「別れよっか」
長い沈黙を挟んだ突然の言葉に、あたしは冗談だよ、という彼の笑い声を待った。でも期待の台詞は続かない。
「どう? 別れた方が良いと思うんだけど」
勇治はさっきの表情のままで繰り返す。あたしは紅茶で喉を湿らすと、自分でも意外なほど冷静な声で答えた。
「良いよ、別に」
唇からこぼれた言葉が妙に大きく聞こえる。無意味な雑音にしか思えないほど、私の声は冷めきっていた。勇治は笑っちゃいそうなほどあっさりした声であたしに念押しをする。あたしはまた乾いた声で返した。勇治はいつもの安心した表情を浮かべて伝票を持つと、喫茶店のドアを開ける。あたしは独り、冷めた紅茶をすすりながら彼の背中を見送った。
十六歳、あたしの初失恋だった。
店を出て、いつもは絶対に入らない駅のトイレに駆け込む。やっぱり中の不潔さから顔を背けてしまう。なのにドアを閉めていきなり吐いた。胃液が喉を焼いた。でも吐き続けた。
初めは風邪でもひいたのかと思ったけど。すぐに間違いだって気付いた。勇治とのキスを思い出したから。彼が以前に触った体の部分が全て穢れて思えた。今いるトイレの不潔さはむしろそんな自分にお似合いのように思えた。
最低。
こんなことぐらいで冷静になれない自身が理解できなかった。悔しかった。でもそれ以上に別れの瞬間まで冷静だった自分に吐き気を催していた。それでもやっと落ち着きを取り戻し、おぼつかない足どりでホームへと半分無意識のままに足を運んだ。
足下に延びる線路が今日だけは妙に優しげに思えた。発車のベルがいつもより遠い音で鳴っている。扉が閉まる。ベルが鳴り止む。車体の正面のランプが滑稽に光る。微かに揺れる風は肉体を捨てても許してくれそうに思えた。足取りが軽い。誘われて歩くのが心地良い。
いきなり体が後ろに引っ張られた。直後に顔前を地下鉄が猛風とともに走っていく。髪を吹き上げる風が今さらながらあたしの心臓に恐怖を撒き散らした。肩を揺すられ、人波の光景が目眩とともに現実に戻る。周りから無言の視線が体を突き刺していた。無関心を装いながらも冷たい視線を送る中年の男たち。説教でもしたそうな顔でこっちを指さすおばさん。無意味に笑ってる同年代の女の子。でも、そんな視線の中にたった一つだけあたしを心配そうに見つめてくれる瞳があった。
知らないおじさんは心配げにあたしの顔を覗き込む。あたしは怯えた兎みたいに様子を窺い、自分で思いもしない台詞を口にした。
「ちょっとだけお時間、頂けますか?」
本屋に飛び込んだり、ファッション系のショーウインドウを覗いたりしながらあたしたちは地下街をぶらついた。おじさんはこんな身勝手なあたしと一緒にいてくれた。ほんと、運の悪いおじさん。変な小娘を助けたばっかりに引っ張り回されて。
それでもさすがにおじさんも我慢できなくなったようだ。おじさんは良い喫茶店があるんだけど、という。悪意のなさそうなおじさんの笑顔に、あたしはなんとなくうなずいてしまう。
おじさんはあたしを連れて地下街を出た。外はいつのまにか夕暮れの冷たい空気が街の中を駆け巡っていた。しばらく歩いた末、やっとおじさんはコーヒーカップをかたどった小さな看板を指さした。中から漏れる橙色の光があたしのを優しく包んでくれそうに思った。
おじさんはショーケースの見本を指さしながらケーキの名前を色々と挙げていく。子ども扱いされるのが今はなぜか嬉しかった。大人じゃなくて良い、そんな安心感。それがあたしをほんの少しだけ微笑ませた。
結局、あたしはロシアンティーを頼んだ。ロシアンティーっていうのは、ジャムを舐めたり溶かしたりして飲む紅茶のことだ。あたしたちはウェートレスさんの復唱に一緒にうなずき、黙って飲み物の届くのを待つ。その間あたしは店の中を見回した。
ちょっと変わったお店だった。店の床には雪の結晶があしらわれ、テーブルと椅子も白で統一している。雪からそのまま白だけ吸い取って張り付けてしまった、そんな風にも思えた。
やっと飲み物が運ばれてきた。紅茶のジャムは薔薇の花びらのジャムで、口に含んだ途端に甘い花の香りが胸一杯に広がる。汚れたあたしの肺が浄められる、そんな錯覚が心地よかった。
「ロシアンティーなんてお洒落なもの知ってるね」
おじさんは何気ない調子で言った。あたしはうなずき、そしてすぐに後悔した。だって。ロシアンティーを教えてくれた人は。別れた人。ただ後悔しか残さなかった人。
涙がカップの中に落ちた。慌てて顔を拭ったけど、おじさんに見られてしまった。でも、おじさんは何もなかったような軽い声で言った。
「なら勝手に話してみたら。独り言」
独り言? なら。話しても。あたしは一気にまくしたてた。勇治との出逢い。初めてのデート。キス。別れまで全てをこの知らないおじさんに話した。おじさんは無関心そうな表情で、でもじっとあたしの言葉に耳を傾けてくれていた。
あたしの長ったらしい告白タイムが終わると、なぜかおじさんはいきなりウェイトレスさんを呼ぶと、雪のデザートを二つ、とオーダーした。少しして、先ほどのウェイトレスさんはガラスの器を持って現れた。ガラスの器には小さな雪山があり、中には葡萄、オレンジ、桃、キウイにライチ。そんなフルーツが素敵に埋もれている。
「この店はね、高い山から運んできた本物の雪で、雪のデザートを作るんだ」
そっと雪を舌に載せてみる。なんとなくかき氷と違った懐かしい味がするような気がする。子どもの頃に雪山で雪玉をかじったときに味わった、あの喉ごし。ふと上目遣いでおじさんの様子を窺うと、おじさんは微笑んでまた妙な話を始める。
「肉を保存するとき、普通は冷凍しますよね。でも凍らせ方によっては駄目になるんです」
変な話する人だな、そんなこと思いながらもあたしは眉をひそめてうなずく。おじさんはまた話を進めた。
「でね、魚のすり身に糖を混ぜて凍らせると長持ちするんだ」
また頷きだけで返事をした。おじさんは続ける。
「彼との甘い思い出を捨てたんですか? それじゃ思い出が壊れても仕方ないですよね」
言われてやっと思い出した。初デートの日の緊張。失敗したときの慰めの声。大失敗した手作りチョコ、顔色を変えないで食べてくれた。そんな彼のこと全部否定してた。
本気で好きだった。どこかでねじれちゃったけど、彼との時間が無駄だったなんて嘘。やっぱ素敵だった。いつのまにか悔し涙じゃない、ほんとの自然な涙が気持ち良く溢れてくる。腐りかけの記憶を清潔な思い出に凍結し直してくれた。なぜか、彼への恨めしい気持ちはすっかり消え去っていた。
あたしは姿勢を正して名前を訊いた。するとおじさん小さな名刺で答えてくれた。名前は「花林樹」。近所にある大学の住所が書いてある。名刺を見つめていると、おじさんは名刺にある校章を指差した。それは、小さく三枚の長い花びらを持った花の図案だ。
「シロバナエンレイソウって言うんだ。春になれば大学でも咲くから見においで」
あたしは最高の笑顔で思いっきりうなずいた。
「エンレイソウって知ってる? すっごくきれいなんだって。見に行こうよ」
騒々しいわりに花好きな親友の薫の誘いで、あたしは初失恋から助けてくれた不思議なおじさんを思い出した。もう二年も経つのに、あのおじさんが言ってくれた言葉だけは耳の奥で精密に蘇る。あたしは妙に胸騒ぎがして、すぐに薫の後を追った。
林に着いたとたん、足下で純白の花びらが三枚、静かに咲いているのが目に入った。あたしは即座に叫ぶ。
「薫、あれがエンレイソウだよ」
せっかく教えたのに、薫はすぐに落ち着きなく林の中を見て回る。そのうち一本の木を指さして笑い声をあげた。
「この木ったら名前があるよ。『花林の樹』だって!」
あたしはその名前に飛び上がりそうになった。靴が汚れるのも構わずに泥道を走って木のそばに駆け寄った。あたしは吸い寄せられるように取り付けられた札の説明を目で辿った。
『この木は凍結の研究で著名な故・花林教授が愛した木です』
『花林教授』の死亡年は遥かあたしの生まれる前。思わず木に腕を回してみる。そのまま頰を寄せたとき声が聞こえた。
『元気そうだね』
「おじさん?」
思わず叫んだ。でもそれっきり。何ももう聞こえはしない。今日は薫にロシアンティーの味を教えてあげようと思った。
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