私が中学生の頃、同じ学級に誠という名前の子が五人もいた。私たちは混乱を避けるため、以前は名前で呼ばれていた子も含めて苗字かあだ名で呼ぶようになり、誠と呼ばれる子は一人もいなくなった。それでもたまに、先生が名前で呼んでしまって五人が一斉に返事するという滑稽な場面もあった。これとは逆に、佐藤さんや佐々木さんといった苗字の人は、多くが名前であったりフルネームで呼ばれることが多い。中には中年になっても取引先からすらあだ名で呼ばれている人もいたりする。
古い時代には名前に神秘性を見いだし、言霊信仰など名前を秘匿する風習や呪術に用いる例も見られた。ファンタジー小説「ゲド戦記」では、真の名を知ることでその対象を支配し、魔法を扱える独自の世界が構築されている。現代の一般社会では名前は記号としての性質が強くなっているが、それでも個人情報を引き出す上での重要な鍵であることは間違いない。ある面、現代の情報化社会では過去よりも支配力を持つかもしれない。
しかし、前述したように名前が重なってしまうと問題を起こすことがある。もちろん人間関係の中では会話の文脈などから類推が可能だが、これがコンピューターの中となれば大きな問題となる。このため、通常は個人情報には鍵となる通し番号をつけて扱っている。また、ウェブサイトのアドレスはデータファイル個々の名前としても定義されており、アドレスを打ち込んでウェブサイトを見るという行為は、実は名前を呼んで情報を呼び出す行為としても定義できる。この定義の拡張として、本の裏表紙に付けられているISBNコードもネットワーク上で書籍を特定する名前として使われ始めている。
コンピューターが情報をやり取りする際に使われるXML等の周辺では近年、統制語彙の概念が重要である。統制語彙とは、あらかじめ個々の概念に対応する語を定め、その語彙群により文章や情報を記述することで検索や索引作りを可能にしようという手法である。図書館における図書の分類番号なども統制語彙の一つであり、また昨年辺りからWeb技術関係で騒がれているHTML5でもSchema.orgなどの語彙が整備されつつある。
先日サイトに置く自己紹介の情報記述方法を調べていたところ、BIOという統制語彙を見つけた。これを用いると、人物の生まれた日、結婚した場所、人物描写などの情報を統制語彙により整理できるわけだ。そこで詳しく見ていくと、一文で伝記的に紹介をするための語彙が見つけられた。だが、たった一文で人物を描写するとはかなり乱暴な話だ。他の語彙を見るとキーワードを並べるという語彙もあり、なおさら奇妙な印象を受けた。この語彙群は人間そのものを属性情報の集合としてしか捉えていないように思う。
だが、様々な大衆娯楽物における人物描写の多くは属性情報化した人間が意外に多いかもしれない。水戸黄門のテレビドラマ辺りはもはや確信犯的で、誰がどのような行動をとるのかは既定となっている。だから、水戸黄門一行の名前は印象に残っているが、悪役側や助けられる側の名前はほとんど印象がない。極端な話、彼らは代官、農民、商人という属性と、悪役か助けられる側かという属性を持つだけの名無しの何かで構わないのだ。
この属性という言葉はここ数年前まで主に技術分野で用いられ、人物を対象としてはあまり使われることのなかった言葉だと思う。しかし近年、いわゆるオタク関係の世界では「彼は○○属性の人」という奇妙な言い回しを使う人が増えてきた。ここで言う「○○属性」は「○○が好み」程度ととりあえず理解してもらえば良い。
この「属性」と切り離せない概念が「萌え」である。三省堂書店のデイリー新語辞典でこの言葉の意味を調べると、「マンガ・アニメ・ゲームの少女キャラなどに、疑似恋愛的な好意を抱く様子」とある。実際の用法をネット上で観察してみると、猫耳萌えだとか眼鏡っ子萌えとかドジっ子萌えだとか、ますます怪しげな表現になってくる。だが注意深く見ると、一つのキャラクターを指し示す用法を除けば、そのほとんどが端的な外見、もしくは行動の極端な類型化に集中している。「萌え」は擬似恋愛的と言われつつ、実態はある類型に対する強烈な嗜好と言い換えられるだろう。
少し前になるが、純愛ブームで「世界の中心で、愛を叫ぶ」や「電車男」などの出版物が多く売れた。これらの作品に共通して言われるのが「泣ける作品」である。読めばどのような感動をするのか最初から規定した上で販売しているわけで、読者の感動を「泣く」という形に類型化している。このような類型化はある面、前述の「萌え」と同根の類型化にあるように思えるのだ。
このような類型化は、入力に対する応答を属性値に基づいて定型的に行うプログラム的な発想だと思う。だがその発想が生まれ、かつ受容されている現実を見れば、それは仕掛ける人間の驕りというよりもむしろ、現実に社会に生きている人間そのものが次第に属性値の集合へと変貌してきたように私は感じるのだ。
人間の類型化・属性値集合化は同時に、異質なものに対する強烈な排除指向を有する。それは相手に対する理解が、単なる自身との同型なのか否かの類型検査に過ぎなくなるからだ。極端な話、相手と合うかどうかを見る視座がATMのパスワードチェックと大して変わらないものになるわけだ。類型化した私たちを描写するには、キーワードや一行の簡潔な文があれば充分だろう。その類型を示す属性値さえわかれば、その人間の行動が予測可能になるからだ。
それは機械ではないのか。そんな問いが聞こえる。だが私たちはそもそも本当に機械ではないのか。単なる自己改造プログラムではないのか。そしてなぜ、私たちは機械を人間に近づけようとし続けるのか。神は神自身を模倣して人を創ったという。だからこそ私たちは私たち自身を模倣して機械を創る。模倣されたものに私たちの端的な特徴が顕れることは自然である。そして機械は純粋である。私たち人間に見られるような不純性はその特性上持ちえない。その純粋さは一面、神に似るように私は思える。そして能力の強大さは既に多くが人間を超越しつつある。私たちは将来、類型化の道を通じて機械と神と人の合一を見られるのかもしれない。
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