文芸船

サワー・カレー

 鍋に残ったカレーをかき混ぜながら、俺は溜息をついた。なぜこんなに作ってしまったんだろう。胸の内で愚痴りながらも原因はわかっている。一人暮らしに慣れてないせいだ。寮住まいだったおかげで、気がつかないうちに同期や後輩の分も見込んで作ってしまうのだ。すくったルーを鍋の中にこぼしながら、明日もまたこれを食べることを思うと憂鬱になる。

 着信音が鳴った。慌てて取り出すとメールが一通届いている。陽子からだ。思わず笑みがこぼれる。陽子は大学時代にバイト先で知り合った子で、今は専門学校生だ。俺の大学は地元就職は少なく、ほとんどは遠く散らばるか首都圏に行ってしまう。実際、遠い先輩を含めても地元にいる人はそう多くはない。

 もちろん寮にも後輩は沢山いるが当然、OBが来たという雰囲気になってしまう。そんなことを思えば、陽子は歳も性別も違うとは言えただの友だちでいられる数少ない身近な友人というわけだ。

 俺はすぐにもうすぐ晩飯、と返信を返した。送信してすぐにまたメールが届く。

『ほおう? 自分の料理でおなかこわさないで下さいね』

俺もまた返信を打ち込んだ。

『こう見えても腕はあるぞっ』

『そりゃ、悪うござんした』

 繰り返されたReの文字は四つも重なっており、まどろっこしく感じた俺は直接電話をかけた。

「あ、石川さん。電話くれたんだ」

「だってお前、メールめんどくさいし。どうかしたか」

「ばれたか。でね、友だちと遊んでたら下宿のご飯に間に合わなかったんですよ。だから一緒にね」

 俺、カレーあるし、と言いかけ、慌てて言葉を飲み込む。カレーなんて明日の朝食と晩飯に回せば良いだけの話だ。考えてみれば、会社の人以外と会うこと自体もかなり久しぶりだ。

「店はあたしのぴーぴーなお財布のブレーキ次第ね」

 また言ってやがる、と思う。陽子は金をぎりぎりまで使うから、月末はジュース一本買うにも悩むところまで行ってしまう。これで親に泣きついたことがないというのは一種の芸当だろう。俺は軽く部屋の中を片づけると、そのままアパートの階段を駆け下りていった。


「石川さーん、遅いっ!」

 陽子の叫び声が耳に刺さる。陽子の家は駅のすぐそばだから十五分は待った計算になる。とはいえまっすぐ空を飛んで来られるわけでもない。わざとだったのか、陽子はすぐに普段の表情に戻った。

「なんか安くて美味しい店、知りませんか。夜に開いてる店なんてあまり知らないんですよ」

 俺は軽く笑い、陽子の顔を見つめる。明るくって開放的で。夜に彼氏でもない俺と飯を食いに行こうと言う奴。とは言え女であることは違いないわけで。なかなか難しい条件だ。

「じゃ、とりあえず『蜜柑の花』にでも行くか?」

「何屋さん? それ」

「レストラン、かなあ。何だか知らないけど、この街にゃ珍しく夜二時まで開いてるぜ」

「そんな遅くまで開いてる店ってあるんですか?」

 驚くのも無理はない。地元の高校の校長が「我が街は夜遊びが首都圏と違って少ない」と自慢していたらしいが、そもそも高校生が夜中に遊んでられる店自体、この街では頑張ってもゲーセン数軒とチェーン店の居酒屋ぐらいなものだろう。三十万人都市と言っても、この辺りはどことなく地方都市の哀しさが漂う。俺は首を傾げている陽子の頭をくしゃっ、と撫でて言った。

「とにかく、俺は腹減ってんだ。早く行くぞ」

 俺はあまり人の前に立って歩くのが好きではない。他人が聞けばばかばかしい理由かもしれないが、ふっと振り返ったときに仲間が消えてしまうような、そんな漠然とした不安があるのだ。とは言え、案内人の俺が後につくわけにはいかない。歩道も狭いから並んで歩くことも無理な相談だ。と、歩道の幅が広くなった途端、陽子が俺の横に立った。

「石川さんって、ほんと前に立つの嫌いなんですね。さっきからずっと私の方、振り返ってる」

「そういうの、嫌か?」

 俺の問いに、陽子ははっきりな笑顔で答える。

「ぜんっぜんです。ま、心配されてて何だか子ども扱いかなあ、って思っちゃったりするけど」

 子ども、と呟いてふと自分の歳を数えてしまう。子どもっぽいのはむしろ俺だよ、そんなことを思う。だが、陽子はそんな俺の顔を怪訝な表情で見つめながら歩を進め、急に立ち止まって言った。

「でも、たまには子供扱いって安心します」

 だが陽子はむしろ大人びた表情を浮かべる。そういえば今日の陽子は少しはしゃぎ過ぎだ。風邪で元気のない子供がわざとはしゃぐような空気がある。陽子は俺と肩を触れそうなほど近づけた。

「今日はちょっと、余計なこと喋りそうな気がします。進路相談みたいな」

 よくはわからないが、なるべく先輩なことを意識して鷹揚な返事を返した。小さな不安が胸に灯る。余計な会話をせずにいた方が良いような気がする。だが店はもう目の前に迫っていた。

「石川さん。あの店ですか?」

 見上げると蜜柑を象った看板が立っている。その下には繊細なレタリングで『蜜柑の花』とあった。うなずきながら、昨年までのことを思い出した。大学の馬鹿騒ぎした連中のこと、悩むあいつを慰めた日のこと。そんな学生生活のもう一つの舞台がここ『蜜柑の花』だったのだ。陽子は勝手に前に立って店の奥に入っていった。中を見回し、一番奥の席につくと俺を手招きする。

 メニューを眺め、陽子はビーフカレー、俺はスパゲティナポリタンを頼んだ。十分ほどして、両方ともテーブルに届く。陽子はカレーを口に運ぶと、じっくりと味を確認するように食べた。

「カレーライスって、専門店だとほんっとに種類多いんですけどね。こういう店だとこんなもんか」

「お前、そんなとこ行くの?」

「私、カレーマニアですから!」

 陽子は目の前にVサインを突きつけてみせる。次いでメニューを眺めながらカレーの種類を次々と挙げ始めた。

「キーマカレー、玉子カレー、チキンカレー、あとマトンカレーとか。ところで石川さん、ビーフもポークもインドにはないんですよ。ヒンズー教じゃ牛は神聖だから食べられないし、イスラムの人は豚が不浄だからって食べないし」

「じゃ、俺たちのカレーってほんとにジャパニーズなんだな」

「そうそ。あんパンと同じです」

 俺が顔をしかめて見せると陽子は軽く笑う。そして首を傾げ、カレーの話を続けた。

「でもね、酸っぱいカレーってあるんですよ」

 俺はとっさに腐ったカレーで食中毒を起こした友人のことを思い出した。だがすぐに陽子が苦笑して打ち消す。

「違いますったら。ヨーグルトとかで味付けするんです。慣れると美味しいんですよ」

「そうかあ? って言うか、んなもん考えた奴ってどんな奴だよ」

 何気ない言葉に、陽子は黙り込んでうつむいてしまった。

「な、何だよ。いきなり黙り込むことねえだろ?」

「そんな言い方、しなくたって良いじゃない。人の気持ちも知らないで、そんな滅茶苦茶に言わなくたって。何だっていうのよ」

 俺は言葉を必死で探す。だが、その沈黙の間も陽子の雰囲気は悪化するばかりだ。そのうち、陽子は目に涙を溜めてしまう。陽子、とそっとかけた俺の呼びかけに、彼女ははっとした表情で顔を上げた。目を泳がせ、肩をすくめてぎこちなく頭を下げる。

「ごめんなさい」

 俺は黙ったまま言葉を待つ。陽子は俺と目を合わせず、口元を手で押さえながらぼそっと呟いた。

「先輩、くっだらない話なんだけど、聞いてくれるかな」

 先輩という改まった言い方に重さを感じる。俺が曖昧に首を傾げると、少しだけ元気に話を続けた。

「毎日口げんかして、すぐ仲直りして。最悪の奴だけど、最高の奴だったの。いつのまにか好きになってた。でも、もう逢えない」

 友だちかい、と問いかけると陽子は少し考え込み、いつもの弾ける調子から一転し静かな調子で語り始めた。それは高校二年生の頃だという。その彼はかなりのカレー好きというかカレーマニアで、料理対決番組の真似をして色々と作ったり陽子にもさせたりしていたのだという。そんな彼が自慢だったレシピの一つがヨーグルト入りのサワー・カレーだったのだそうだ。

「あいつ、進路はコックさんとか言い出して私も応援するよ、なんて言ってて。良い感じだったんです。ああ、関係変わってちゃうのかな、寂しいな、でも嬉しいかな嬉しいよねなんて。やっぱこいつのこと好きなんだなって感じて」

「告白したの?」

 何気なく訊いた途端、それまで穏やかだった陽子の表情が凍った。俺は慌ててフォローの言葉を探す。だが俺が口を開く前に陽子は思い出話を再開した。

「出来たら、出来るんなら良かった。でも私、自信持ちすぎだった。こんな仲良いんだもん、って。部活のヒーローでもないあいつに、そんな寄ってくる子がいるなんて思いもしなかった」

「手遅れ。私が決心したときには、先回りした子がいたの。そこの後輩が相手の子で。だから」

 陽子は言葉を切ると、手元の水を酔っ払いみたいにぐいっと呷り、最悪な言葉を吐き出す。

「潰してやった。あの子の性格と腕じゃね、ヒロインは絶対無理だったんです。だから敢えて学園祭の主役、あの子にやらせた。猛特訓がんがん課して。で、結局間に合わなくって舞台の上で大恥かいて。私は準主役でばしっときめて」

 陽子は据わった目で俺を見つめ、嗤いながら言った。

「すごい弱い子だったんだ。あんな弱い子だなんて思わなかったんです。それに私の知らないとこでいじめまであったらしくって。だからそのまんま心病んじゃって、学校来なくなってそのうち中退して、でも彼にバレて。そしてそのまんまあいつまで学校辞めて」

 一呼吸置き、陽子は吐き出すように言った。

「どっか遠くに行っちゃった」

 陽子は窓の外に何気なく視線を移し、俺は無意味に手元のフォークを弄ぶ。陽子は頭を振り、溜息混じりに言った。

「カレーが今も大好きなの。思い出しちゃうのに。つらいのに大好きなの。大好き、なんだ」

 もう一度大きく溜息をつき、そしていきなり俺に話をふる。

「石川さん、カレーは好き? 作れる?」

「ま、市販のルーの素使うんなら」

 陽子は残念そうに首を振ってみせ、そして自嘲的に言う。

「こうやってね、あいつの代わりを捜しちゃう自分がいや。私、カレーの香りから逃れられない」

 このとき、よほど俺は同情的な顔をしていたんだろう。陽子は自分の頰を両手で叩くと、しっかりした声音で頭を下げた。

「石川さん、話聞いてくれてありがと! 少し楽になっちゃった」

 やっと俺もおどけた空気になって笑みで返す。陽子は照れたように頭をかき、そして言葉を継いだ。

「じゃ、今度私の特製カレーをごちそうしてあげますから!」

「楽しみにしてるよ」

 答えながら、陽子を改めて見直す。俺の好みからずれているわけでもない。俺もカレーの勉強をしてみようかな、と思う。だがすぐに考えを慌てて打ち消した。俺も今はただ、寂しさを紛らわしたいだけに決まっている。

「私たちは友だち、友だちだよね」

 見透かしたように陽子が繰り返し言う。俺はまた曖昧に笑ってグラスに残っていたぬるい水を喉に流し込んだ。陽子の視線を受けたこの水は、どことなく緩やかな酸味を帯びているような気がしていた。


 数日後。陽子から一通のメールが入った。それは遠くの料理学校に行くという話、そして一人前になったら俺にカレーをごちそうするという内容だった。ご丁寧にも、陽子のメールアドレスは削除しないでくれ、という付け足しがあった。

 以来、連絡はつかないけれど。まだあいつのアドレスは残ったままだ。いつかまたあいつの悪戯な声が聞こえると信じて。

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