法事に行くぞという父の言葉に、俺は曖昧な答えを返した。俺は一応正社員の名目だが、実際は世に言う二重派遣というやつで、雇われている本当の会社なんて建物すら見たこともない。そんなわけで転職というか離職を考えているので色々と親戚に訊かれるのは気が重い。とくに俺の親戚筋は銀行だの公務員だの電力系だの税理士だの、いわゆるお堅い系が多いせいか、努力で何もかも上手く行くような物言いをするので憂鬱だ。
とはいえ、今の離職予定という身で両親に逆らうこともできない。渋々うなずくと、両親は安心した表情になった。だが母は、そういえば、と呟いて再び顔を曇らせた。
「今回、龍心さんも出席するって話なんだけど」
聞いた名前だが記憶がはっきりしない。父の兄弟だっただろうか。俺の表情に父は苦々しい表情で言った。
「俺の末弟だ。うちの一族の中では色々と厄介な奴だから、雅人は生まれたときしか会っていないかもな」
厄介な奴、と俺がおうむ返しに訊くと、父は少し詳しく話してくれた。高校卒業後すぐ飲食店に勤務し、その経験から食品輸入会社を立ち上げ、さらに欲張って漢方薬輸入に手を出して倒産。その後は漢方薬の縁で錬丹術や黒魔術に耽溺し、今は本当に仏教系なのかも怪しげな、新興宗教らしきものの僧侶らしい。その宗教すらネットで検索しても出てこないから、ただの自称宗教家といった、さらに怪しげなものかもしれないのだという。
「最近は無鉄砲よりも妙な方向に進んだから心配でな」
父の言葉に俺もうなずく他ない。父は腕組みして少し懐かしむ口調で、無鉄砲だが案外と面白い奴だぞ、と笑う。俺はまた少し、不安の芽が伸びた気がした。
祖父の法事には、子供の頃と同じお坊さんが来て読経していった。剃髪なので白髪かどうかはわからないが、何となく頭の地肌が昔よりくすんでいる気がする。その上、昔は朗々と響いていた読経が瘦せた嗄れ声に変わっていたせいか、妙に寂しい気持ちになった。
父の実家は鰊場の網元をやっていたそうで、当時は投資代わりに山を買っていたのだという。法事で集まった祖母の家はその山の麓に建っており、元は網元なのに祖母の料理は山の幸ばかりで刺身もないのは残念だ。
祖母は高齢者にありがちな態度であちこち丁寧な挨拶をして歩いていた。そして俺の隣りに寄ると、優しい笑みで俺の頭を撫でる。まあ、九十歳も過ぎれば二十代なんて子供と大して変わらないのかもしれない。そんなことを思っていたら、祖母はスマートフォンを取り出すと慣れた手つきで画面を操り、流行のソーシャルゲームを開いて耳元で囁くように言った。
「このレアカード、チートでゲットできる裏技があるってTwitterで見かけたんだけど、どんなもんかね」
呆れかけて思い出した。うちの祖母はたしか、俺のお固い一族の中で一番ぶっ飛んでいる人だったはずだ。父もそんな祖母と話が合わず避けていたせいもあり、俺もこれまで法事から足が遠のいていたのだ。俺は自分の携帯で祖母の言う内容を検索し、嘘だろうと教えてやる。祖母は肩を落とし、つまんない、と鼻で笑った。すると俺の背中から豪快な笑い声が聞こえた。
「母さんも相変わらず趣味が若いね」
振り向くと、首に太い数珠のようなものを掛けて黒い法衣らしきものを着た屈強な髭面の男が建っていた。祖母はにやりと笑い、男の胸を拳で叩いた。
「龍心、やっと法事に顔を出す気になったかい」
「いや、たまに顔を出さないと、うちの若い奴らの顔どころか人数もわからなくなりそうだしな」
龍心さんは祖母と同じ笑みを浮かべ、いきなり俺の肩に手を回す。僧侶というよりはプロレスラーのような頑強な腕で、おまけに息がかすかに酒臭い。だが龍心さんと祖母に挟まれていると、なぜか両親と一緒にいるよりも気楽でいられる。龍心さんは俺の顔をじっと見て再び豪快に笑った。
「兄さんの子よりは俺の息子の方がお似合いだな」
「どっちだろうが私の孫に変わりないさ」
祖母は開けっぴろげに笑って俺の手を取り、今度は真面目な表情に変わって言った。
「大変なんだろうね、他の固い連中と違ってさ」
急に俺は他の親戚の視線が気になって見回した。何人かが俺から視線を逸らしたような気がする。最近、この不快な視線は職場でも通勤中の駅でもしばしば感じている。きっと疲れているのだと思う。そう思うことにしている。だが、親戚が集まった中では余計に不安の負荷がきつい。口の中が乾いて頭痛がしてくる。祖母は首をかしげて龍心さんの方に向き直った。
「龍心、あんたもそろそろ、若者の一人ぐらいは養う甲斐性がでてきた頃かと思うんだけどね」
龍心さんが怪訝な表情を浮かべると、続けて祖母は立ち上がって父を呼んだ。父は祖母と龍心に挟まれ、不安そうな表情で正座する。龍心さんも慌てて胡座を止めて正座し、少し緊張した表情になった。
「私も孫の手助けをできないかと思ってね。で、うちの子たちで一番性格の違う二人に並んでもらったわけさ」
父はうなずいて龍心を横目で睨みながら答える。
「今の時代、努力と真面目さのみでは厳しいことも多いのですが、雅人は私がしっかり見ていますから」
「しっかり者に睨まれっぱなしだと、子供によっては疲れるんだよ。正直、兄さんはできが良すぎるし」
龍心さんの呟くような言葉に、父は溜息をついてそっぽを向く。祖母は立ち上がって父と龍心さんの肩を順番に叩き、最後に俺の肩を叩くと俺の前に座った。
「仕事を辞めるなら、思い切って龍心のとこで修行でもしてみたらどうかね。気分転換になるかもしれんよ」
祖母の言葉に俺は目を丸くした。祖母が急に妖術か何かを使う魔法使いのお婆さんのように見えてくる。だが父はいきなり床を叩いて龍心さんへ向き直った。
「龍心、母さんに何を吹き込んだんだ?」
「兄さん、俺だって急に言われてびっくりな話だぞ。俺が何か企んでいるように見えるか」
父は龍心さんをじっと見つめ、肩をすくめて言った。
「龍心が嘘をつくときはちょっとした癖があるんだが、今は全然ないな。それに母さんの言うことだしな」
祖母は愉快そうに笑い、父はますます大きく溜息をつく。祖母は俺をじっと見つめて言った。
「どうだい、私の思いつき。乗ってみないかい」
いつのまにか母も父の背中に寄ってきて俺を見つめている。俺はその場にいる全員の顔を見比べた。俺はとにかく今の場所から逃げたいと感じている。具体的な職場や家というより、全てから逃げ出したい気分なのだ。だとすれば、親戚とはいえ最も違う環境に逃げ出せる機会を逃す手はない。俺は両親にゆっくりと頭を下げ、次いで龍心さんに向き直って祖母に答えた。
「ご厄介になって、よろしいですか」
龍心さんは豪快に笑って俺の背中を平手で叩いた。
俺のいないところでどんな話し合いがなされたのかはわからないが、帰途では両親とも龍心さんの下での修行に納得したようだった。何より、龍心さんの寺だか修行場だかは祖母の山の一つを借り切っているそうで、父曰く「変なことがあったら母さんが龍心を追い出す」から大丈夫だという。枯木のような祖母にそんな力があるのか疑いたくもなるが、年齢に合わずスマートフォンを自在に扱う能力や、今回の話を持ち出した辺り、ただ者ではないのだろう。
法事の翌週、上司に退職の話をすると俺は初めて本来の会社に連れていかれ、これまでにない丁寧な待遇の中で辞表の書き方を教えてもらって提出した。最後に色々と言ってやりたい気持ちはあったのだが、人事の調子から見ても辞表を書かせることに手慣れているようだし、今までのサービス残業の口封じを匂わせる退職金の上積みもあるので言葉を飲み込み、辞表を提出した当日のうちにめでたく退職した。
俺はすぐに龍心さんの修行場へと向かった。修行先への旅なので自家用車というわけにもいかず、古びた一両編成の鉄道に乗ると何となく本を読む気もゲームをやる気も起きず、ひたすらぼんやりと窓の外を眺めていた。
トンネルに入り、暗い中で窓に自分の顔が映った。目の下に隈ができ、床屋に行く余裕すら忘れていたことに気づいた。龍心さんも長髪だったとはいえ、坊主頭にはされなくてもバリカンで刈られるかもしれない。
母にはなけなしの退職金を預けてきた。それこそ固い人なので心配はないだろうが、もう少し俺の修行行きは引き留めてくれても良かった気がする。まさか、体の良い厄介払いができたとでも思っていたのだろうか。
トンネルを抜けると、次第に祖母の山が見えてきた。さらに逃げたくなってくる。だが着の身着のままホームレスになってまで逃げ回るほどの根性は俺にはない。
「近くなってきましたね」
斜め後ろの席から、落ち着いた若い女性の声が聞こえた。こっそりと振り向くと、仕事のできる保険外交員といった風体の面長な女が一人、もう一人は同じような服を着た、社会人なりたてといった童顔の女だ。
できの良さそうな方は冷たい無表情で新人娘の頰をつつきながら、感情の薄い先ほどの声で言った。
「私も自然の中でゆっくりしたいですけど、スケジュールがびっちり。研修の余裕があるなんて羨ましいな」
新人娘は頰を膨らませてうっすらと涙を浮かべ、それでも唇を噛んだまま言い返さない。俺の中で、できの良さそうな女の仮名が冷血女に決まった。冷血女は小首をかしげ、うっすらと嫌みな笑みを浮かべて口を開く。
「まあ、休養して頑張ってね。消えちゃうとこうやって頰をつついて遊んでやることもできなくて寂しいし」
俺は拳を握りしめる。だが「男(無職、二十九歳)、列車内で女性(会社員、二十五歳)に暴行傷害で逮捕」という新聞の見出しと、ネットに広がる俺への無数の嘲笑が頭に浮かび、拳を緩めて椅子に深く座り直した。
新人娘の方は落ち着きなく髪を撫でつけて目頭をこすり、急に俺の方を向いた。俺は慌てて視線を外し、あちこち窓の外をきょろきょろ見ているふりをする。
遂に駅舎が見えてきた。俺は着替えと携帯、ノートパソコンの入ったバッグを背中に背負い、背広を手に提げて降りる。振り向くと、例の新人娘もぱんぱんに膨れたバッグを背中に背負い、冷血女からリラックマの小さなぬいぐるみをぶら下げた鞄を受け取って降りてきた。
冷血女は元の席に戻り、新人娘に手を振りもせずタブレット端末を手早く操作しながら、ダイエットに良いという高価な超硬水のミネラルウォーターを飲み始める。
俺はぼんやりと列車を見送っていた。だがふと、脇で人の動く気配を感じた。例の新人娘も俺と同じように列車を見送っていたのだ。童顔のセミロングで身長も俺の肩ぐらいしかなく、俺と同じように目の下に隈ができている。服も全く着慣れていないくせにストッキングには薄く伝線が見え、人間全体がくたびれていた。
「行っちゃったな、冷血機械女」
ぼそっと新人娘が呟いた。片割れへの俺の印象は正しかったようだ。彼女も俺に気づいたようで、頰を赤くすると慌ててホームから駅舎へと飛び込む。俺も後に続くと、駅舎では龍心さんがにこやかに手を振っていた。
「龍心さん」「龍心師匠」
俺と新人娘の声が重なる。二人で足が止まり、お互いに顔を見つめ合う。龍心さんは俺と新人娘の中間に割り込むように歩み寄り、俺たち両方の肩を掴んで言った。
「できの悪い奴ら同士、仲良くしろよ」
俺たちは龍心さんの顔をじっと見つめ、次いで新人娘が甘く透き通った声で言い放った。
「あなたは駄目な人なんですか」
「列車の中で泣いていたくせに」
睨み合う俺たちを眺め、龍心さんは嬉しそうに言った。
「駄目な奴ら同士、やっぱり気が合うようだな」
「師匠、荷物が重いんですけど」
新人娘は河野水希と名乗った。龍心さんの修行場が山中にあると聞いてスニーカーを持ってきたそうだが、自分が荷物を全部背負って歩くとは考えなかったらしい。
龍心さんは鼻で笑い、俺のバッグを指差して言った。
「雅人なんて馬鹿だからパソコンまで背負ってきたぞ」
「パソコンはあると色々使えて便利なんですよ」
「確かに、盾にもまな板にも使えそうだ」
本気か冗談かわからないことを言って、龍心さんは全く息も切らせず豪快に笑う。元気なのは龍心さんと、苛立たしいほど休みなく甲高く囀る野鳥の声だけだ。
龍心さんの指導で、俺と水希はお互い名前で呼び合うようにと言われた。苗字は家を意識するため、修行や出家には向かないのだと、少し緊張することを言われた。
だが緊張は最初だけで、とにかく修行場までひたすら歩いているとどうでもよくなる。振り向くと水希の目が虚ろになっているので、俺は仕方なく手を伸ばした。
水希は一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべて、結局は俺の手を握った。お互い汗を流しているわりには、水希の手はひんやりとしていて心地良い。龍心さんはちらりと俺たちを見ると少し早歩きになる。嫌がらせか。
俺も水希も休憩を求めようか迷い始めたところで、急に林道が開け、木造の建物が現れた。弥生時代の高床式倉庫のような造りで、丸太を荒縄で縛っただけの鳥居も建っている。奥には掘建て小屋のようなものが見えた。
「ようこそ、我が邪宗寺へ」
どうみても古代の神社か何かなのだが、寺と言い張るらしい。おまけに邪宗門を自称する辺りかなり危うい。だが意外にも水希は平然とした顔で言った。
「なかなか良い建物だし、良い名前ね」
水希はゆとり世代だけあって、よほどゆとりある脳みそをしているらしい。龍心さんは笑いながら奥に入っていく。俺たちも荷物を抱えると龍心さんの後を追った。本堂らしき高床式建物の中は広く、日光を遮っているせいか涼しい。正面のご本尊様が鎮座してそうな場所には、金属製の巨大なクモヒトデが置かれている。
「名状しがたくも恐るべき宇宙の原罪、混沌の渦動」
水希の呟きに何だそれ、と訊くと、ラヴクラフトのクトゥルー暗黒神話に出てくる魔王の称号だと答える。
「妙なもの知っているな。もしかしてオタク系?」
「世界的な恐怖小説ですよ。本は読まないんですか」
読まないわけではないけど、と言葉を濁す。学生時代は色々と読む方だったが、最近は仕事で使うプログラミング言語の解説本以外は何も読んでいない。水希は馬鹿にする表情だったが、少し考える素振りのあと、ふと表情を和らげて、ごめんなさい、と呟くように謝った。
俺たちを無視してご本尊に手を合わせていた龍心さんは、胡散臭い笑みを浮かべて俺たちに向き直った。
「偶像崇拝は本質ではない。だが確かに、このご本尊様はその辺りの著書を読んでいて天啓を受けたものだ」
天啓とか胡散臭いし、こんな物騒な像を選ばなくても良いと思う。だが今は反論は飲み込んでおく。水希も眉をひそめて無言のまま、俺に小さくうなずいた。
龍心さんは本堂を出ると、掘建て小屋に向かった。近づくと掘建て小屋は二軒建っており、人のいる様子はない。さらに近づいてみると一枚ずつ紙が貼られていて、各々に俺と水希の名前が乱雑な筆字で書いてあった。
「ここがお前らの家だ。とりあえず雨漏りはしない。布団も用意しておいた。動物なら快適なはずだ」
「人間に快適なんじゃないんですか」
俺の言葉に、龍心さんは余裕のある態度で答える。
「文明に毒された変な動物から正しい形に戻るのさ」
水希が何か言いたそうだったが、どうせ魔王がご本尊様だし、と呟いて溜息をついた。俺も例のご本尊様を思い浮かべただけで反論する気が失せてしまう。龍心さんは俺たちの顔をじっくりと見回して馬鹿笑いをすると、晩飯用の握り飯を置いてあるから今日はゆっくり休め、と告げて本堂に行ってしまった。
軽く会釈して自分の小屋に入ろうとすると、水希は俺のバッグに手をかけ、逃げたいな、と呟く。俺は逃げてばっかりじゃ駄目さ、と返した。水希は小さい声でうなり、次いで自分のバッグを地面に放り出して言った。
「追い込まれたら逃げるのもありじゃないですか」
「だから、俺は逃げてきたんだよ!」
俺は思わず大声でいらつきを水希にぶつけてしまう。水希は驚いた顔で俺をじっと見つめた。次いで水希は自分のバッグの上に腰掛け、視線を逸らして言った。
「だから私は人間なんて大嫌いなんです」
人間嫌いとか社会人になる前に卒業しておけ。だが、水希は意地悪な笑みを浮かべて言い放った。
「こんな所まで逃げてきたなんて、雅人も立派に人間嫌い、というか人間関係は最低ランクの部類でしょ」
「でも、ここからまで逃げ出したら終わりだと思う」
何か言いかけ、水希は視線を逸らすと黙り込んだ。俺は空気を振り払いたくて話題を必死で探る。するとまた本堂で見た怪しげなご本尊様が頭に浮かんだ。
「どう見ても邪神信仰だよな。どうなるんだろ」
「邪神でも良いじゃないですか、ただの逃げ場所だし」
うなずきかけ、水希は俺と違って冷血女に連れてこられた様子だったことを思い出した。
「私は逃げてきたんじゃなく、捨てられた」
それは、と小声で尋ねたが、水希は返事もせずにバッグから洋楽ロック系らしきCDを取り出してぼんやりと眺める。たがそのまま何も言わず動きもしないので、俺は水希を置いたまま自分の掘建て小屋に入った。だが数分後、小屋の外から再び水希の声が聞こえる。小屋を出ると水希はアメリカンコミック風味の悪趣味な表紙の文庫本を俺の胸に押し付け、水希はさっさと自分の掘っ立て小屋に戻ってしまった。
押し付けられた本は「クトゥルー邪神図鑑」とある。俺は溜息をついて小屋の中に寝転がり、付箋が付けられた頁を開いた。右側の頁にはご本尊様が宇宙空間に浮かんでいるイラストが描かれており、アザトースという名前が記されている。副題には水希が言った「名状しがたくも恐るべき宇宙の原罪、混沌の渦動」と書かれており、左側の頁には他にも白痴の魔王、冒瀆の言辞など大仰な言葉で説明を加えている。創造主とあるが、一般的に思い浮かべる清浄な最高神ではなく、ひたすら創造と破壊を行う不浄な存在だという。
馬鹿馬鹿しい、と本を投げかけ、唐突に親戚たちの視線が記憶の底から沸き上がってきた。安定した場所から見下ろしてくるあいつらが創造と破壊で全部吹っ飛んでしまうとしたら、俺が巻き添えになったとしても爽快だ。俺は再び水希の本を手に取って導入頁を読み始めた。何でも、米国のラヴクラフトという作家が創作したSFホラー小説が原点で、その後に多数の作家がその創作世界を膨らませてクトゥルフ暗黒神話という一つの体系になっているのだという。幾つか作品紹介があったが、気づいたら自分が化け物にされていたり精神を邪悪な神に奪われたりといった、救いのないホラーばかりだ。
人間なんて大嫌い、という水希の声が頭の中に響く。嫌な奴らの声が聞こえた気がした。今日まで頑張ってきました、と爽やかな笑顔を浮かべるスポーツ選手やその他の成功者たちのテレビ映像を思い出す。じゃあ俺は努力していないから今、こうなのか。上手く行っている奴らは単に俺より頑張ったのか。俺も人間なんて嫌いだ。そしてこの暗澹たる小説の方が俺には身近に感じてしまう。だが同時に、人間なんて嫌いなはずなのに、この本を貸してくれた水希と、もう少し交流したいような気がした。
暖かい季節のおかげか、夜は意外と快適に過ごし朝を迎えた。その後はお経を唱えながら山道を延々と走らされたり本堂の掃除をさせられたりして過ごした。初めは当たり前にろくでもない邪教だと思っていたけれど、一ヶ月もたつと馴染んでしまったのか、例のご本尊様には俺も水希も普通に手を合わせるようになってしまい、龍心さんにお褒めの言葉をもらってしまった。
水希も俺も眠れない日には、下界の奴らなんていなくなれば良いのに、などと言いながら夜を明かす。だが男女だというのに何も色気のある話にはならない。だいたい人間が死んでしまえと言い合う恋愛なんてあるはずがない。でも、そんなことを言い合いながら時折俺たちは視線を交わして笑ってしまうこともある。いつの間にか、本当に俺たちはご本尊様と同じく矛盾して怠惰で冒瀆的な仲間になっていた。
でも、この生活も慣れると良いかもしれないと思う。詳しくはわからないが信者らしき人も参拝に来るし、このまま龍心さんの跡継ぎになるのも良い気がしてくる。掘建て小屋の中でこの一ヶ月を思い返していると、扉を叩く音がして、断りなく扉が開いた。水希が入山したときと同じスーツ姿で立っていたのだ。最近はずっと洗いざらしたリラックマのTシャツを着ていたのに。
だが、水希は入口に立ったまま何も話そうとしない。俺も黙ったまま水希をじっと見つめる。それでも水希は沈黙したまま逆に俺を見つめ返す。
「どうした。また逃げ出したくなったか」
水希は俺を睨みつけ、次いで強い視線で言い切った。
「逃げるんじゃなく、攻めに転じるんです」
水希は書類ファイルをバッグから取り出して言った。
「復帰戦です。師匠からお客様の紹介をもらいました」
いきなりの話に、俺は調子を合わせられず気のない返事を返した。すると水希は意地悪な視線を向ける。
「で、雅人は修行と言いつつ逃げ込みっぱなしですか」
「逃げていて悪いかよ」
「悪くはないですよ、雅人の自由ですから」
俺は水希を追い出そうとする。だが水希の肩を押しかけたところで、水希は耳元で囁くように言った。
「荷物持ちぐらい、いても構わないんですけど」
水希はそっぽを向いてバッグを目の前で揺らしてみせる。布団の中で考えていた迷いが頭の中を巡り、俺は黙り込んでうつむいてしまう。
「荷物持ちぐらい、いても構わないんですけど」
水希があらためて、ゆっくりと同じ台詞を吐いて俺をじっと見つめる。俺は黙って水希のバッグを受け取った。
何の営業かも訊かずに下山したところ、水希は訪問型の楽器販売だという。カラオケボックスを経営していた会社が多角経営で始めたそうで、ギターが中心らしい。
訪問先は札幌のススキノにあり、少し変わり者のママが経営しているスナックだという。俺たちは地下鉄を降りると、地図と携帯の地図を見ながら探し始めた。
「冷血機械女はああ見えてヴィジュアル系バンドやってたから、音楽やってる人に説明は上手いみたいですよ」
冷たい印象のあの女が、髪を染めたりしてライトを受けて舞台に立つなんて想像がつかない。水希は慣れた調子で街中をすり抜けながら進んでいく。水希と一緒のせいか、呼び込みの男たちに声をかけられずに済む。
ススキノの外れまで歩いたところで、やっと水希は一軒のビルを指差した。地下への看板にはファンシーな絵柄のタロット占い店とジャズ中心の中古レコード屋が書かれており、仰ぎ見ると軽薄なピンク色のメイド喫茶の看板と、濃い紫色に「明美」とだけ書いてある場末の昭和臭い看板が並んでいて、何とも混沌としたビルだ。
「今回は『スナック明美』のママさんを訪問します」
俺と水希は修行中に習った、落ち着くための呪文を唱えた。山を離れるとやはり、掌に人の字を書く程度のものにしか思えないが、今回はすがっておきたい気分だ。
俺たちはエレベータで上ると木造の扉の前に立った。扉はクレジットカードの表示すらなくぴったりと閉じており、看板に明かりがなければ空き店舗にすら見える。
水希が扉を開けると、和服姿のママらしき人がカウンターに独りで立っていた。四十代後半辺りだろうか。
「残念、お客さんじゃなく龍心くんのお弟子さんかあ」
年齢のわりに幼い口調で俺たちに微笑む。水希は軽く深呼吸すると早口で自己紹介し、ギターの写真が載ったカタログをバッグから取り出してカウンターに置いた。
ママはカタログを手に取ると、ぱらぱらとページをめくっていく。時折途中で手を止めて天井をじっと睨む。
そして最後のページまでいくと、カタログをカウンターに置き、黙って奥の厨房に行ってしまった。
ママはギターを手にして再び現れると、いきなり何かの曲を弾き始めた。静かにつま弾くような旋律から始まり、途中から急に和服姿には全く似つかわしくない、激しく刻むような不安を搔き立てる曲調に変わる。和服とギターの不安な音が頭の中でどうにも一致せず、店の中の空気が急に薄くなったような息苦しさを感じた。
「メタリカのザ・コール・オブ・クトゥルー」
水希が冷静な声で呟くように言う。ママがぴたりと手を止め、水希の目を覗き込んだ。水希は一瞬うつむき、だがすぐに正面から目を合わせる。
合格、とママは言って水希の額を指でつついた。
「でも、あんたがメタリカを聴くとは思えない」
「申し訳ありませんが、お客様も和服でメタリカとは」
メタリカって誰、と思わず俺が呟くと、二人は俺の方を見て溜息をつく。二人の態度に苛立ったが、今は我慢して無表情を決め込んだ。だが先ほど水希が口にした、曲の題名らしき言葉が気になって訊いた。
「ザ・コール・オブ・クトゥルーって」
「ラヴクラフトが書いた『クトゥルーの呼び声』を下敷にした、ヘヴィメタルの名曲ですよ」
水希が教科書を読み上げる調子で答える。龍心さんのご本尊様と由来が一緒ということか。ママはギターを乱暴に壁に立てかけて自嘲的に笑って言った。
「クトゥルーの宇宙的恐怖より、今は仕入先からの請求書とメイド喫茶のメイドさんの若さの方が怖いよ」
ママは懐から取り出した赤いマルボロをゆったりとふかした。先ほどのギターを弾いていた凄みは完全に消え去り、平凡なスナックのママにしか見えなくなる。
ママはロックグラスを二つ取り出して丸い氷を放り込み、バーボンを注いで俺たちに飲むよう促した。迷って水希に目を向けると、水希は恐れるような顔でグラスを睨んでいる。確かに、水希は薄い酎ハイ程度でも簡単に酔っ払ってしまいそうな雰囲気の子だ。
水希は泣きそうな顔で俺の横にぴったりと寄り添う。ふわりと甘い香りが漂い、次いで右足を激痛が襲った。水希のハイヒールが足に食い込んでいる。だが水希は鬼のような顔で声を出さずに口をぱくぱくさせる。
どうせ荷物持ちの報われないピンチヒッターだよ、俺は。諦めて俺は無表情で自分のバーボンを飲み干した。ママが忍び笑いしながら水をくれる。その水も半分を飲み干し、続けて水希のバーボンも飲み干してやる。
水希がそっと俺の右手に左手を添えた。ママがゆっくりと拍手し、次いで悪戯っぽく笑った。
「荷物持ちの子にも良い出番があって良かったね」
「俺、地味に慎ましく目立たずに、で満足っすよ」
「龍心くんの弟子って時点で、地味とか諦めなさいよ」
ママはグラスを下げ、あらためて俺には焼酎の水割りを、水希にはカシスソーダを手渡した。
焼酎を呷ると、深まった酔いがさらに思考を崩していく。水希も俺を追うようにカシスソーダを飲み干した。
バーボンのロックを立て続けに二杯も空けるとは俺も無茶をしたものだ。水希を助ける義理なんてないのに。そもそも、祖母の口車に乗ったのが失敗だった。勢いで龍心さんの山に逃げ込んでいなければ、今頃は。
「今頃は、どうしていたの?」
俺は声に出していたのか。水希は冷たい言葉を重ねる。
「まだまだ全てから逃げていたんじゃないの?」
うるせえよ前向き娘、と自棄になって水希の手を振り払った。ママが再びカシスソーダを水希に渡す。水希はすぐにグラスを空け、俺を赤い目で見据えて呟いた。
「私は、ずっと逃げていたよ」
俺が聞き返すと、水希は急に早口でまくしたてた。
「ずっと逃げていたの。オタクで引っ込み思案でそのくせ自分の趣味で押せそうなお客様には突撃できずにぐじぐじして冷血女にそのお客様も横取りされて嘲笑われて自宅に帰ってお母さんに今日は結構売れたんだよなんて嘘ついて泣き声が聞こえないようにシャワー出しっ放しにしてお風呂の中で泣いて! そんな毎日!」
唐突な激しい告白を、ママは優しい声で諭した。
「水希、だっけ? 逃げてなかったでしょ、それ」
「逃げてましたよ。その場に蹲っていただけだもの。あのままなら最後はどこに逃げていたか、今はわかる」
手の甲に水希の爪が食い込んでくる。俺は水希の後頭部を軽く撫で、全部は言うな、と声をかけた。
ママが再びザ・コール・オブ・クトゥルーを弾き始めた。刻む不安な旋律が俺の思考に輪郭を与え始める。
俺は爪痕の残った手の甲をじっと見つめた。俺は本当に龍心さんの下へ戻るのか。いや、水希と一緒に降りた時点で、きっと俺も山を卒業させられたのだ。だから俺は無関係なはずの水希を助ける気になったのだ。
「馬鹿みたいだ。ギターを売りに来たはずなのに酒を飲んで過去を告白して、俺たちは何をやっているんだ」
俺の呟きに、ママは明るく笑いながら言った。
「このぐらい良いでしょ。原作だと『名状しがたくも恐るべき宇宙の原罪』に触れたら狂っちゃうんだし」
水希が袖で顔を拭いながらやっと笑った。俺も数歩遅れて、例のご本尊様のことだと気づいて笑ってしまう。ママはギターを床に降ろすと水希のパンフを丸めて掌で叩き、知り合いの子に薦めておくよ、と微笑んだ。
水希が少し苦しそうながらもグラスを空けて深々と頭を下げたので、俺も慌てて頭を下げて店を後にした。
ビルの外に出ると、水希は先ほどの不安な旋律を鼻歌で歌い始めた。酔いに染まった赤い頰のせいかいつもより幼く見え、不安な旋律を口ずさむ姿は奇妙なはずなのだが、今はむしろ親しみを感じて安心な気持ちになる。
水希は独り言のように冷血女のことを語った。
「実は優秀な従姉妹なの。あの従姉妹のコネで入社させてもらったんだけど私、駄目っ子で。よくわかんないけど龍心師匠のとこに預けられたの。本当は、優しいの」
俺はすぐに法事にいた親戚たちの視線を思い出した。そんな優しさは肌を筵で包みこむような痛い優しさだ。
「水希は、これからまた、楽器を売っていくのか」
水希は空を仰いで、ゆっくりと首を横に振った。そして俺の方を見つめると、雅人は、と呟くように訊く。
「俺も野垂れ死にしない程度に何とかするさ」
水希が笑って携帯を取り出し、連絡先、と上目遣いで言う。俺も慌てて携帯を取り出すと電話番号とアドレスを交換した。遂に修行場からも水希からも離れてしまうんだな、と実感して少し寂しい気分になる。
「連絡、絶対に下さい。ただしナンパ以外で。営業電話でも訊いてあげるぐらいはします。契約しないけど」
「俺たち、同じクトゥルー暗黒神話教徒だからな」
「クトゥルーは邪神だから、破滅しちゃいますよ」
お前と話せるならそんな破滅は気にならない、なんて言葉は、まだ今の俺には言う資格がないと思う。俺は愛しい不安な旋律を口笛で吹きながら家路についた。
文芸船 — profile & mail