最近はリサイクルショップが多く見られるようになった。リサイクルという言葉の印象が良いことや、環境への配慮は善であるという社会的合意が形成されつつあること、それからデフレも原因に挙げられるだろうか。また、最近のリサイクルショップは質流れのような陰気な印象を払拭し、明るい店舗が多いことも消費者に安心感を与えているように思う。他にもフリーマーケットやネットオークションのような個人間での売買の場も随分と広がってきたようだ。
先日、チェーン店舗形式のリサイクルショップを覗いてみた。単なる中古品販売の店なので、衣料品や日用品、パソコンやオーディオ類など様々な物が置いてある。古すぎるパソコンや壊れた物はジャンク品とされており、その中には私が子どもの頃にあったパソコンが見つけられたりして面白かった。
その中で興味深かったのが蓄音機である。背の高い木製の台と銀色のS字型に曲がった腕を持つ、昔のレコードプレーヤーだ。製造当時は高価であっただろうが、どう考えてもかなり古いものだ。ところが、これはジャンク品どころか丁寧に檻の中にしまわれており、二十五万円という値段がついていた。あの店舗ではかなり高価な部類に属するだろう。一部の好事家は高価で取引しているからなのだろうが、他のジャンク品として積まれた機械類との差に奇妙な感覚を覚えた。
だがよく考えてみると、やはりその蓄音機にはそれなりの価値があるようにも思えた。動作や音質という問題以上に、その蓄音機はその場に強い存在感を与えていたのだ。単なる機械としてあるのではなく、極端な言い方をすれば鑑賞に堪える姿態を持った機械だと感じた。一方、ジャンク品にあったテレビ類や古いパソコン類には機械の成れの果てとしか感じられなかった。
もちろん芸術のデザインと工業デザインは必ずしも一致しない。だが、工業デザインにも機能美という美の概念は存在する。我々が美しいと感じる巻貝の螺旋も非常に整理された対数式で表現できることからわかるとおり、美が謎めいた感性の独占物ではない。それを思うと、前述のジャンク品たちにはそういった法則性すら弱かったということなのだろう。
近年はパソコンを代表として機械類の世代交代は速くなっている上、買い替えの頻度も上がってきている。その一方でリサイクル法を含め廃棄物規制は厳しい方向にある。そうした中では中古品はさらに増える可能性はある。しかしそれら多数の機械たちの中で、あの蓄音機のように存在感を与えられる物はどれだけあるだろうか。そして、ほぼ役割を終えた時代にもなお、その美を主張できるほどの物はどれほど残るのだろうか。もし、現在生産されている物のほとんどがジャンク品になってしまうとすれば、それはその程度の物しか育てられなかった我々消費者にも責めはあるだろう。ときには機械たちを鑑賞することもまた、私たちの責務であるように思えるのだ。
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