、山口県立光高等学校で在校生による爆破事件があった。その事件について新聞記事やテレビ、数々のブログで採り上げられている。マスコミはその事件の経緯、ブログは事件に対する感想が大部分を占めているようだ。どの情報媒体にしろ、その多くは事件の原因を探ろうと考えていると思う。
しかし今回の爆弾のように事件に用いられた手段が特殊であった場合、その手段や情報の入手経路にも深い関心が寄せられる。今回はやはり、というべきかインターネット上のWebサイトが情報の入手経路だった。この件以外にも、近年は練炭を用いた集団自殺やフィッシング詐欺、個人情報の漏洩などインターネットと関わりの強い事件が急激に増大している。このためインターネット上の情報管理について行政による制限や、子供からのアクセスを制限する方法などが語られることも多くなってきている。
だが少し考えてみると、これらの問題の解決をインターネットの制限に求めることは早計である。なぜならネットが与えているものは真に情報のみであるからだ。もし爆弾の作り方を図書館から借りた本で知ったとしたら図書館の利用年齢を18歳以上に引き上げるだろうか。実際、今回の事件を引き起こしたのは高校生である。理系大学の進学を狙っている生徒なら大学初等程度の本を読むことも不可能ではないし、まして理論そのものよりも目先の技術的な本であれば、かなり高度な本まで読める生徒は意外に多いものだ。だからと言って、高校生以下の生徒が大学以上の学術書にあたることを禁止する行為はむしろ有害であろう。
インターネットに対して制限を行おうという意見は、新しいものへの漠然とした不安と、新しいものに原因を押し付けて済ませたいという非常に情緒的な思考がその本当の理由だと思う。なぜなら、前述したような「きちんとした本」やマスコミが情報源だった場合には制限しようという意見は少数派か、または全く現れないからだ。一方で、知らなければ事件を起こせなかったであろうということも事実である。だが、世の中のほとんどの人は人間を刃物で刺せば殺傷できることを知っている。それでも実行する人はまれである。殺傷してはいけないことを知っているからだ。無知による不可能性に頼ることは、この事実から目を逸らす行為でしかない。
ソクラテスは「無知の知」を語り、私たちがほとんど何も知らないことを示した。この「無知の知」を知っていることは社会人としても良いとされるだろう。しかし私はむしろ、人間は意外に知っていると思う。中途半端に、断片的に物事を知っている。生とは何か、死とは何かと正面から問われれば回答に詰まるが、漠然とした何らかの感覚はあると思う。私たちは幼いうちに既に死のあることを知る。そして死と対比される生を感じ取っている。もし生も死も全く理解できなければ人を殺すこともないだろう。ゲームのせいで死を理解できない子が増えているという人もいるが、ゲームの中でも死はある。ただ、その死が現実のものと異なるため誤解を招いているだけのことだ。
生や死のような、概念に対する漠然とした感覚は生身の人間関係が重要な鍵になるのだが、それと同じくらい断片的な知識は重要な価値を持つ。なぜなら誰も正解を知らないからだ。正解のない問いには各々が自ら回答を創るしかない。そのためにはとにかく断片でも良いから多様な知識と経験を要するのだ。そのような断片的な知識は、その単語や使われる地域、文字などの小さなものを手がかりにすると体系化していくことも可能である。
しかし、社会には多様な人間がいる。例えば障害者という表記の「害」という文字に対して強い反発を感じる人がいることから、近年は「障がい者」という表記を行う傾向にある。しかしこの言葉は歴史を辿ると「障碍者」であり、もちろん意味は「障碍を有した者」である。しかし「障がい者」と表記した場合、「障がい」とは何なのか。福祉にしか使われない特殊な用語として独り歩きすることで、言葉が孤独化する。孤独化している言葉ほど力が弱いことは、数学用語やコンピューターの技術用語に対する一般の反発を見れば明らかであろう。しかしそれでも、不快だという人がいれば抑えられれてしまう。表現を喪ってしまう現代の風潮は、表面上は優しくとも実際には互いに世界を細かく分断しているだけのように思える。
我々の遠い先祖は死を知ってしまった。だから生を大切にできる。そして人の命を殺める。我々はおそらく永久に死を忘却できないだろう。知恵の実を食べる前の楽園に人間が戻る道は永久に閉ざされている。無知と分断に頼るのではなく、知によって生が互いに結びつき救い合うことこそが我々に残された救済の道である。
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