「五稜郭、だっけ?」
遠い外国の話をするような表情で、祐美は慶介が広げたテーブルの地図を物珍しそうに見つめた。転勤の打診があって慌てて買ったばかりの地図はまだ皺もほとんどついていない。転勤する慶介自身は学生時代に函館に住んでいたとはいえ、地図の上には見慣れない店もあり、多少の不安も残る。だいたい付き合っているとはいうものの、正面から恋人同士と言われると気恥しくなるほど日が浅い中での函館本社転勤で遠距離恋愛になるとなれば不安にならないはずがない。
一方の祐美はここ網走市以外にはどこにも住んだ経験がない。旅行を含めても距離感を掴めるのは道東内で、函館のある道南圏となると北海道外と大差はないだろう。だからだろうか、逆に祐美は観光地の目印を指差しては、テレビで見たことがあるとか聞いたこともないとか色々と言っては慶介の反応を楽しんでいるのだ。そんな祐美の気軽な調子に、慶介も昔住んだことのある土地でその上本社勤務ということもあり、次第に乗り気になってきていた。
祐美は小さく笑って言った。
「とりあえず、転勤してもちゃんとメールしてよね」
慶介は当然だと答え、まだ転勤まで時間は残ってるんだよな、と壁のカレンダーを見上げた。転勤は来月で、今日はまだ第二週目だ。今週末ぐらいはまだ引っ越しの準備を考えても時間の余裕はある。祐美は自分のシステム手帳を覗き込み、仕事の予定を確認した。今週末なら何とか休みは貰えるだろう。
「ドライブしない? 週末。しばらく逢えないから」
祐美の提案は慶介にも至極魅力的な企画に聞こえた。いや、それどころか義務であるようにすら感じた。それは、この街を離れる前に必要な儀式だとすら思えた。慶介はうなずいて函館の地図を閉じると、この数年間ですっかり皺になった網走管内の地図を広げた。
網走市の周辺地域は様々な地域名で呼ばれる。現在は北海道庁の出先機関であるオホーツク総合振興局が設置されているが、かつては網走支庁という名称であったため、天気予報などでは網走管内という呼び方が多い。だが明治時代に北見国という行政区分が存在したことや、地域最大の街が北見市であり国の出先機関も複数あることから北見管内と呼ぶ住民もいる。実際、地域の中心都市としての機能は明らかに北見市になるだろう。実際、慶介と祐美も買い物がてら北見市にはよく行っている。
最近、観光関係の団体辺りはオホーツクという呼称がお気に入りのようだ。今回は趣向を変えてオホーツク地域を再確認しよう、という話に落ち着いた。この地域名はオホーツク海に由来する。そもそもこのオホーツクというのは、ツングース語がロシア語化した町の名からきているというのだから国際化も限度を超えている気がしないでもない。だが、このオホーツクという不思議な音の響きは、網走や北見といった街の名前に由来する地域性よりもどこか緩やかな匂いを感じさせる。それは政治や経済といった生々しさよりも、目の前に広がる太洋の印象があるせいなのだろうか。
慶介は祐美を家まで迎えに行くと、北上を開始した。少し走ったところで、助手席側に網走湖が見えてきた。かなり大きな湖だが、それでも湖面は案外静かだ。網走湖は網走川の流れの中流に位置し、上流の流れを溜めては下流に流すような形になっている。ちょうど長い川の中間が大きく膨らんで湖になっているような印象だ。初めて網走に赴任してきたとき、慶介は上流も下流も網走川だと聞いてとっさに意味が理解できなかったものだ。
「湖の上、歩くと面白いんだよ」
祐美が指差したさきの湖は普通にさざ波を立てて水鳥が泳いでいる。祐美は言って慶介の顔をじっと見た。慶介が黙っていると、祐美は話を続けた。
「お正月なら凍ってるから、歩けると思うんだ。こっち来てもまだワカサギ釣りとか行ってないでしょ? 慶介のこと、案内してあげたいな」
正月は網走に戻って来い、と言いたいらしい。慶介が曖昧にうなずくと祐美はかすかに眉をひそめる。だが慶介は敢えて気づかないふりをする。祐美は煮え切らない雰囲気のまま、手元の飴を口に放り込むと噛み砕いた。慶介は上手いことを言おうと考えたが、なぜか言葉が出てこない。軽く、正月一緒に行こうぜ、ぐらいのことを言っておけば良い話なのに。だが頭の中には本社勤務の四文字が躍る。本社は年末年始は特別な勤務体制になると聞いている。新人の自分が正月休みをゆっくり取れる自信がない。
「慶介、仕事熱心だもんね。良いんだよ。そんな慶介のこと、好きだから」
ありがと、とやっと安心した声で返す。祐美はまた一粒、飴を口に放り込むと噛み砕いた。
暫く走ると、運転席側に小さな漁港が見えてくる。
「こちらが能取湖でございまーす」
祐美はバスガイドを真似た声色で窓の外を指差した。やっぱりオホーツクって違うよな、と慶介は呟く。祐美はシートベルトを手で押さえながら伸び上がって眺めた。
「こういう湖って、函館の方はないんだよね」
慶介の言葉に祐美は再び首をかしげる。慶介の思う湖の印象が上手く伝わらなかったらしい。祐美は天井を見上げて言った。
「函館って、大沼とかいう沼だっけ? あるんでしょ」
慶介は苦笑して、あんな漁船なんてあるはずないよ、と窓の外に見える船室を備えた漁船を指差した。普通の湖って漁師さんはいないんだ、と祐美が呟く。その呟きに慶介は理由のわからないかすかな不安を感じた。別に祐美はそんなにものを知らない娘ではない。その祐美でも当然と思っている、この網走以外の湖ではありえないほど巨大な漁船たち。祐美にも不安が伝わったのか、車内に重苦しい空気が漂った。慶介は手をオーディオに伸ばす。だが祐美はその手を押さえた。
慶介の声だけで良いな。祐美の言葉に慶介は思い直す。サイドミラーに写った祐美の横顔に寂しさが浮かんでいた。慶介は黙ってハンドルを握り直した。
しばらく黙って走っていると、祐美が金色、と声を上げた。祐美が指差した丘は金色の波に覆われていた。一面が麦畑なのだ。慶介は安堵の溜息をつく。祐美もはしゃいだ声で喋り始めた。
「私、この色が大好きなんだよ」
慶介も乗ってはしゃいだ声で反応した。慶介は今この色に一目惚れした、という方が正しいのだが。それでもなぜか、慶介は昔からこの色を知っていたような懐かしい気分に包まれた。良い色だよね、と祐美が繰り返す。慶介はうなずき、左手をハンドルから離した。すると祐美がそっと慶介の手を包んだ。
「運転中だぞ」
「オートマのくせに生意気言ってる」
祐美は小さく笑い、ますます強めに握ってくる。慶介が握り返すと祐美は安心したように力を抜き、慶介の指の腹を撫でた。道路はしばらく単調だ。もう少し、祐美の感触に委ねてみようと思った。
海に似た、だが穏やか過ぎる水面が見えてきた。サロマ湖だ。慶介が親指で指すと祐美は黙ってうなずく。少し走ると木製の看板が見えてきた。サロマ湖を眺められる休憩スポットだ。車を止めると、二人は揃って車外へと降り立った。
サロマ湖は非常に広く、その上海に開口している汽水湖であるため、湖という印象はあまりに薄い。実際、ホタテを代表とする特産物の多くは海のもので、水面を走る船影も海の漁船と全く違いがない。釣り好きの同僚の話だと、釣りのルールもだいたいは海とほとんど同じなのだそうだ。
二人は湖をじっと見つめた。さざ波が立ち、様々な青が入り混じった湖水に惹きこまれそうになる。慶介はふと波打ち際に目をやった。そこは静かに水が揺れているだけだ。海なら当然ある潮の満ち引きが、ここにはほとんどないのだ。
「波がない」
慶介は呟いて波打ち際を指差す。祐美も目をやり、今初めて気づいた声で答えた。
「やっぱり、湖なんだ」
祐美は耳を澄ました。潮音はほとんど聞こえない。サロマ湖も他の湖と同じように、海と異なって寡黙な水面だった。空と水面の境界は海の中に空が溶け込んでいくような曖昧な光を含んでいる。深呼吸すると、海なら当然あるはずの磯の匂いがほとんど感じられない。その代わり、水草に似た不思議な匂いがうっすらと漂っていた。
祐美は慶介の肩に頰を寄せた。慶介の鼻腔に乾燥した透明な陽射しの匂いが漂う。薄い祐美の肩を抱き寄せながら、慶介は原因の見えないもどかしい不安を感じる。帰ろ、と祐美は呟き慶介の上着の端を握った。慶介はでも、と言って道路の向こうに目を向ける。
まだ道路は続いているじゃないか。だが祐美は小さく頭を振って繰り返す。帰ろ。頑固な声で繰り返す。慶介は諦めてうなずくと、車のキーを振って見せた。
噂に聞いてはいたが、函館本社の仕事は網走支社と比べて遥かに厳しいものだった。ふと気を緩めて時計を見上げると二十三時を回っていることも普通になっていた。だが祐美は何となくそれが掴めないらしい。慶介の愚痴にも網走と同じ会社なのに、と訝しげな声で返してしまうことさえある。
それでも慶介は二十二時には必ず携帯電話を開く。祐美の名前は電話帳の別欄に保存しているのですぐに掛けられる。たまには祐美からの電話が鳴る。いや、忙しいからこそ。だからこそ祐美の声が聞きたいのだろう。慶介はなおさら、祐美を求めた。転勤して一年経った頃、慶介は飛行機の往復チケットを祐美に贈った。函館・網走間の直通便はなく札幌経由だ。距離もあるので金額もそれなりにするのだが、それでも慶介は祐美を招くことにした。
時間を打ち合わせるため、いつもより頻繁にメールが入る。少しだけ、共有している時間が長くなる。祐美を少し身近に感じる。祐美も同じ気持ちでいてくれるのだろうか。慶介は不安になる。余計、メールを求めてしまう。仕事が終わった途端にメールを確認している自分に苦笑する。早く函館に来て欲しい。一緒にいたい。
一緒に住みたい。
だが、祐美のメールは相変わらず向こうで一緒にいたときと変わらない、明るくてのんびりした調子のままだった。それがなおさら慶介の気持ちを焦らしていく。日数だけは着実に過ぎていった。
小柄な肩に慣れない様子で掛けたハンドバッグ。両手にぶら下げた不似合いに大きなスポーツバッグ。やたらと空港の中を見回す頭の動き。顔を見なくても慶介はすぐに祐美の姿を見出した。だが妙に気恥ずかしくなって呼び声を飲み込んでしまう。背広に合わせて最近買い換えたばかりの堅苦しいビジネスバッグをそっと胸に抱える。バッグが違うせいで祐美が気づかないなんてないよな。真新しい匂いのするバッグにそっと頰を寄せた。
「慶介、こんなとこにいたの?」
祐美が息を切らせて走り込んできた。思わず慶介はバッグを取り落としてしまう。祐美はあーあ、とわざとらしく言ってバッグを拾うと慶介の胸に押し付け、次いで自分のスポーツバッグを慶介に当然の顔で渡した。
「どしたの? ぼんやりして」
言って祐美は上機嫌に慶介の頰をつつく。慶介ははっとして鞄をしっかり持ち直し、祐美を伴って車に向かった。だが車を発進して間もなく、祐美は横の車列に機嫌が悪くなった。
ここが本当は一車線か二車線なのか慶介に確認したのだが、やはり一車線を実際には二車線で走ってしまうという函館独特の流儀が気に食わないらしい。その上、路面電車が車の横を走っていくのも、ほんの数分間で慣れられる代物ではないようだ。それはそうだろう、郊外に行けば一本道で、場所によっては道路を渡るのは鹿が一番多かったりする土地でしか車を運転したことがないのだから。祐美は少し苛立った声で、まだ着かないの、と繰り返す。
慶介は後部座席を指差して函館情報誌を指差した。祐美は慶介が折り目を入れた箇所を捲ると、甘いもの苦手じゃなかったっけ、と言って小さく笑う。祐美の指摘に慶介は憮然とした声で、じゃあ止めとくか、と言った。だが、かすかに赤く染まった頰はあからさまで、祐美は吹き出しそうなのを堪えながら人差し指でつついてからかう。慶介はますます無理に不機嫌な顔をしながらハンドルをケーキ店へと切った。
奥の席で騒いでいる女子高生たちのテーブルを眺めながら、方言強いね、と祐美は呟いた。慶介はうなずきながらも、今の自分の喋り方が函館訛りではなかったか、と疑問を感じる。函館の訛りは単語そのものの違いよりもむしろ、発音やアクセントが特徴だ。そのせいか、単語そのものが全く異なる九州の人よりも標準語との差異を見極めるのが難しい。だが、その特有のアクセントは他の地域の人からは聞き取りにくい部類に入るだろう。
「網走弁ってどんなのだろ」
祐美の疑問に慶介は返事に困る。慶介自身、初めて網走に行ったときに方言で苦しんだ覚えがない。ほとんど札幌と何も変わらないような気がする。
ふとサロマ湖の風景が急に思い出された。サロマ湖、能取湖、藻琴湖。沢山の湖があり、そのいずれもがアイヌ語由来の日本語とはかけ離れた音を持っていた。中にはチミケップ湖のように、日本語化を放棄してしまったような場所すらずいぶんとあったように思う。
湖のことを話すと、祐美は網走にいたときのように饒舌になった。うなずく慶介に、祐美はやっと緩んだ表情を見せ始める。祐美は最後に巡ったドライブの思い出話を一通りすると、ぽつりとまとめるように言った。
「やっぱり、湖って好き」
慶介は同意しながら道南の地図を頭に思い浮かべた。道南に湖はそんなにあっただろうか。考え込む慶介に、函館はイカの街だから海だよね、と笑う。慶介は車の鍵を握って言った。
「函館の海、見てみる?」
祐美は何も考えていない笑顔でうなずいた。
「なんか、元気だよ」
祐美に言わせると津軽海峡もずいぶんと子供っぽくなるものだ。祐美が函館の海を見た感想がこれだった。日本海から津軽海峡にかけての海は荒く、濃厚な青にも関わらず透明だ。それは美しくもあり、生物資源の少なさを示す証拠でもある。だが祐美にとっては荒々しさはただ、元気だ、という表現に収まってしまうらしい。祐美は身を震わせて言葉を加えた。
「でも、青すぎて眩しい」
慶介が首をかしげると、祐美はどうでも良いことのように数回頭を振って携帯電話を取り出した。祐美は黙り込んだまま携帯を開き、何かボタンを数回操作してじっと画面に見入る。慶介が覗き込むと、それは着信履歴だった。ずらりと並んだそのほとんどは慶介の名前だった。祐美はじっと慶介の顔を見上げる。慶介は何となく気まずくなって顔をそむけた。
「電話、多すぎないかな」
いきなりの言葉に慶介は身を強張らせる。祐美はそれでも構わず言葉を続けた。
「電話が来るとね、私もすっごい安心するんだ。でも、安心はするんだけど」
祐美は言葉を切り、目を泳がせる。だが慶介が言葉を発するより先に再び口を開いた。
「話すたび、君が離れて行く」
慶介は言葉を飲み込んだ。何も話せなった。どんな言葉もここには合わない、そんな気がした。自分は何か、大きな間違いを犯したのではないのか。慶介は腕時計に目をやった。あと数時間も経てば日没だ。夜景でも見に行こうか。慶介は全く場違いに言った。だが祐美は妙に動じることなく、良いよ、と答える。
安堵して良いのだろうか。祐美の顔をじっと見つめる。なぜか祐美の表情が読めない。網走にいたときなら自分自身の気持ちよりわかるような気がしていた祐美が、どこか他人の匂いがするように思える。
祐美は唐突に言った。
「慶介って、網走に帰って来られるの?」
慶介は曖昧に首をかしげた。ないとは言い切れないが、慶介の会社は元々、道南圏を中心に営業活動を行っている。網走への転勤はそんなにありえる話ではない。
祐美は慶介の表情を見て、そうなんだ、と小さく呟いた。私も函館に住むのかな、と呟く。だが嬉しいはずの言葉に慶介は妙な違和感を感じた。だから敢えて呟きを聞き取れなかったふりをする。
「君のこと、わかんなくなったよ」
ついに慶介の恐れていた言葉を祐美は発した。ほんのわずか離れていたつもりが、いつの間にか埋められない差を産んでいたのだ。二人の間で、時間が呆然と佇んでいた。
気まずい沈黙の中、祐美は空を仰いで言葉を探した。慶介は落ち着かなく祐美の肩周りに手を泳がせる。だが、祐美は突然身体を翻すと慶介に正面から向き合うように立って言った。
「流氷のない冬は住めない」
次いで祐美は海に目を向けた。網走では見慣れない船が沖を走っていくのが見える。
「クレーンを積んだ船が沖を走ってるの。帰ってきた船がどんどん帆立をトラックに積み替えていくの」
今の祐美にはオホーツク海が見えているようだった。否、彼女にとって海はオホーツク海しかないのだ。青すぎて眩しい、という祐美の言葉を慶介は思い出した。空と海の境界が曖昧なオホーツク海と比べれば、津軽海峡は残酷なほど青すぎたのかもしれない。
仕事なんて捨てても良い。慶介は言いかけたが、祐美に遮られる。祐美は全く落ち着いた声で言い切った。
「私、仕事で頑張ってる慶介が好き」
祐美は慶介の隣に立ち、軽く体重を預ける。祐美の体温が慶介の右腕にほんのりと伝わってくる。
「恋愛、止めよ」
慶介は怒鳴りかけ、だが言葉を飲み込む。自分が負けたことは理解できた。何に負けたのかはわからないが、とにかく自分は完敗したのだ。やはり祐美はあの白い街にいるべきなのだ。知床の鹿を道南に連れて来るような無茶をしたのかもしれない。
祐美は顔を腕に押し付け、くぐもった声で言った。
「友達でいれば良かったね」
慶介は盛んに首を振った。だが祐美は言葉を続ける。
「友達なら別れなんてないもんね。ずっと、ずっと友達でいられるもんね」
何で男なんだよ、言って祐美は慶介の腕を握った。慶介は何も答えられず、そっと祐美の頭を撫でる。だが祐美はその手を振り払うと体を離すと、慶介に背中を向けて空を仰いだ。
「函館から網走になんて、たった十時間で来られるんだよ。友達なら普通に来られるでしょ。彼氏なんかじゃなくても、ね」
慶介の正面に立つ。無理な笑顔をつくる。
「また、遊ぼうね、友達」
海峡の潮風が冷たく頰を叩いた。
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