじゃ仕方がないよ。小鳥さん、どうすれば喜んでくれるだろう。歌が上手だった小鳥さん。ねえ、僕にも歌えるかな? ねえ、ねえみんな!』

 思わず私はうなずいてしまう。大川先輩たちも一緒。舞台ではサーベルが歌い始めた。身ぶりだけで声は聞こえない。というか曲がまだないのだろう。でも歌のパントマイムは続く。ソプラノの声が聞こえる気がする。大きくサーベルの体が震えて。曲が終わった。

「こんな感じ。どう?」

 みんなで溜息をつく。歌わずに歌を演じるなんて真似できない。しばらく静かだった。でもその静寂は渚先輩自ら破ってしまった。

「良いみたいだね。じゃ大道具は大川、人形制作は美枝が指揮して。山岡は脚本のアレンジ。木田はいつものように効果音と、最後にサーベルの歌う曲の作曲をお願いね。アイデアはまとまらないだろうから今日は解散!」

 一息に命令を下して脚本を配布する。まだ未完成の原稿だから、ベタ打ちの雑な印刷だけれど、私が脚本に目を奪われてしまう。けれど渚先輩が耳元でささやいた。

「この後、一緒に残って」


 私、渚先輩、そして木田先輩の三人だけが残った。木田先輩は渚先輩と打ち合わせたいと言っていたけれど、私は逃げたい。あんなすごい演技を見せられてどうしようもない。本当に、私ったら。

「どうだ、参ったか」

 ぼうっとしていたら、渚先輩が癖のある炭酸飲料で有名なドクターペッパーの缶をほっぺに押しつけてきた。冷たくて気持ち良い。返すべき言葉がわからず、缶を手の中で転がしてうつむく。渚先輩の顔を見て口を開きかけ、でも閉じてしまう。

「いい。わかったんでしょ?」

 渚先輩は缶のプルを起こす。私も一緒に開ける。ぷしっと炭酸の逃げる新鮮な響き。吹き出したドクターペッパーを慌ててすすり、半端なフルーツ風の甘みにむせてしまう。渚先輩はそんな私を優しく笑ってくれる。

「あの、さっきはほんとにごめんなさい」

「それは大川に言って。案外と落ち込むんだから」

 私の慌てた姿に渚先輩は声をだして笑う。するとやっと木田先輩も話に加わってきた。

「実は俺もさ、初めは水谷君と同じこと考えた。元々芝居屋じゃないし。でも美枝に怒鳴られたんだ」

 美枝先輩は温厚そうだけど、同学年だと違うのかな。

「でも、とりあえず坂は越したんだもん、いいじゃない。それより早く成果を見せてよ」

「任せてください!」

「大丈夫かな、そんな調子に乗っちゃって」

 木田先輩はすぐに私の元気をからかう。渚先輩も一緒に笑って、そのうち私自身も笑ってしまった。

 落ち着くと、機田先輩はさっきの台本を取りだした。

「とりあえず、銃声と下草を踏む音、それから幕間の音楽二種類は必要だと思います」

「そこはいつもどおり木田に任せるよ」

 渚先輩は当然のように言う。すると木田先輩は言いにくそうに話を続ける。

「で、歌なんですが」

 木田先輩は言葉を切った。私と渚先輩を交互に見る。そして再び話し始める。

「サーベルの配役、渚先輩ですか。それとも美枝か水谷君か。それによって変わるかと」

「主役に私はないんじゃないですか?」

 私は慌てて割って入る。でも渚先輩は当然のようにとんでもないことを言った。

「わからないわよ。だって大きめの公演じゃ三つとかやるんだもん。それなら主役は一人一つにして集中した方がうまくいくし。そうなれば絵里にだって回るかも」

 木田先輩に目を向けると彼も当然って顔でうなずく。

「ま、今はそこのとこ保留にしてよ。『小鳥の歌』ってこと、悲しいシーンだけど元気が出ること。この二点で作曲してみて」

「了解しました」

 少しおどけた調子の答え。木田先輩ってどこかとぼけた人だ。渚先輩は立ち上がった。

「絵里。完全に脚本上がるまでにはもっと腕を上げるように頑張りなさい」

 言って部室の鍵をちゃりっ、と鳴らした。


「さすがは大川先生の教えはすごいだろ?」

 私の演技を見せながら、大川先輩は美枝先輩や山岡先輩に自慢した。そこまで言うなら私のこと、もうちょっと褒めてよ。

 私もやっと「人前に見せても妥協線」と言える水準になったとかで、大川先輩が私を公開したのだ。先輩たちは次々と考えられる場面を注文する。それを私が人形のパントマイムでやって見せるのだ。

「よし、これで最後にしようか」

 いきなり今まで聞こえなかった声が聞こえた。渚先輩だ。三日前にサーベルを美枝先輩が、兄さんトラを山岡先輩が演じることだけを決めて部室に顔出してなかったのに。なぜかこういうときはしっかりと現れる。

「課題は歌。スローバラードを歌う感じでやってみて」

「あの、歌ですか?」

「うん。一度やって見せたでしょ」

 「サーベルの歌」で演じてみせたときのことを言っているんだ。とんでもないなあ。

「さあ、ガンバ!」

 声がかかる。私は頭の中でイメージを並べた。プロのボーカル。カラオケで歌う私。そしてトラが本気で大切に想った小鳥。音が形をとる。優しいけれど強い歌。

 人形の手を思いっきり広げてやる。首をかしげて、今はもういない小鳥の声を聞き取るような姿勢で。でもトラは声を出す。歌っている。逝った小鳥のために。

「オッケー。ま、さすがにいきなりサーベルは無理だろうけど、小鳥はできそうね」

 私は慌ててあまりの重要な役に断ろうとした。でもすぐに渚先輩が畳み掛ける。

「小鳥の声、大川じゃ無理でしょ?」

 たしかにかわいい声の大川先輩はありえない。そんなわけで大川先輩が悪役のハンター、渚先輩がハンターの腰巾着、そして山岡先輩には司会が割り振られた。

 いつ来たのか、背中にギターを背負った木田先輩が部室の入り口に立って言った。

「あとで美枝と水谷君向けにアレンジしたトラと小鳥の歌を渡すから。ちゃんと歌って」

 さあ。本当の芝居はこれからだ。


 私は冬休み公演に間に合うよう「サーベルの歌」の台本に注力することになり「小鳥の歌」をものにするのがノルマとなった。

 そこで軽音部に頼んで音楽室を借り、木田先輩に歌の特訓を受けることになった。やり方は音楽の授業そのままで、一つだけ違うのは山岡先輩にやらせられた、早口言葉練習が入っていること。これをやると人形劇だな、なんて思ったりする。

 木田先輩の練習は淡々としている。できないものはできていない。そんな感じ。感情はあまり出さなず、冷静に丁寧に指導してくれる。やっぱり風変わりな変人。

 今日は音楽室を使える最後の日だ。この後は外で練習するとか、カラオケボックスを使うしかない。美枝先輩なんか一日だけ一緒に練習したっきり。だから早く私もって思うんだけど、難しいんだよね。

 今日は完全に通して歌った。でも木田先輩は満足してないようだ。私自身も足りない気はするけれど、それが何かわからない。でも木田先輩は注意もしてくれない。

「こんなもんで終わりかな」

 木田先輩は唐突にキーボードの前から離れた。私は呆気にとられてぼうっとする。

「無理をして喉を痛めたら困る。それより話をしよう」

 木田先輩はキーボードの横にパイプ椅子を広げて手招きした。腰を下ろすと、機田先輩は高校の先生の面談みたいに話しだす。

「音楽は好き? 何か聴く?」

「まあ有名どころだけですけど、一応は」

「それなら音楽を聞く耳はあるってこと。今でもカラオケで歌えば今でも良い線はいくはずだって想像はつく」

 実は私、高校で音楽の成績は良かった。でも木田先輩は続けて意外なことを言った。

「でも渚先輩だと全然駄目って言うな。歌は下手でも十分なんだけどさ」

 何を言いたいんだろ。なぞなぞみたいなこと言って。でも木田先輩は私の疑問に答えずに違う話題へ移った。

「ねえ、歌とか音楽で舞台に上がったら、僕と渚先輩のどっちがうまいと思う?」

「そりゃ木田先輩でしょ?」

 当然の答え。木田先輩ってバンドボーカルの経験もあるっていうし。でも。

「そりゃ音楽そのものだけなら俺の方が上だよ。でもこれは、人形劇の歌なんだから」

 私は意味が分からず顔をしかめた。木田先輩はいたずらっぽい表情になると、私のスマホに音楽ファイルを送りつけてきた。

「この音楽ファイル、自宅で聞いてみてよ」

 木田先輩は怪しい笑みを浮かべていた。


 シャワーを浴び、軽く食事を済ましてスマホを握る。考えてはみたけれど、やっぱ聞かないとわからないのだろう。そのままスマホで聴こうと思ったけれど、何となくそれは違う気がして、部屋のスピーカーに無線接続して再生をクリックした。

 カツッ、コツン。硬い石段を踏みしめる足音。ざわり、と人の気配。足音。人の気配。足音。そして静寂。

 突如、テノールの男の声が聞こえた。

「もう一度、君をこの手に抱きたい!」

 続いて同じ声で強い調子の台詞が響く。

「もう一度、あなたの唇に触れたい!」

 絶叫する声がスピーカーから流れる。ガラスが砕ける。雷鳴。強い雨音。雷鳴。雨音。

 不協和音中心のピアノの独奏に変わった。徐々に速くなっていく。同時に和音が減っていき、不協和音が音を占領していく。残っていた旋律さえも乱れていく。

 破壊が限界に達し、混沌の響きの渦が音を占領した。しかしまた規則が蘇る。不協和音と和音が互いに争い、音を奪いあい。先の見えない、苦しくなるような旋律。

 単調な響きが浮かび上がってきた。静まっていくピアノ。背後でヴァイオリンが旋律を奏で始め、音が安らいだ。そしてアルトの声が歌い始める。


 歌が終わるとスピーカーが沈黙した。悲しくなっていた。歌自体はほんの三分ぐらいなのに。でも長い物語を読んだようだった。音が耳の隅に吸いついて離れない。

 半分は無意識の中、スマホを操作する。また同じ音が部屋に満ちていく。今度は目を閉じて音に身を任せる。

 染み込んでくる。気持ちが同化していく。小中学校の眠くなる音楽鑑賞とも違ってどこまでも沈み込んでいく。歌詞が心に直接入り込んでくる。中盤のピアノ独奏も言葉を語っている。でも楽譜に現れる旋律でもなく。

 物語を想像していた。でも、どの物語も心に留まることなく流れ去っていく。それが不思議なくらい心地いい。いつまでも音の中に浸っていたかった。音楽に縫いつけられた物語の一端に触れるだけでも感情がふるえる。

 木田先輩の言葉が浮かぶ。ただの音楽じゃない物語の歌。歌も物語の一部なんだ。ただ器用に音を外さないように上手に歌うだけ。それだけでいた。人形劇の歌だってことを忘れていたのかもしれない。

 かばんから台本を取りだして、小鳥の歌のページをめくる。小鳥が初めて現れる場面の歌詞に目を向けた。初めて歌詞が私の中へと染み込んだ気がした。

 気持ちが軽くなった。歌詞からサーベルや小鳥の会話が浮かんでくる。そっと最初の旋律を口ずさんでみる。

 自分でも違う声が出ていることがわかった。今までの自分とは全く違う。変わったって胸を張って言える。


「やりゃできるじゃん」

 木田先輩は私の歌を聴いて満足そうにうなずくと、いたずらっぽい目で声を変える。

「あれ、ミュージカルのサウンドトラックなんだ。歌だけ渡そうかと思ったんだけど、音楽のすごさも知って欲しくてさ」

 木田先輩は恥ずかしそうに顔をそむけた。

「音だけで物語になっていて、何て言えば良いかわからいけど、とにかくすごいなって」

 幼稚な感想で恥ずかしくなる。それでも木田先輩は満足そうな表情を見せてくれた。

「優しい脚本でやってみたいんだ。渚先輩も『音楽だけの人形劇も面白そう』って」

 私は顔が赤くなった気がする。内心、木田先輩ってただの音屋さんだと思っていたし。音楽とか効果音なんて脇役だって軽く思ってた自分が恥ずかしかった。

「先輩、その音楽劇をやってください」

「やるさ。そのときは歌手さん頑張れよ」

 木田先輩はまたいたずらっぽく笑った。

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