冷却シートを使ったことはあるだろうか。発熱したとき額に貼るだけで熱冷ましになるという商品で、これがあれば熱冷ましのおしぼりや氷枕はいらない。独身者には重宝な商品なので、私も常にきらさないようにしている。風邪のときに限らず、疲れたときや頭の回転が鈍いときにもこれで冷やすと気持ちが良いものだ。その一方で、最近は足湯も注目されている。これは湯に足だけを浸けて暖めるという健康法で、風邪に罹りずらくなるなど様々な効果が期待できるという。頭寒足熱という言葉があるぐらいなのだから、足は暖め頭は冷やしておくことは本来体に良いようだ。
話は変わるが、興奮状態にある人を落ち着かせるときにどのような言葉を掛けるだろうか。もちろん人によって様々だと思うが、「頭を冷やせ」という言い方は一般的だと思う。やはり頭寒足熱の原理で、頭が熱いときにはまともな判断が出来なくなるものなのだろう。一方、心に関係して「足を暖めろ」という言い方は聞いたことがないが、直接的に「心暖まる話」という言い回しはもはや使い古されている感すらある。頭はどちらかというと理性の印象があるから、理性は冷やして感情は暖めるという心の冷暖房が理想のようだ。
ところが世間を見たとき、心への冷暖房は最近、逆になっているように思える。平成16年のイラク自衛隊派遣では、一種異様な興奮を抱く者と、諦めや無関心というどこか冷めた発想が大きかったような気がする。一部の現実を見据えた、という説明も緻密な現状分析という理性的な判断よりはむしろ、単なる現状肯定に過ぎない冷めた感情の表出だったように思う。このような心の冷暖房の逆転は、牛肉騒動に代表される食の安全への反応でも同様だ。根拠の曖昧な健康ブームや商品の謳い文句が氾濫する一方、流通上での無責任な問題が頻発する。その上、商品への厳格過ぎる期待など、我儘としか思えない消費者の要求も増大している。これらは社会全体に対する行動が、頭は過熱し心が冷え切っている証左と言えるだろう。しかし、過熱した頭では状況を把握できないし、冷え切った心はその問題性を感じ取れない。そんなときに、心と頭の温度をどのように調節すれば良いのだろうか。
音楽を聴いたり、絵を見たりしたとき、人間は平時と異なった刺激に反応する。このときの反応を一般に感動と呼ぶのだが、感動は心や思考を様々に搔き混ぜてくれる。この撹拌こそが、心と頭の冷暖房を制御する手段であるように私には思える。だからこそ、流行曲はその時代を強く反映するのだ。近年は著作権ビジネスが注目されている。音楽CDもかつてのバブル期ほどの勢いはないにせよ、経済的に重要な位置を占め続けている。ここに、制御の崩れた冷暖房の中で制御を求める人々の流れは容易に見つけることができる。私たちは今も、私だけの、今の時代だからこその冷暖房を求めて文化を浪費し続けているのだ。
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