文芸船

遠いカーテンコール(前編)

 少しは休みたいはずのお正月すら我慢してやっと入学した大学なのに、授業は一方通行で先生の声なんて睡眠薬代わりだ。大学受験案内に載っていた女子学生の充実した姿に憧れていたはずなのに、入学して数カ月で色あせていた。偏差値が高いとか就職が良さそうだとか親が褒めてくれるだとか。そんなことだけで大学を選んでいたことに気づいて自己嫌悪に陥ってしまう。私の一年生の春は惰性の勉強と臨時バイトに終わってしまった。

 今はもう夏で、陽が傾いているのに冷めないアスファルトは逃げ水を浮かべている。私は滞留する熱気とキャンパスを漂流するだけの現実から逃げたくて、普段は通らない大学裏の薄暗い林道を歩いていた。その逃げ道も少しで抜けてしまう、最後の曲がり角を入ったときだ。

「お姉さん、お姉さん、一緒に遊ぼうよ!」

 甲高い声とともに白樺の木陰からウサギが飛び出してきた。もちろん本物じゃなく、人形のウサギだけど。

「ごっめーん! びっくりした?」

 小柄な女子学生が、やけに楽しそうなくりりっとした瞳で私を真正面から捉えていた。ちょっとだけでも服装を直せば男子にもてそうなかわいい人なのに、ショートヘアに洗いざらしのデニムと、パステルブルーで無地のTシャツというもったいない服装で、両手にウサギの人形をつけて笑っている。彼女はやたらと滑舌の良い甘い声で私に告げた。

「人形劇を観ていきませんか。入場料は無料です。ほんの少しの時間だけ、子どもに戻ってみませんか?」

 また愉快そうな瞳が私を見つめ、手元のウサギ人形は隠れんぼしたりけんかしたり休む暇を見せない。彼女はいきなり両手のウサギの手で私の右手を取った。

「さあさあおいで、お客さん!」

 変な人だけど。でもウサギ娘の勢いと魅力に流された私は、林の奥へと進んでいった。

 歩いた先には原っぱが広がっていた。奥には幼稚園から小学校低学年ぐらいの子どもたちが座っており、手前にお母さんたちがしゃがんでいる。お母さんたちの中には私みたいな学生も何人か混じっているようだ。

「大きいお姉さんは後ろの席に座ってね」

 私は言われるがまま、お母さんたちの列に座る。正面には木材で作った小さな舞台が幕を下ろしていた。脇の看板には手をつないだネズミと犬のイラストがあり「人形劇団・ワン助とチュー太」と丸文字で書いてあった。

 乾いた小太鼓の音が林の中に響く。次いでさっきの元気な声が林全体に通っていった。

「ただいまより『ワン助とチュー太』夏の林間公演が始まりまーすっ!」


「舞台はどうでした? 大人には子どもっぽいかな」

 劇が終わるとさっきのウサギさんが寄ってきた。他の団員は舞台の片づけに忙しい。でもこの人、片づけを始める前に指示していたから、実は私より先輩なのかも。

 ねえ、どうかな。彼女はちょっとだけ不安そうな顔でまた訊く。私は正直に答えた。

「確かに子どもっぽいですけど。楽しかったです。子どもたちと一緒に笑っちゃった」

 彼女は安心の吐息をもらした。もうとっくに陽は落ちているのに肌には汗が伝っている。でも、その赤みの射した肌はまぶしく思えた。

「うちの学生だよね。私は花房渚。よろしく!」

 渚さんは私に右手を伸ばしてきた。普通なら図々しい態度のはずなのに私も渚さんの勢いに乗せられて握手に応えながら、水谷絵里です、と答えてしまう。渚さんはうれしそうにポケットを探りだした。テープやら紙切れやらを地面に放り出した末にメモ帳を取り出し、フェルトペンで簡単な地図を書いた。

「ここが私たちの部室。観てくれるお客さんがいるだけでもうれしいから来て欲しいな。『渚呼んで』って言えばわかりますから」

 渚さんは鼻をひくつかせて私に期待でいっぱいの視線を向けてくる。私は会釈だけすると原っぱを後にした。


 あの日から劇団が頭から離れなくなった。子どもっぽいはずの人形劇を観たいはずもないし、劇団に入りたいわけでもない。それでも渚さんの瞳がどうしても忘れられないのだ。

 そこで一週間後、思い切って人形劇団の部室を訪ねることにした。サークル会館の狭苦しくてあちこちひびの入った階段を登りつめた四階の一室に「ワン助とチュー太」と書いた丸文字の看板がぶら下がっていた。

 中からは台詞を練習する声や大工仕事の音が聞こえてくる。だが、廊下に向かって開いている窓からは渚さんの姿は見えなかった。

「あの、渚さんいらっしゃいますか?」

 室内におずおずと声をかけると、入口で作業していた男の人が奥に向かって団長、と太い声で怒鳴る。するとすぐに渚さんが奥から飛び跳ねるように出てきた。

「来てくれたんだ。いらっしゃい。大川、団長って呼び方やめてって言ったでしょ」

「渚が団長なのは事実だし、創設者だろ」

「まだ仕上げ残ってるでしょ、仕事仕事!」

 渚さんはぞんざいに大川さんを奥に追いやると、昨日の調子で言った。

「ま、そういうことで私が劇団の代表なの。団員は五人だけだし、気軽に見ていって」

「あの、失礼ですけど何年生なんですか?」

「三年生だよ私」

 いいとこ二年生だと思ってたのに。若いというか何というか。

「私は童顔なの。身長は150センチだし。いいよ、みんな勘違いするから」

 150センチなんて絶対ないと思ったけど、もちろん口に出すわけにはいかない。でもそんな私の胸の内を見透かしているのか、彼女はくくっと笑いをこらえて続ける。

「人形動かしてみない。ほらウサギさん」

 渚さんは初めて会ったときのウサギさんを目の前にぷらぷら揺すって見せる。スカートのようになった下から手を入れ頭と手を動かす、お土産屋さん辺りで売っている仕組みの人形だ。手に取ると彼女はもう一体のウサギさんを動かしてみせる。

「ほら、動かしてごらん」

 手の中でウサギがいやいやをする。拍手をして袖を引っ張る。渚さんの方は頭をかいたり私の手を取ったり。

 人形から目を外すと、さっき追い払われた大川さんがベニヤ板を看板用の刷毛で緑色に塗っている。森を描いているようだ。

「大川って見た目よりずっと器用なんだよ」

 見渡すと色々な道具が転がっていた。裏がぼろ靴で表には新品の靴を描いた板。人間の頭と同じ大きさのお爺さん、お婆さんの顔。藁の家とレンガの家。大きなお椀と針のセット。綿と布で作った長い大根。森に埋もれた純白のお城。そんな、幼い頃にどこかで読んだ物語が部屋中にあふれていた。

「不思議よね。子どもたちはあんなに喜ぶのに、大人になると見向きもしないんだもの」

 ぽつっ、とした渚さんの呟き。

 私も人形劇に興奮したかすかな記憶はある。今でも幼稚園の卒園式に来た猫さんの人形と握手したこと、それだけは覚えている。恥ずかしくって、でもうれしかった。そんな気持ちは今でも胸の奥にある。斜に構えて惰性で流れていた胸に熱いものが湧いてくる。

 本当に言ってしまうのか。胸の鼓動が渚先輩に聞こえてしまいそうで胸を抑える。抑えた胸にうウサギさんの耳がこつりと当たり、さらに鼓動が速くなる。喉が急に渇き、でも決断してしまえって自分の中が暴れていた。

 だから。私は決めた。

「『ワン助とチュー太』に入団します!」


「新しい仲間、ばんざーい!」

 渚先輩はハイボールをぐいぐいと空けてしまった。今日は私の歓迎会。まだ前回の公演成功の打ち上げをやってなかったとかで、それと一緒に大川先輩が企画してくれた。大川先輩は渚さんと同じ学年なんだって。

「よかった。これで私も先輩になれた」

 二年生の美枝先輩がカクテルのカルアミルクを置いてうれしそうに言う。ロングヘアをかき上げるしぐさが様になる、かなりの美人だ。一方で渚先輩はブランデーをストレートで飲んでいる。私より童顔なのにそんなものを飲んでいるのは何だか信じられない。

 大川先輩がカラオケに曲を入れ始めた。それも入れたのはよりもよってデュエットを平然と入れている。どこのエロいおっさんだ。

「渚、一緒に歌おう!」

「やだ。美枝歌ったら?」

 美枝先輩は溜息をつきつつも案外と楽しそうに一緒に歌い始める。大川先輩は不満そうだけど渚先輩は顔色一つ変えずにいた。

「水谷君、初日でいきなり見ちゃったね」

 ささやき声に振り向くと、二年生の木田先輩だった。音響と機械の怪物って、渚先輩がからかっているんだか褒めているんだかわからない言い方で紹介していた人だ。小太りで一時代前の漫画に出てきそうなオタクっぽい空気をまとっている、ちょっと変な人。

「渚先輩に気があるんだな、大川先輩。でも渚先輩って男に興味ないみたいなんだな」

 私が怪訝な顔をすると、自分から話を振ったくせに無責任なことを早口で言い放つ。

「でも恋愛関係は訊かない方がいいよ、何か怒りだすから。あと劇団を始めた理由も絶対教えてくれないし。謎の美少女なんだよね」

「謎の美少女、ですか」

「ちなみに美少女と言うとこれも怒りだす。そこもまたかわいいんだな」

 もしかしてこの劇団、男は変態ばかりか。ま、脚本は渚先輩が一手に書いているそうだし、渚先輩がかわいいことは事実だし。

「うちの劇団、渚先輩あっての劇団だから。いまだに他の人にやらせないで一人二役でやる脚本もあるしさ」

「どんな脚本なんですか?」

「『ワン助とチュー太』って脚本。犬のワン助とネズミのチュー太の友情物。でも恋愛っぽい雰囲気もあって、大人でも感動の話だよ」

「それ、劇団と同じ名前……」

「実は前に隠れて美枝と大川先輩の二人で演ろうとしたら、直前にばれて大変だったよ」

「そんな怖い人には見えませんけど」

「何かあるんじゃないの。腕前は渚先輩と他のメンバーは比較できたもんじゃないし」

 やっぱりすごい人なんだ。ぽわっぽわしていて子どもっぽくて抜けていそうなのに。

「木田。一年生をもう口説くかあ?」

 いきなり男の人が暴れ込んできた。渚先輩はうれしそうに自分の横の席を空けて言う。

「こいつは二年の山岡。あらためて乾杯!」

 渚先輩はグラスを空にすると即座に叫ぶ。今日は帰られるのか、怪しい雲行きだ。


 先輩たちの二日酔いが抜けた二日後、本格的に練習が始まった。私には山岡先輩が付いてくれることになった。山岡先輩は元演劇部で発声法について詳しいそうだ。

「人形劇って言っても、基本は演劇部と同じだから。ところで演劇、やったことある?」

 私がうつむいて首を振ると、山岡先輩は気軽な調子で私にウサギの人形を手渡した。

「じゃあ人形を持って、俺が言ったとおりの操作、一緒にしてみてくれる?」

 私は元気に返事をすると、人形を持って練習用の舞台についた。渚先輩はそんな私を向こうで見ている。でも何だか妙だ。何かを楽しみにしているような。

 拍子の速い音楽がかかる。この曲は知っている。初めての日に見たウサギのダンス。

「はいはい、その調子」

 渚先輩の声が聞こえる。私は張り切って動かす。でも下から動きを確認しながらの操作は結構やりにくい。端に行くよ、という山岡先輩の声に、私は中腰の姿勢のまま腕をぴんと伸ばして素早く動く。また逆に動く。慣れない姿勢だから意外につらい。

「絵里! 腕下がってる!」

 いきなり渚先輩から声がかかる。私は慌てて大きく腕を伸ばした。

「こら、頭が見えるよ!」

 途端にまた怒鳴られる。

「位置、逆転するぞ。五、四、三、二、一」

 慌てて体を山岡先輩と交差させた。で、また同じように動き続ける。腕が腰が。

 結局、途中で曲が止められた。私はうなだれると、渚先輩はくくくっ、と笑った。

「ね、思ったよりハードでしょ。だから基礎訓練やってもらうから。山岡、頼んだよ」

 了解、と山岡先輩は渚先輩に答えると、にやにやしたまま私に向き直って言った。

「外に行くぞ」


「できないこと分かってやらせましたよね」

 外に出てすぐ、私は山岡先輩に口を尖らせる。でも山岡先輩はからかう調子で笑った。

「悪いね。でも『一度経験しないと基礎訓練の必要性がわからないから』って渚先輩が」

 私は黙り込んでしまった。だって渚先輩は団長さんだし、先輩たちもみんな尊敬してる人だもの。それに、人形劇なんて簡単だって甘く考えていたことは事実だし。

「練習するか。まずこの鉄アレイ持って」

 小ぶりの鉄アレイを山岡先輩が両手に一個ずつ持ってみせる。私も首をかしげつつ、渡された鉄アレイを先輩をまねて手に握る。

「腕を上に持ち上げたまま走るぞ!」

 私は本気ですか、と呟いてしまう。

「練習しないと役は回せないぞ。それとも木田みたいに裏方専門でいくか?」

 私はぶんぶん首を振る。あの人はバンド経験ありで機械いじりが趣味って人だもの。山岡先輩は私の顔色を見て、そのまま腕を持ち上げたまま走りだした。

 高校時代にテニスもやっていたから文化系の体力程度なら大丈夫とか思っていたけれど、後半になって急にきつくなった。体力よりはこの不自然な姿勢が問題だ。体育経験なんて関係ない。そんなわけで、ようやく終わった頃には私の息はあがっていた。

「疲れたかな? じゃあ腹筋二十回!」

 ま、これは平気。大したことなくこなして一息つくと、先輩がまた声をあげた。

「発声練習。俺に続いて大きい声で。あいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあ!」

 山岡先輩がわけのわからないことを高速で口走った。

「口が回らないと困るし、子どもを相手にするには大きい声が必須条件だ。わかった?」

「あのー、なんて言ってたのか……」

「そっか。これはね、まず『あいうえお』と言う。で、最後の『お』をスタートにしてあいう……といくと『え』が終点になるから、今度は『え』をスタートに、っていうのを続けて最後が『あ』で終わるんだ」

「えーと、あいうえおあいえおあえ?」

「あいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあ!」

「あいうえおあいうえおあいうえいうえあいう?」

「また間違っているぞ。あいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあ!」

「あいうえおあいうえおあいうえおあいうえおあ?」

 山岡先輩が笑顔になる。私が調子に乗って親指を立てて見せると、先輩は意地悪な表情を浮かべて告げた。

「ああ。あとはそれを倍速にすればいい」

 私はまじまじと先輩の顔を見つめてしまった。でも先輩はさらに平然と課題を加えた。

「あと『かきくけこかきくけこかきくけこかきくけこか』とかいう風にワ行までやるぞ」

「マジですか?」

 言ってみたものの。結局やりました。とくに大変だったのがハ行。

「はひふへほはひふへへへえ……」

「水谷さん、笑っているの?」

 ずいぶんと意地悪を言われて。ワ行も『わ』が『あ』になってしまうのだ。もう顎も舌も突っ張っちゃって、舌に貼る湿布はあったっけ、なんて馬鹿なこと考えちゃうほど。でも何とかこれもこなして、最後は腹から声を出す練習だ。

「大声だったら何でも良いってわけじゃないからな。体育会系の『声だし』なんて論外だ。応援団みたいな怒鳴り声も駄目。ちゃんと感情表現できること。いい?」

「そんなに声が大きくないと駄目ですか。演劇の大舞台は使わないって聞きましたけど」

 私が疑問を挟むと、彼はちちちっ、と芝居がかったしぐさで指先を振って遮った。

「幼児が完全に黙ってると思うか。体を隠すぶん、布が声を遮るんだよ。暗幕って声を吸収するんだぞ」

「布が声を吸収する?」

「暗幕張る前の声量だと聞こえないんだ」

 先輩は服の袖を口に当てて声を出して見せる。経験者が言うのだからきっと事実なのだろうけれど。

「じゃ、大きい声で早口行くぞ!」

 そんなわけで。練習は遅くまで続いた。


 部室に戻ると渚先輩が独りだけで残っていた。山岡先輩はとっとと家に帰ってしまって二人きり。私はどんな態度をすれば良いのかちょっと困ってしまう。

「やっぱ、きつかったんでしょ?」

「いえ、早口も腹式呼吸も難しいですし」

 渚先輩は初めて会ったときの柔らかい笑顔を見せた。

「すぐ慣れるよ。ちゃんとできるようになったら人形、道具作りもやることになるよ」

「人形も自分たちで作るんですか?」

 私の驚きに、渚先輩は目を細めて楽しそうに答える。

「それもデンプン糊、新聞紙、半紙、水彩絵具、ラッカー、白ボール紙、それに糸と布だけで。お楽しみに」

 渚先輩はおどけて言って、初めて見た手元の人形を動かす。犬とネズミ。これって。

「それが『ワン助とチュー太』ですか?」

 渚先輩はいたずらっぽい視線を向けた。

「そう。聞いたでしょ木田に。私だけしか上演しない特別の脚本。そして劇団の名前」

私は黙ったまま、渚先輩の言葉を待った。先輩は一息ついて、また話し始める。

「私が初めて書いた脚本なの。あとで全面的に書き直しているけどね。でね、私に人形劇を教えてくれた人と共演する予定だったの」

「その人、どうしたんですか?」

「いなくなったってしか答えたくない」

 奇妙な答えに、もっと深く訊きたいと思った。でも渚先輩の視線があまりにも寂しそうで。こんなことで私がもぞもぞしているうちに、渚先輩は人形劇の話に戻った。

「だから高いレベルでしか上演したくない。私だって練習するなとは言ってないもの」

 渚先輩は目を閉じて溜息をつく。そして吐き出すように言った。

「四年生になっても続けたい。後継者が育つまでは」

「じゃ、まだ先輩から直接指導してもらえますね、私」

 不謹慎かもと思ったけれど、思い切って口にする。渚先輩は人形二体を操って言った。

「そうね。あなたも後継者だし。頑張って」

 自分が赤くなるのがわかる。だって先輩の言ってること、まだ先の話なんだもの。でも明日も頑張る元気が出た気がした。


 渚先輩と話してから一週間が経った。その間はずっと山岡先輩との練習が続いた。人形に触れない人形劇団員なんて悲しすぎる。だからといって飛び越えるのは駄目らしい。文句を言おうにも渚先輩から見たら先輩方でさえ「まだまだ」なんだから、私が文句を言ったら笑われるに決まっている。

 今日も山岡先輩と練習だ。本当は山岡先輩だって練習時間がもったいないはずだ。私が足を引っ張るわけにはいかない。でも基礎ができるまでは人形を触らせないって言われてしまったし、一分一秒でも早い方がいい。

「さあて今日も元気にあいうえお始め!」

 私は一気にア行からワ行まですらすら、自分でもあきれるぐらいはっきりした声で言い終えた。たぶん自宅練習が効いたのだろう。山岡先輩は満足そうにうなずく。

「上達が早いな。声の大きさは簡単に変わらないから仕方ないけどな。あとはもっと安定していけばいいや」

 いつもと違う言葉に私は期待を視線を向ける。山岡先輩はまた芝居染みた姿勢で腕組みをして偉そうにうなずくと私に告げた。

「俺の指導は終わり。あとは自分で毎日練習すること。手を抜いたら口回らなくなるぞ」

「はい。ありがとうございました」

 私の素直な返事に山岡先輩は笑った。

「お前、けっこう体育会系なんだな。『ありがとうございました』ってあいさつがさ。ほら、芝居をやる人って体動かしてても、やっぱ雰囲気は文化系だからさ」

 こんなことを言って、山岡先輩ははにかんだ笑みを浮かべながら部室に向き直る。

「次は人形制作だ。最初は個人用の練習用人形だから、名前を考えておけ」

 山岡先輩の言葉に私は生返事をして、もう人形につける名前を考え始めていた。

 駆け足で渚先輩の席に行くと、すぐに美枝先輩が呼ばれた。美枝先輩は裁縫も編み物も自由自在だそうで、人形の服や小物は美枝先輩が中心になって作っている。

「絵里ちゃん、こっち来て」

 美枝先輩と一緒に作業台に移った。台には糊や絵皿が転がり、足元には古新聞紙の束が山積みになっている。

「人形作りは一回一緒に作って、それで覚えて。教えるのは『ギニョール』っていう片手で操作する人形。渚先輩がいっつも抱いてるウサギさんみたいなタイプね」

 美枝先輩はノートを広げて私に鉛筆を握らせる。

「好きな人形でいいよ。でもウサギは色々と難しいから止めた方がいいかな。あと車とかも変。そんなの木田ぐらいだろうけどさ」

 まさか、と私は表情だけで聞き返す。

「うん。ブルドーザー人形を作ったの、彼」

 やっぱ変わってるな木田先輩は。でも何を作ろうか。もちろん木田先輩とは別だけど。

「美枝、かわいいトラのギニョールを二体、欲しい」

 渚先輩が声をかけた。美枝先輩は目を見開く。渚先輩は意味ありげな笑顔で宣言するように言った。

「一週間、講義と図書室の往復になるから」

「お任せください!」

 何だか美枝先輩が張り切っている。それを確認した渚先輩はぱんぱんに膨らんだリュックを背負って帰ってしまった。

「渚先輩、新脚本上げるつもりなの。その主人公役が『トラ』なの、きっと」

 なるほど。張り切るのも納得いく話だ。美枝先輩は少し考え込み、私に向き直った。

「絵里ちゃん猫作ったら? 私もトラを作りながらだと教えやすいし。いや?」

 言われて思う。猫を抱っこするのは大好きだって。私は大きくうなずいた。

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