小説や創作文芸のサイトも含め、Web上の文章はそのほとんどが横書きである。このページも見たとおり横書きで作成している。だが、作家や読書家の中には、ネット上の横書き文化に強い抵抗感を感じる人もいるようだ。そんな中には強引な人もいて、縦書きに見えるような表組みを行う人や、1文字ずつ配列するスクリプトなどを使っているサイトもある。ブラウザーの一部では縦書きの独自仕様スタイルシートが半端ながら実装され始めたようだ。
ここでいったん立ち止まって考えると、そもそも縦書きにこだわる理由はどこにあるだろうか。単に伝統や文化という言葉で捉えるのは易しいが、では横書きになった途端に雲散霧消してしまうほど日本の文化は軽佻浮薄ではないと思う。
日常生活を見回したとき、縦書きの文はどれほどあるだろうか。国語の先生や伝統文化に深い関わりのある仕事をしている人を除けば、ほとんどの人は横書きの方が多いと思う。見積書も経理簿も縦書きのものなど見たことはないし、役所の文書や法律文も横書き化されている。スーパーの広告ですら、縦書きは大売出しの幟ぐらいのものだ。
では逆に必ず縦書きのものが何かと考えると、文芸書や新書などの本、漫画の台詞、新聞や雑誌の記事ぐらいだろう。つまり、いずれにしろ出版物なのだ。この状況を見ると、やはり正しい日本語は縦書きが適切なのだろう、という推測も出てくる。しかし、「日本語に縦書きが適しているから本は縦書き」と「本は縦書きだから日本語に適している」という二つは似ているようで全く違う。これが通るのならば、普段の生活を横書きで過ごしている我々は、日本語に適さない生活様式の中で日本語を使っているという奇妙な話になってしまう。
これらの縦書きグループに改めて視線を向けると、実は逆に普段の生活から距離を置いている存在なのだ。殺人事件、交通事故、国会の政治、経済記事など、長期的には別として、いずれにしても新聞記事の中身が毎日の生活と直結している人はそういまい。まして芸能記事などはネットの向こうより距離がある。小説についても考えてみると、これもやはり架空の世界である。もちろん私小説という分野も存在はしているが、それが新聞記事以上に事実で読者の生活に密着しているなど常識的にありえない話だろう。客観的に考えれば、正しい日本語という考え方自体もかなり架空の匂いがする言葉である。
こういった縦書きグループは、生活への密着度の低さから存在しなくても生きていくには困らないものだ。情報源としても、テレビやインターネットといった電気通信事業に基づくマスメディアの方が、新聞や週刊誌といった縦書きグループの一員であるマスメディア群よりも手軽で迅速である。このことは、縦書きで表現された文章は贅沢な余暇の娯楽に限られつつあることを暗示しているように思える。
現代、パソコンは普及し携帯電話も一人一台の時代となった。その一方、ゆったりと縦書きの文章を読み書きする時間を持つことは前述のとおり贅沢となっている。縦書きの文章はむしろ、機械では得られない贅沢の閾を示しているのかもしれない。
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