馴染みのバーのドアをくぐると、今日はいつもの席に見慣れない男がいた。少しだけ通路との間が狭いせいか、いつも奥の席は空いていたのだ。私はそこで他人の視線から離れ、壁に掛けられた故郷の風景画を観るのが好きなのだ。だが結局は渋々別の席に座り、横目でこの男を観察した。
「マルガリータ」
男は呟くように注文を発した。マルガリータはフルーツの爽やかさと上品な白色が特長のカクテルだ。彼は目の前の杯に期待に満ちた表情でグラスに口をつける。しかし彼はすぐに落胆の表情を浮かべた。バーテンの横田さんが慌てた様子で声を掛ける。彼はあまりに真面目で気が小さすぎる。しかしその性格が逆に幸いして、この街のバーテンの間では隙のないカクテルをつくると評判らしい。そんな横田さんにとって失敗は大事なのだ。だが、男の返答は奇妙なものだった。
「申し訳ありません。今のマルガリータは完璧でした。でも、僕の欲しかった『マルガリータ』とは違うんですよ」
横田さんは首をかしげ、アレンジかな、と考え込む。男は慌てて手を振るとグラスの中身を空けて腰を上げようとする。私はちょっとこの奇妙な客が惜しいような気分になって、彼のそばに寄ると声をかけた。
「あの、ちょっと他のものでも飲んでいきませんか。せっかくのお酒の席じゃないですか」
しつこい説得に彼は小さく嘆息して元の席に戻る。私は早速彼の隣に席を移して話しかけた。
「失礼ですけどさっきの話、聞かせてくれません?」
彼は返事の代わりに冷たい視線を向ける。確かに、初対面のくせに身勝手な奴だと自分でも思う。とくにカクテルバーは一般に、居酒屋の酔っぱらいとは正反対の客層だ。とはいえ、私はその数少ない例外なわけで。男はもう一度私をじっと見つめる。私は敵意のないことを示そうと、思いっきりな笑顔をみせた。男は面白い人だね、とどこか懐かしい笑顔で応える。
「よく言われるんですよ、愛玩犬みたいだって。私は久野有季、って言います。よろしく」
いきなりの自己紹介に、男は面食らった様子で慌ててポケットを探る。しばらくして名刺を取り出すと私の前に突き出した。岸田高次、とある。そのままテーブルに置きかけ何かが引っかかった。私はもう一度名刺を見直す。記憶を辿りながら男の顔をじっと見つめ、出身地を訊いた。男は小樽市だと答える。やはり私の同郷だ。私は男の背中に掛かっている風景画に視線を向けながら更に細かく訊いた。
「オタモイ、って言う場所で、昭和初期には」
思ったとおりの答えに、私は言葉を引き取る。
「景勝地ってことでお金持ちが来てた、って言いたいんでしょ」
男、いや高次くんは私の言葉に驚いた表情を浮かべる。次いで彼は眉をひそめて考え、今度は目を大きく見開いて呟いた。
「まさか、ユッキ?」
懐かしい呼び名に私は頰が緩む。とたん、高次くんは叫んだ。
「何で? ユッキが何でここに?」
「就職先がこの街なんだもん。高次くんこそ何してんのよ」
「何って俺、まだこっちの大学の学生だよ」
「私だって大学卒業してるけど、あんたって要領悪かったっけ」
「あいっかわらず口悪いな」
文句を言いながらも高次くんは懐かしいあったかい声で笑う。高次くんの優しい笑い声が大好きだったことを思い出してしまう。ちっちゃかった頃の幼稚で、でも純な感情がかすかに胸の上を掠った。ふと、会話が途切れていることに気づいた。私は横田さんにスクリュードライバーを注文する。
「ちょっと待ってよ、いきなりさあ」
「スクリュードライバーならオレンジ味で飲みやすいでしょ。くどきたい女の子つぶすのに便利だって有名じゃん」
「で、そういうのを女のお前がすすめるわけ?」
「私のこと、怖い?」
犬歯を見せる笑顔を浮かべると、高次くんは小さく吹きだした。うん、妖艶な美女の誘いには受け取られなかったみたいだ。
「やっぱユッキ、いつまでも面白いんだな」
「あんたさ『二十巻一万円ぽっきり今が買いどきコメディ大全集』みたいに言わないでよ」
「何だその『コメディ大全集』って」
「テレビ局の下請け会社あたりで作っていそうな気がしない?」
「どうしてそういうこと思いつくかな」
「そりはおみゃーよりこの私の方が天才な証拠でしょうが!」
私の豪快すぎる笑い声に、高次くんはひいちゃったようだ。だけどこのぐらいでひるむ私じゃない。そしてそんな私のこと。
「そうだもんな、お前だもんな」
これだけの返事してくれる。大切な。大切な旧友。大切なはずだった。ずっと、ずっと連絡一つなかったけど。急に黙り込んだ私を、高次くんは怪訝な表情で覗き込む。でもまだ私は元の調子に戻れない。だから何となくスクリュードライバーを喉に流し込んだ。舌にオレンジジュースの甘さが広がり、その陰でウォッカのアルコールが口の粘膜を静かに刺激する。
「何でかな。何で変わっちゃうのかな」
何となく呟いてみた。高次くんはゆっくりとうなずくと、私をちょっと叱るような調子で話し始めた。
「ずっと同じでなんていられないよ。大人になるんだから」
「歳なんてとりたくない。お婆ちゃんなんて言われたくない」
「しょうがないだろ。俺だって今まで色々あったんだからさ」
高次くんは笑った、みたいだった。そして残りを飲み干すと、さっきよりは幾分優しい感じで話し始める。
「マルガリータの名前の由来、知ってる?」
首をかしげると、高次くんは横田さんに目を向けた。横田さんはうなずいて優等生の声で説明してくれる。
「ある男が恋人のマルガリータを連れて狩りに出かけたところ、流れ弾が当たって彼女は亡くなったのです。そして後に、その男は自分の創ったカクテルに彼女の名前をつけた、という話です」
私は神妙な顔になり、高次くんをじっと見つめる。高次くんはグラスを手の中で弄びながら話を続けた。
「つきあってる娘が俺にマルガリータを作ってくれたことがあってね。逢えないんだけど」
「逢えない寂しさのあまり、ってやつかな。で、何で逢えないわけ」
「遠距離恋愛」
「なら思いきって行ってきたら。それともよっぽど遠いの?」
高次くんは溜息をつき、くっくっ、と嫌な笑い声をたてる。私は顔をしかめて強い調子で問いを繰り返した。
「あのさ、彼女はどこにいるのかって訊いてんだけど」
「天国」
今度は即座に答え、じっと私を見つめた。私ったらまた酔ってる、そんなこと思って。すぐに高次くんの言葉を頭の中で繰り返した。天国。天国。天国。天国。
「僕の家に来る途中でね。シートベルト、忘れてたんだってさ」
また、高次くんが言葉をぽつっ、と床に落とす。拾いたくない台詞がそのまま床を転がっていた。
「どんな気持ちでマルガリータって名前つけたんだろうな」
もう聞きたくない。こんな愚痴、耳に入れたくない。そんな身勝手なことを思う一方で、高次くんがあまりに哀しかった。空のグラスを見つめる。底に溜まったオレンジ色の滴がどことなく侘びしく思えた。だから私は悪質な注文を発する。
「ストリチナヤのストレート、ノーチェイサーで二つ」
注文したものが何なのか知らないらしく、高次くんは怪訝な表情で私を窺った。私は手短かに疑問に答える。
「ストリチナヤっていうのは有名なウォッカの銘柄」
「ウォッカってのは異常にアルコールが強いロシアの酒だろ。で、そのあとに言ってた、ノーチェイサーってのは何?」
答える前に、手の中に納まるほど小さなグラスが私たちの前に置かれた。満たされた透明な液体はきん、と冷えきっていて、訪れたことのない極寒の地、シベリアの寒風を思わせた。
「チェイサーってのは『追いかける』って意味。強いお酒のストレートに別のグラスで出す水をチェイサーって言うんだ。でも今回はね、そのチェイサーなしで飲もうってわけ。ここできつい思いしてさ、チェイサーは今日限りにしたらどうかな、なんてさ」
無茶なことを言っていることぐらい自分でもわかる。でもほっぽっとく気にはなれなかった。飲んべえでおふざけ娘の私がやれることはこれぐらいしかなかった。私は黙って自分のウォッカを呷る。喉を焼かれ、せきこみそうになる自分を無理に抑え込み、高次くんに視線を向ける。高次くんはグラスを見つめた。唇を舐め、そしていきなりグラスを手にするとウォッカを一息で呷った。彼は口に手を当て、目を少し赤くしてせきこむ。そして。
「サンキュ」
これだけ言って。酒が回ったのか、目をしばたかせて大きい溜息をつく。そんな高次くんを私は黙ったままで見つめていた。しばらくして高次くんはだるそうに立ち上がる。私も慌てて席を立つと、会計を済まして一緒に店を後にした。
外は粉雪が舞っていた。冷たい空気が火照った頰に心地良い。何も言わずに空を見上げていると、高次くんは私の肩に手を置いた。それでも黙っていると、高次くんはようやく口を開いた。
「俺、今日で終わりにするよ。マルガリータ探し。でも、他の娘とはまだまだつき合えないな」
「ほーお、じゃあこの私は駄目、ってことかいな」
こんなふざけた返事をしてやると、やっと高次くんは肩に置いていた手を離した。だから私は真面目な声音で敢えて訊く。
「ね、また今度ここで飲もうよ。一緒に飲もうか」
高次くんはほんのちょっとだけ黙り、そして小さくうなずいた。けど、そのうなずきは嘘だと思った。たぶんもう、この店に高次くんは来ない。でも私は何も気づかない風に手を挙げる。
「よし、今日はここまでだ。さよならっ!」
やっぱり、高次くんは私と反対方向に歩いていった。私は後ろを振り返らずにそのまま独り、アパートへの路を歩いていく。喉に落ちた涙の味に、チェイサーが欲しいと思った。
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