文芸船

笑ってやる

 彼と別れて、もう一か月半が過ぎた。

 一か月と言えば長そうだけれど、こまごまとした身辺整理などをしていただけで、あっという間に時間が過ぎていく。よりにもよって二月中旬だったから、決算はうるさいし同僚の異動もあるしで散々だった。

 彼はいつも冗談ばかり言っていて、ちょっと面倒臭いところもあったけれど、こういう忙しいときは笑わせてくれるから肩の力が抜けてうれしかった。そんなときに彼がいないと、なおさら負担がひどかったように思える。

 それでも、ちょっとした空き時間。

 帰宅の通勤電車を降りて改札を通り、彼と待ち合わせた場所を見回したとき。

 ランチのあとに飲んだ、彼の好きだったエスプレッソを苦いと思ってしまった瞬間。

 その一つ一つに、彼との時間を思い出してしまう。

 いたずらっぽい笑みで何かを仕掛けてくる彼。そんな彼に激辛カレーを食べさせて仕返しをしてやった日のこと。それが夢の中でまで再生されてしまう。

 忘れられない。忘れたくない。

 それなのに、ほんの少しずつ記憶の輪郭が柔らかくなっていく。

 過ぎ去った思い出になっていく。

 戻らない、時間になる。


 今日は四月一日。黒のセットアップを着て鏡に映した。表情が硬くて額にしわが寄っている。新入社員が来るので、その新人教育を上司から任されているのだ。初めての後輩だから緊張してしまう。こんなとき、いつもの彼なら冗談で笑わせてくれたのに。

 だめだな私。もういない彼のことを、まだ頼っちゃったりして。唇をかんでバッグの中身を確認したところでスマートフォンが鳴った。珍しくメールの着信音だ。

 開いてみると、彼からのメールだった。


 本当に君とさっさと別れられてせいせいしたよ。

 君のことだから、仕事でも後輩教育に失敗すると信じているさ。

 君が仕事でもプライベートでも不幸になるよう祈ってやるよ。

 そんな僕は、ずっと生き続けて君のそばで嘲笑ってやるさ。

 君の笑顔なんて見たくない。君に笑顔は似合わないから。


 ばかだ。本当にばかだ。

 見え見えじゃないか、今日は四月一日、エイプリルフールじゃないか。こんなの全部、嘘のメールじゃないか。わざわざ自動送信まで仕掛けちゃって。

 中でもとくにひっどい嘘がある。

 「ずっと生き続けて」なんて言いやがって。

 もう君、死んじゃったじゃないか。

 君のお骨を二月に拾ったじゃないか。

 もう、四十九日じゃないか。

 嘲笑でもいいから、そばにいてよ。

 別れたくなかったくせにさっさと天国になんて行かないでよ。嘘つきだから地獄かな。私は暑がりだから地獄には行けないって、わかって、いる、くせに。

 涙がこぼれそうになる。天井を仰いで涙を止める。

 好きだったんだぞ。今でも好きなんだよ。

 だから。だから私は君の嘘に応えた。メールの画面に、思いっきりの笑顔を向ける。

 ほんの少し、気持ちが軽くなった気がする。

 私はスマートフォンをジャケットのポケットにねじ込んでパンプスを履くと、玄関の扉を開けた。

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