文芸船

本当の家

 家はどちらですか、と訊かれれば普通は今住んでいる家を答えるだろう。単身赴任者や独身者なら、文脈によっては実家なり家族の家を挙げると思う。それが世の中の常識というものだ。だがここで少し捻った問いを発してみよう。「あなたの、本当の家はどちらですか。」

 さて、どう答えるだろうか。気の短い人や家出中なら怒られるかもしれないが、普通なら戸惑うか考え込んでしまうと思う。「本当の」という言葉をつけることで、建物としての家ではなく、「家庭」という文脈上の意味が生きてくるのである。

 私は転勤族で現在住んでいる場所は全く縁のない土地だ。だが出身地を聞かれた場合も、出生地、子供時代、大学時代の土地が全て異なるせいか、相手の言った出身地という言葉が何を意図しているのか戸惑うことがある。実家があって高校時代までを過ごした土地を出身地として答えるようにしているのだが、会話の中でやはり違和感が残ることも多い。それでも実家がある場所なら、たとえ相手の意図とずれていても「実家があるものだから」と言い訳もたつので、迷った場合には実家のある場所を答えてしまう。

 この「出身」という概念は、「今私はそこにいない」という前提と「かつてそこにいた」という事実が同居する言葉だ。さらにここで言う「そこ」は、場所としての意味よりもむしろ組織としての意味が強いように思う。「〜高校出身」「〜部出身」と言った言い方は頻繁に使われる言い回しだろう。そしてこの事実は、例えば「北海道出身」といった地名を語るとき、あたかも地域を組織のように語る。それは同郷意識や差別といった面でも色濃く反映されている。

 このことは住所と家庭という二重の構造を持つ「家」という言葉でも同様に当てはまる。だから「本当の家」と訊かれたときに特有の戸惑いが生まれるのだと思う。それは「心から所属している(していた)家だったのか」という自問を含んだ戸惑いであろう。それは客観的な資産や肩書、仲の良さなどでは割り切れない部分だ。なぜなら、私たちは普段、自身が「心から所属しているのか」という問い自体を考えないからだ。そのような問いは余計なものだし、そして問うこと自体がある種の危険性を伴うことを本能的に嗅ぎ取っているからであろう。

 独身の独り暮らしで、それも引っ越しが想定されるような生活をしていると現住所はいつまで経っても「本当の家」にはなりえないような気がする。それは、住んでいる場所は自分自身だけだからだ。そして自身がいなくなった途端、まるでふらりと立ち寄ったコンビニエンスストアのように全く無縁の場所になってしまう。それはある面、壮大な長期旅行を続けているようなものだと思う。そうなると連休で見られる帰省ラッシュは、うがった見方をすれば旅行の一時中断に似ている。

 そもそも、旅行という行為は帰宅途中に似ているかもしれない。義務から離れるつかの間の休息の時間。旅行と帰宅途中には、その中途半端な時間が共通している。その気だるい、だが浮き立つ感情は、帰着点のある安心感が支えているように私には思える。そしてそれは、「本当の家」に対する憧憬に似ている。

 あらためて訊いてみよう。「あなたの、本当の家はどこですか。」

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