着信が鳴った途端、私は飛びついて携帯を開けた。思ったとおり、いつものメール。
元気でやってるか。俺は頑張ってるぞ
変わらない書き出し。というか、ほとんどの日はこの一文で終わっている。もちろん今日もこの一言だけだ。それでも淳の筆不精、というかメール不精はよく知っている。毎日送ってくれる、それだけでも嬉しいと思う。私は返信を選んで少し考え込む。
今日あったこと。明日の仕事。テレビの話題。それから、今日はどんな言葉で締めようか。来週はバレンタインだし。でも予告するのも気恥ずかしい。
結局、平凡に今日あったことを書き『またね』と締めて送信ボタンを押した。送信画面が現れ、次いで送信完了の文字が表示される。私は溜息をついて再びカレンダーを見上げた。
淳と正月に会って以来、既に一ヶ月以上も経ってしまった。遠距離恋愛ではそうそう逢えない。夏場なら日曜日に車で六時間かけて来てくれたこともあったけれど、雪道が滑る上に吹雪の多い峠もある道路を無理させるのは気がひける。ねだってはいけないと自分に言い聞かせている。
それにしても。逢えないとわかっていながらカレンダーのバレンタインデーに印をつけてしまったのは失敗だったかもしれない。余計に寂しさが募ってしまう。淳はチョコだけが恋愛じゃないだろ、って笑っていたけれど。でもそのこだわりが重要なのだ。そこが男はいまいちよくわかっていない気がする。
新聞に挟まってきたバレンタインの広告を眺める。遠距離向けバレンタイン配達、なんて嫌味なほどにぴったりな広告を見て、逆に意地でも買わないぞと思う。今年は思い切って手作りでもしてみようか。でも思ってすぐに、冷蔵庫の整理や後片付けを思って面倒くさくなってくる。
まあとにかく。淳は私のことを好きなんだ、とメールを眺めて独り笑った。
昼休み、お弁当を終えて早めに席に戻ると同僚の堀江さんがパソコンの画面上で見慣れないメールソフトをいじっていた。うちの会社はパソコンに強い人が多いが、中でも堀江さんは転職前の会社で開発に携わっていたそうでおそろしく詳しい。
私は彼の丸っこい背中に、新しいソフトですか、と尋ねる。すると堀江さんは小動物っぽい動きで振り向き、メニューをマウスで指しながらアリバイメール、と答える。私は眉をひそめて彼の画面を覗き込んだ。
「ここに何種類かメールの文章を打ち込んでおくんだ。で、送信時間をセットしてやるとセットした時間に自動で文章を適当に送ってくれるアリバイソフト」
私は笑った。数回なら気づかないかもしれないけど、何回も繰り返したらばれるに決まってる。いかにも堀江さんみたいなIT朴念仁の考えそうなソフトだ。だが、私の指摘に堀江さんはメニューの中から「詳細設定」を開いて言った。
「この詳細設定を使うと、設定時間から適当に遅れたり早めたりして送信してくれるんだ。たまには大幅に遅れる日もあって、その日はちゃんとメールの題が『ごめん!』になる」
よくそんなこと考え付くものだ。私は笑おうとして、ふと彼の画面に浮かぶ「例文」に目を向けた。そこにあったのは、見慣れた文。
元気でやってるか。俺も頑張ってるよ
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ語尾は違うけれど。淳からのメールとそっくりな文章がそこにあった。でも堀江さんは私の沈黙を感心と受け取ったのか、今度は関数がどうしたオブジェクト指向がどうしたと勝手に語り始める。知りたくもない知識を必死で押し付けてくる変な生き物が目の前で唾を飛ばしている。
ちょっと用事。私は彼の話を制すると事務室を飛び出した。そのままトイレに入り、自分の携帯を開ける。彼からのメールに目を走らせる。似たような時間。同じような文章。パソコンからのメール。
チョコ贈るんだ。同僚の女の子からの質問に、少し自慢げに答えた自分の声を思い出してしまう。あんなメールソフトを、何で今日に限って。
堀江さんを恨むのは完全な八つ当たりなのはわかっている。わかっているけど、それでも八つ当たりするしかすべがなかった。携帯に目を落とす。もうすぐ午後の仕事が始まる。自分の制服に目を配る。いつもよりどこか煤けているように見えた。もし目の前に鏡があれば年かさの女子社員と自分の姿がとても似通って見えるだろう、そんなことを思う。
時計が昼休みの終わりを告げた。
元気でやってるか。俺は頑張ってるぞ
再び届く、変わらない文のメール。もう、私の受信メールの中は空っぽだ。私はこれも削除しようとして、いったん手を止めた。
あの変なソフト、そんなに出回っているんだろうか。あの堀江さんが楽しそうにしていたところを見ると、最近出てきたばかりのソフトかもしれない。それどころか堀江さんが作ったばかり、なんて話だったら。堀江さんがいつもの悪戯そうな顔で変な関数とやらを打ち込んで喜んでいる姿を想像し、ぴったりお似合いだなと思う。
もう一度メールを眺める。どうしていつも同じ言葉しか書かないんだよ。でも淳が私よりはパソコンに詳しいことに気づいて再び気持ちが曇ってくる。思い切って電話してしまおうか。だが、仕事中に掛けたときにひそひそ声で返事していたことを思い出して電話帳画面を閉じてしまう。
やっぱり返信画面に切り替える。何文字か打ち込み、消して書き直す。そして書いたのはこの一行だった。
今年のバレンタインは、自分だけで食べます。
送信したあと、私は枕を抱いたままじっと携帯を見つめていた。
返信はなかった。
買う必要なんてないはずなのに。建国記念の休日にわざわざデパートまで遠征して生チョコを買ってしまった。部屋に戻って袋から取り出しテーブルにチョコレートの箱を置く。不機嫌女と、その不機嫌女に買われた運の悪いチョコレート。義理チョコ用にまとめ買いされる雑多なチョコレートの方が幾分幸せそうだ。
こら、生チョコ。いつまで生でいるつもりだよ。焼いてやろうか煮てやろうか。
何を馬鹿なこと言っているんだろう。もちろんチョコレートが答えるはずはない。でも、独りでこんなこと言って遊んでいないと苛立ちが募るばかりだ。あのメールを見て、それでも答えがないなんて。やっぱり堀江さんのアリバイメールだったのだろう。馬鹿だな私。待つ女なんて演歌好きなおばさんの話だ。
包装紙を丁寧に開く。カカオパウダーをまとった上品な大きさの生チョコがハート型に並んでいた。そうか、店員が勧めていたのはこのハート型のせいだったんだ。
少し迷ってから、端のチョコレートを一粒含む。カカオパウダーのビターが強すぎるように思う。中の甘味を求めて舌の上で盛んに転がし始めると玄関のチャイムが鳴った。でも私は無視する。どうせNHKの受信料辺りだろう。だが再びチャイムが鳴る。私は仕方なく立ち上がってドアをそっと開けた。
チョコレート。無愛想な声で、今買ってきたのと同じ会社の箱が目の前に突き出された。ありえないのに。ありえないはずの顔を見上げる。
「外国だと男が贈っても良いらしいんだ。だから、朝からずっと車走らせた」
変な言い訳。こんな所に突っ立って、頭に雪を載せて何を馬鹿なこと言ってるんだろう。反応できずにいると、見せつけるように淳は箱を開けた。中身はホワイトチョコレートだ。彼の頭に載った雪がどんどん溶けて肩が濡れていく。私は慌てて彼の手を取った。
「チャイム鳴らすの迷ってて。ずっと立ってた」
本当に、ほんっとに馬鹿。こんな馬鹿だから私は。
私は彼のチョコレートを一粒奪うと、口に含んで唇を重ねた。
文芸船 — profile & mail