文芸船

無駄の効用

 貧乏性とでも言うのだろうか、私は短い時間に様々な用件をを詰め込んで動く癖がある。子供の頃はかなりのろまな方で、そのぶん用意周到に準備万端で進む癖がついたように思う。そのうえ二年間だけ働いた前職は予定の立たないことこの上ない職場だったことが拍車をかけたようだ。もちろん社会的には準備万端で取り掛かることは良いことだし時間を無駄にしないことも評価される。ただ、物事は何でも程度の問題で度が過ぎると良いことばかりではない。

 昨年度は職場の状況もあって仕事が立て込んでしまい、かなりきつい日程で動いていた。その一方、高速で仕事を進められることには快感もあったし、高速並行で事務を進めていくうち高速道路を走行する視野のように先まで見通しながら動く高揚感も悪いものではなかった。ところが、今年度に転勤して通常速度に戻ってからどうも妙な疲労感に気付いてきた。まず、昨年度は少し早く帰っても食事直後に仮眠のように眠ることがよくあった。また頭痛とまではいかないが、頭に圧迫感のようなもの。さらに今、キーボードを打つと指先に痺れるような痛みが出ることがある。今はとりあえず睡眠や頭痛もどきはほとんど無くなったのだが、そのぶん明確な症状に隠れて気付かなかった微妙な変調と疲れに気付くことがずいぶんとある。無理を作業速度の向上でこなしてしまう方法はかなり肉体に負担を強いるらしい。つい最近も転んで捻挫してしまったが、それも集中力の途切れとは無縁ではないような気がしている。

 幸い転勤があったおかげで多忙さから少し離れたこともあり、これを機会に少しのんびりしてみようと考えたのだが、何かと作業や勉強を詰め込む癖がついてしまいなかなか難しい。何より時間が無駄ではないかという考えがもたげてくる。そんなわけで考えたのが、敢えて効率的な機器の使用を抑制してみることにした。例えば短い距離なら歩いて買い物に行く、コンビニエンスストアよりも地元の小さな商店を使ってみるといったことだ。このような方法を採ってみたところ、一つの作業を完了するのに余計に時間がかかっているというのに、逆にのんびりできてしまうのだ。もちろん仕事ではなかなか難しいことだが、私用であれば思い切って諦めてしまう余裕が生まれるようだ。そのようにして生まれた余裕の中で、例えばお菓子選びを即決せずに色々と迷ってみるとか、ぼんやりと公園を散歩してみるといった気持ちが起きてくる。つい先日も近所の和菓子店から和生菓子の練り切りを一つとペットボトル入りの緑茶を一つ買って公園でぼんやりしてみた。まだ桜も咲く前なので人影もなくゆったりした時間だった。

 機械の導入による労働強化は各種の労働運動で論じられている話でもあるし、それによる歯車化などはチャップリン映画の「モダン・タイムス」をはじめ有名な話だ。ただ、そういった問題はあるにしろ機械化は効率化により生産性を上げ、価値を高めてくれるはずだ。労働ではなく私的な活動であれば、理屈上は私的な時間はより充実するように思える。それがむしろ、不便な状態の方に充実を感じてしまうのはどういうことだろう。それとも、機械で省力化して減らした時間は実は無駄ではないというのだろうか。

 無駄を削り込んでいく際、何をどこまで削って良いものなのか悩ましい部分がある。必要なものまで削るわけにはいかない。そしてそれ以上に、単なる主観で残しておきたいものもある。それでも削り込んでいくとき、最大の問題にぶつかってしまう。自分の大切と思っているものは本当に必要性があるのだろうかと。その一方で、省力化と集約により我々はより多くの情報を処理しなければならなくなっていく。膨大な類似の作業を繰り返していくうちに、自分だけの大切なものが、単なる属性集団の一部に成り下がる。そして自分自身もそういったその他大勢の一部としてしか認識できなくなっていく。属性に成り下がったうえで、再び自分を見つめるのだ。私は必要なのだろうか。その冷たい問いに我々はこわばっていくしかなくなるのだ。

 だが、無駄な時間は無駄を肯定してくれる。無用だろうが有用だろうが、そこに在ることを受け入れさせてくれるのだ。無駄な時間は我々の心をゆっくりとほぐし、空っぽな頭脳に受け入れるゆとりができる。本当に必要なことまで出来なくなる無駄な時間は勘弁だが、適度な無駄な時間はむしろ有用なようだ。そう考えれば、私たち人間にとって無駄な瞬間など本当は何もないのかもしれない。

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