アンダルシアが好き、という隆雄の言葉に思わず笑ってしまったのはさすがに失礼だっただろうか。でも、情熱とフラメンコのアンダルシア地方は彼の色白で細い腕にはあまりにも不釣合いだと思う。その上悪いことに、彼がカルメンのように踊る姿を想像してしまった私は笑いが止まらなくなってしまった。
そんなに笑わなくても。隆雄は口を尖らせると、戸棚のシェーカーに手を伸ばして、僕の得意なレシピなんだけど、と言って空のシェーカーを振ってみせる。私が首をかしげると、彼はああ、と呟いてなぜか納得の笑みを浮かべた。
「カクテルのアンダルシアですよ」
彼はまた戸棚に手を伸ばすと、カクテル辞典を取り出して私の前に広げて見せる。彼の指したページを覗き込むと、そこには漆黒を背景に金色のショートカクテルが浮かんでいた。
「きれいだし美味しそう」
私の独り言に彼は少し意地悪に笑うとレシピを指差す。そこにはシェリー酒、ホワイトラム、そしてブランデーと三種類の酒だけが並んでいて、甘いリキュールやジュースの名前はどこにもなかった。甘いお酒が好みの私には一口飲むことすら無理なレシピだ。
彼は見た目に似合わずお酒には強い。私も中途半端に強いせいか、彼の調子に惑わされてつい醜態を見せてしまったこともある。それでも彼はカクテルの道具を家に置いてあるほどの酒好きなせいか、酔った私に悪さをしたことはない。その辺は根っからの良い子なのか臆病者なのか、それともまさか私を女として見ていないのか。
時折よぎる彼への疑問に再び私はぶつかってしまった。もちろん余計なことをされたいと思っているわけではない。そうではないけれど、その一方でやはりどうしても気にはなる。初めてルージュをつけた日、嬉しさの影に潜んでいた小さな違和感に似た、居心地の悪い不安。
考え事から戻ると、彼は私の考えていることなど少しもわかっていないような顔で真っ直ぐ私を見つめていた。首をかしげて見詰め返すと、彼は急に強張って首を伸ばして小さく深呼吸してから言った。
「久しぶりに、飲みに行きませんか」
私はもう一度首をかしげ、次いで笑顔で親指を立てると了解のサインをして見せた。
いつまでも物事に慣れられない人がいる。良く考えるなら常に初心なのだが、こと恋愛で慣れてくれないことには前に進まない。そしてその典型が隆雄だと思う。デートなんて言うとすぐに緊張するせいで私まで疲れてしまう。最初のうちはこんなものだろうとか初心な人だと思っていたが、いつまでも緊張がとれないので最近ではデートという言葉をなるべく避けるようにしている。
それにしても、ご飯行こうよと言えば平気な顔で喜んでいるくせに食事と言い換えただけで緊張してしまう彼の神経質さはどういうものだろう。でも、ここまで緊張症なら安心だろうと思う私もずいぶん計算高くなったような気もする。もちろん、彼の硬さを彼だけのせいにするのは少し卑怯かもしれない。就職で出遅れたとはいえ私の方が大学では先輩だった上、小柄な彼のペースを忘れて大股で歩く私の性格もかなり影響してはいるだろう。
とは言え、注文するメニューを迷わず決める辺りはやはり彼は男なのだと思う。でも男にありがちな、任せるという言葉を一度も言わない彼はやはり私にとって心地よい。任せるという人は本当に任せる気でいるわけではなく、俺の気分を汲み取れという小物の暴君の気配があって私は好きになれない。
今日は珍しく、彼の見つけてきたパスタの店で晩御飯を済ました。
「けっこう美味しかったよね」
店先の玄関で言うと、彼は小犬のようにうなずく。私がちょっと褒めるといつも彼は無心に喜んでくれる。そう思って歩き出そうと思ったのだけど、ふとなぜか私の中に違和感が残った。たぶん私でなければ気づかない、彼に対するほんの小さなずれ。彼の周りに漂う空気の肌触りがかすかに違った気がした。
あらためて彼を振り返る。彼はちょっと慌てた様子で小さく笑った。絶対、何か隠している。でも私は彼を問い詰める気にはならなかった。何となく後ろめたさを感じなかったのだ。
彼は腕時計に目を走らせると、クロッカスに行きましょう、とまた少し慌てた様子で言った。クロッカスはオープンカフェ形式のバーで私たちの行きつけの店だ。何を企んでいるのか知らないが、この際乗ってやろう。私は小さく笑うと彼の背中を追った。
クロッカスは少し外れにあるせいか、満席の日はほとんどない。今日も幾つか席が空いていたので、私たちは端の席を選んだ。
席に着くと彼はすぐに、ちょっとトイレと言って注文もせずに席を立ってしまった。お前は子供かとちょっと嫌味を言ってやったが、彼はただ苦笑しただけでそのまま店の奥に引っ込んでしまった。
せめてチーズぐらいは先に注文しておこうと思ったけれど、ウェイターが遠くばかりを回ってこちらには近寄る様子もない。話相手もなく周囲を見回しているうちに、私は次第に不安が募ってきた。彼が何か隠しているのは、実は本当にまずいことではなかったのだろうか。それどころか案外もうすっかり開き直っていて、今日はこの場で一気にぶちまける気でいるのでは。いや、それともトイレに行ったふりをして先に帰ってしまったとか。
遂に私は腰を浮かしかける。するとちょうど一人のウェイターが慌てた様子で駆け寄ってきた。ウェイターは緊張した面持ちで私の顔をじっと見詰める。
「なに、やってんの」
私はあまりのことにそれしか言えない。だが、ウェイターの格好をした隆雄は笑顔で言った。
「来週、出張で逢えないから。今日、先に誕生日をお祝いしようと思って」
私の誕生日。彼の出張のど真ん中だ。彼は気恥ずかしそうに笑うと言った。
「カクテル、飲んでもらえますね」
店の奥でマスターがうなずいてみせる。そういえば他のウェイターも私に視線を向けてはにやけた顔をしている。そうか、初めからみんな計画の仲間だったのか。
彼は店内に戻ると酒瓶を二つほどいじり、そしてロックグラスに入った金色のカクテルを運んできた。テーブルに置いたグラスが氷で涼やかな音を立てた。水面に金色の波が揺れている。
「アンダルシアの金色もきれいだけど、シシリアン・キスなら飲めると思って」
彼は言って笑う。そっと一口飲んでみると、それはちょっときつめの、でも私好みの甘いカクテルだ。彼は席につくと、後手に隠していた小さな紙包みを私の前に置いた。それは単なる誕生日プレゼントとは言えない、彼には精一杯の告白だった。
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